Ⅲ-1 お見舞いの心得
ホテルの戦闘を終えてから五時間弱、ずっと歩き続けていたにも拘らずクロは疲れを見せていない。けれど隣を歩くローザは見るからに疲れ、足を動かすのすら辛そうな有様だ。
「ローザ、やはり手を……じゃないな。背を貸そうか?」
見兼ねたクロが本日何度目かの助け舟を出すが、ローザはまたも断る。
「クロの体力馬鹿」
「詰まらない意地を張るな。フラフラしているぞ」
「もう少しで着く。だから大丈夫」
けれどこの近辺の地図を頭に叩き込んでいたクロは、ローザの目的地が”もう少し”でないことも知っている。ローザの住居――ロシア人住宅街まで、徒歩だと最低一時間は掛かる。今のローザのペースだともっと掛かるに違いない。
「ローザ、相棒の申し出に遠慮は無用だ」
「そんなに、私を背負いたいの?」
「ああ、俺に背負われてくれ。それが信頼だ、違うか?」
ローザは押し黙り、渋々クロの申し出を了承する。クロの背中は冷たく、けれど体を密着させた先からは確実にクロの温もりが伝わってくる。
「クロは卑怯」
「何がだ?」
「そんなに強いのに、まるで誇る風もない。男性は皆、もっと自分の力を顕示するものだと思っていた。なのにクロは違う。黙々と自分の出来ることをやっている。そんな力があるのに、卑怯……」
その言い分にクロはムッとして言い返そうとするが、寸前の所で思い留まる。
絶体絶命をシロに庇われ、そしてシロを取り戻す努力をせずに呆然と時間を浪費した自分は、卑怯としか言えなかった。
「クロ、ごめん」
沈むクロの様子を察したローザは謝るが、クロは何も答えずに二人を気まずい沈黙が包む。空は明るみ、人通りも次第に増えだした。けれども二人は、無人の荒野を進む旅人のように黙々と歩いていった。好奇の目を向ける者はいても、その足取りを妨げる者は誰もいない。
「クロ、そろそろ降ろして」
ロシア人住宅街に入り、思い出したかのようにローザは狼狽し始める。クロも背中で身動ぎするローザをこれ以上背負う理由もなく、素直に開放する。
ロシア人住宅街と言えば聞こえはいいが、住民の八割は在満州ロシア軍の軍人とその家族である。つまりここで仕掛けるということは、そのままロシア軍そのものを敵に回すことになる。未来が見えようが見えまいが関係ない、一種の安全地帯とも言える場所であった。
時刻は八時前――出勤する軍人にそれを見送る家族が、クロを連れたローザを珍しそうに眺める。中には軽く挨拶を投げ掛ける者もいたが、誰もがクロに見定めるような視線を向けていた。
「Ваш любовник?」
「Станьте тихим!」
時折若い男たちが冷やかすように声を掛け、ローザが怒鳴るようにして追い払う。そのやり取りの回数が重ねられるにつれて、クロはこのロシア人住宅街で疎外感とは少し違う居心地悪さを感じていた。
「…………少し、離れて歩いたほうがいいか?」
「気にしないで、クロ」
ローザはクロの手を握り、しっかりと引いて朝日の中を歩いていく。ローザはいつも以上に早足で、クロも引き摺られるようにして付いていく。
好奇の目に晒されながら歩くこと五分、二人は四階建てのマンションに到着する。レンガ模様の壁はシックな茶色で統一され、明治時代の欧州を真似た外観をしていた。女性が好みそうなお洒落な建物であったが、高層ビルと近代建築が並ぶ長春市の景観では明らかに浮いていた。
「ここの二階が私の部屋」
マンションの正面入り口、そのオートロックを開錠しながらローザが当たり障りないことを口にする。
「本来なら私の所属は東部方面軍独立実験中隊、本拠地はヴラジヴォストーク。でも部隊は偽装で所属人数は三十人もいない筈」
「特殊部隊みたいなモノか? その割には妙に目立っていたが」
「実験部隊なだけ、特に秘密ではない」
「そういうものなのか……」
「そういうものなの」
気づくと二人は螺旋階段を昇り終え、扉の前に立っていた。日本の住居のような表札はないが、ローザが豊満な胸元から取り出した鍵を見てクロは理解した。
「ここがローザの部屋か」
「そう。数日振りの帰宅」
「独り暮らしなのか? 家族とかは?」
凝った作りのランプ型電灯を眺めながら何気なく呟いた一言に、ローザはピクリと身を震わせる。その様子を敏感に察したクロは、敢て何も言わずにローザの反応を待つ。
ローザはクロを部屋の中に押し込み、鍵を掛けると口を開いた。
「クロ、ベラルーシって国、知ってる?」
「当然だ。ベラルーシは白ロシアと呼ばれ、かつてソビエト崩壊に伴い独立を果たした国の一つだが、十五年前に欧州連合との貿易摩擦という名の一方的搾取で経済が崩壊、国はロシア連邦に編入され、今は自治権こそ握っているものの連邦の一国として独立はしていない。それが今のベラルーシだ。古くはポロツク公国が彼の地で栄え、後にノヴゴロド公国やモンゴル人の――――」
得意気に語り出したクロの口をローザは慌てて塞ごうと手を伸ばすが、三十センチ近い身長差のある二人のそうした行動は、まるで大人に取り上げられた玩具を必死に取り返そうと手を伸ばす子供にしか見えなかった。
それでもクロを黙らせることに成功したローザは、可能な限り毅然とした態度に持ち直して続きを伝える。
「私の故郷、ベラルーシはクロの言う通り欧州連合の圧力によって瓦解した。貧困と混乱が吹き荒れ、暴動が発生した。その最中で私も家族を失った。故国と同じようにロシアに編入された国々には同じような人種が多く、ロシア国内にも同じように傷を抱える人も多い。だから家族について、あまり気軽に尋ねない方がいい」
クロは神妙に頷き、ローザの忠告を受け入れる。しかし口にした言葉は気遣いとは程遠かった。
「恨んではいないのか?」
「……誰を、何を?」
「今までの生活を壊した奴らを。間接的に両親を殺した奴らを」
ローザにそんな問い掛けをしたクロは目を逸らさず、真剣な面持ちのままローザの灰色の瞳を覗き込んでいた。ローザもその様子を察して誠実な答えを用意する。
「考えたことがない。私は生きるのに必死で、拾ってくれた皆に感謝しても誰かを恨むなどなかった。ねえ、クロ。それって変なこと?」
「変……?」
「私は、私に深く関わった人は死ぬ。死神のようだと、今の部隊に配属される前は、西部方面軍にいた時は多くの人から、味方からも、敵からも、見知らぬ人からも、そう言われた。きっと死んだ多くの人たちが私を恨んでいる。生きている人たちはその代弁をしているだけ」
「生きていられることには感謝しないといけない。それが自然で、普通だと信じている」
「重いな……」と、クロはローザの言葉を聞き浮かび上がった率直な感想を口にする。それはローザの生死観か体験かなどはクロ自身にもはっきりと分からなかった。だが自分がシロと過ごしていた期間に、ローザは地獄のような思いをしてきたのは確かだった。
「そう、私は重い。クロには期待している。共に目的を遂げるまで、私の期待に応え続けて」
ローザは気を悪くした風もなくニッコリと微笑む。
それはクロが初めて見たローザの表情であり、この十五年でローザが笑顔を向けた久しぶりの相手であった。
トントンとリズミカルに動く包丁の音、部屋に満ちた美味しそうな香りに誘われた自身の唾を飲み込む音、鍋が湯気を立ち昇らせながらコトコトと揺れる音を聞き流しながら、クロは一枚一枚じっくちと眺めながらページを捲る。
「クロ、そろそろ出来上がる」
キッチンから顔を出したローザがそう告げると、クロはローザから借りた日本語の辞書から顔を上げる。とても使い込まれた辞書だ。ローザが日本語の勉強に使う辞書であるこれは、言うまでもなく表記の半分はロシア語である。
オーブンが焼き上がりを告げ、こんがりと芳ばしい香りが満ちる。
「いい匂いがするな」
「料理は得意。有り合わせだけど、きっと美味しい」
クロは辞書を元の本棚に戻して席に着く。ローザは白い湯気が立つ料理をテーブルに並べていく。「いただきます」とクロは両手を合わせ、ローザも「日本方式?」と感心しながらそれを真似る。
並べられた料理はこんがり焼けたパンにコンソメの香りが際立つスープの二つだけであったが、寒い外を歩き続けたクロにとっては有難かった。
「これはピロシキ、スープは普通のコンソメ。…………美味しい?」
「ああ。ロシア料理は初めてだが、嫌いな味ではない。体の芯から温まる」
「良かった。沢山あるから、どんどん食べて」
パクパクとピロシキを口に運ぶクロを見て、ローザは満足気な笑みを向ける。クロは三個目のピロシキを平らげた辺りで、ふと手を止める。
「そういえば上手になったな、ローザ」
「何が、クロ?」
「日本語だ。一日も経っていないのに、随分と滑らかになった気がする」
クロとローザの二人はそれほど口数が多い方ではない。けれど半日以上母国語を使わずに日本語のみで会話を行っていた。
「基礎は出来ていた。実践する機会がなかっただけ」
それらを考慮して尚、ローザの上達ぶりは目を見張るものである。極東方面に力を入れ始めたロシアにとって、日本は軍事的にも経済的にも切っても切れない縁を持つ相棒である。軍の教育課程の一環として日本語の習得などもあるのかもしれない。
そんなクロの考えを一蹴するような一言を、ローザは躊躇いなく口にする。
「日本語の習得は、刷り込まれた習性に近い。何時かは忘れた。でもある日、『日本語はキミの将来を左右する』……、そんなことを言われて、ずっとその言葉が頭から離れなかった」
ローザの口調は淡々と、けれど瞳は遠い昔を見つめていた。
そしてローザがあるかどうかも分からない続きを喋り始める前に、「誰に?」とクロは反射的に尋ねていた。それは幼いローザに――日本から遠く離れたベラルーシ生まれの少女に日本語の習得を薦めた奇特な人物に興味があったからであり、彼もしくは彼女がいなければローザとこうして食卓を囲むこともなかったのだと薄らと察したからである。
「覚えていない。あの頃の私は死ぬ寸前まで衰弱していた。ボロ布一枚で路地に座り、必ず訪れる冬を――死を待つ存在だった」
ローザはその頃の寒さを思い出したのか自分の体を抱く。温かいスープとピロシキも心なしか冷め、クロもローザの漂わせる雰囲気に飲まれそうになる。
咄嗟に場を持たせようとローザは次のピロシキを勧めるが、その体が不意に震える。
「クロ、ちょっとごめん」
ローザはクロに断りを入れると、小さなバイブ音を鳴らし続ける携帯端末を片手にキッチンの方へと向かう。クロはピロシキを咥えたままローザが戻ってくるのを待ち、それを食べ終えた頃にローザは戻ってきた。
その表情はどこか翳り、テーブルの食事とクロ、そして掛けられた二人のコートを眺め口を開く。
「クロ、ちょっと上官から呼び出しが掛かった」
ローザはコートを羽織りながら状況を伝える。
「お目付け役が殺された件の説明責任と定時報告を同時に行えと指令が来た。長くても一時間で戻る。クロはここで待っていて」
「俺もついていこうか?」
「まだ料理が残っている。ゆっくり食べて、英気を養って。もし何かあったら私の携帯に、私も何かあればクロの携帯に連絡する」
そう言うとローザはピロシキを一つ掴み、クロの口に押し込む。そして弾丸のような勢いをそのままに扉を開け、外に飛び出していった。
クロは呆然とローザを見送った後、両手の指の数ほどあるピロシキを見て冷や汗を流す。
「まさか、俺が残り全部食べるのか……?」
ロシア料理は量が多い。クロが満州に来て、一番最初に学んだことがそれであった。
神様の言うとおり見てきました
色々酷かった、今年ワースト3に余裕のランクイン




