Ⅱ-3
「てめぇ、なんで動ける……!!」
テンガロンハットの男はナイフをローザに向けたまま問い掛けるが、クロは微動だにせず答える。
「心臓が止まっていないからだ。分かり易いだろ?」
「は……――ッ! ざけんじゃねーぞ!!」
予想外の返答に呆けたテンガロンハットの男は激昂し――けれども動きは冷静に、適切な角度でナイフをクロに向けて滑らせる。
今まで何度もそうしたように、テンガロンハットの男の『延長』された攻撃がクロを襲うが、今までとは大きく違う点が、一つだけあった。
「遅いな」
クロは元鋏の投げナイフでテンガロンハットの男の攻撃をあっさりと受け止める。
一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたテンガロンハットの男は即座に表情を険しいモノに作り変える。
「ちっ……、あれだけ何度も使ったら馬鹿でも分かるな」
テンガロンハットの男――ヨーゼフ・ロートは『延長』した不可視のナイフで鍔迫り合いを続けながら、自嘲するように吐き捨てる。けれど内面には自嘲出来るような余裕は残されておらず、正面に立つ倒した筈の男に対しての立ち回り方を思考するだけで手一杯であった。
暖房で温められた部屋の中で、ヨーゼフはナイフを握った手の平に汗が滲むのを感じる。
ヨーゼフの攻撃をクロは易々と防いだが、普通は『延長』した不可視のナイフは防ぐどころか見極めることですら困難である。通常の近接戦闘では攻防の遣り取りは映画ほど頻繁に行われない。一撃で決まるか、牽制を回避し続けて本命を引き当てるか。正常な思考回路なら、間違ってもナイフをナイフで受け止めるなんてことはしない。
攻めのナイフは見えず、返しの攻撃が届く位置に相手はいない。受けたとしても打つ手はないのだ。
ヨーゼフは相手の出方を窺いつつ、打開策を探る。
発散型の『魔法権利』を扱うヨーゼフにとって、逃げ場のない狭い室内で強化型と相対することは、自分を轢き殺そうと猛スピードで迫る自動車の進路に立っている状態と同じ――避けるのが遅ければ致命的な痛手を負い、避けるのが早ければ相手が相手は進路を悠々と変えて追ってくる。
必要なのは最適なタイミング。ヨーゼフは呼吸を整えて機会を待つ。
「お前たちの目的は、この際どうでもいい」
クロは拮抗を――ヨーゼフのナイフをあっさりと振り払い、一歩を踏み出す。ヨーゼフは半ば自棄になりながらナイフを振り回すが、クロは避け、弾き、距離を詰める。
「お前たちも、ニキも、どうでもいい」
「…………あ?」
「俺に必要なのは、ただ一人だけだ」
クロはヨーゼフの手からナイフを叩き落とす。それでも抵抗しようとするヨーゼフの胸倉を掴んで壁に叩き付ける。肺の中の空気を根こそぎ奪われてたヨーゼフは、それでも掠れた声を捻り出す。
「そんなにロシア人が大切か?」
クロは何も答えず、今度は力の限りヨーゼフの背中を床に叩き付ける。砂の詰まったバスケットボールのように鈍く跳ねたヨーゼフは、途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めてクロを睨む。
クロは倒れたヨーゼフを持ち上げ、耳元で小さく、そして簡潔に呟く。
「ローザはシロじゃない。見れば分かるだろ」
得体の知れない威圧感に押されたヨーゼフは渾身の力でクロを突き飛ばし、声にならない悲鳴をあげながら壁際まで後退る。その反応はジャングルの物陰に潜む大蛇を見つけた探検家のようで、目に見えぬ場所に手の施しようのない病巣を見つけた医者のようでもあった。
クロはいつもの無表情に若干の退屈を滲ませ、そんなヨーゼフから目を離した。
その背中を、ローザを押さえ込んでいた筈のクマのぬいぐるみが襲う。
「次はお前か?」
クマの標的がクロに移ったことで解放されたローザは、身体を起こしてその様子を眺める。
クロとクマ――ムスッとした男とデフォルメされた熊の戦いは、何の特色もない殴り合いであった。
クロは次々と繰り出されるクマの爪を蝶のような身軽さで躱していく。最低限のフットワークで野性を取り戻した鋭い攻撃を捌き、それでも余力を感じさせるクロの姿にローザは疑念を感じる。
クロは攻撃していない。時折手を出してはいたが、それは攻撃を逸らす為の最低限の行動であり、ダメージを与えようとする類のモノではなかった。
クマの爪はクロに致命傷を与えることが出来ずに宙を裂いていたが、遂に壁際まで追い詰める。クロは特に反撃を仕掛けようとしなかった今までの姿勢を崩し、コートの袖から取り出した二本の投げナイフを使ってクマの手首辺りを突き、そのまま切り飛ばす。
けれどもクマは止まらず、手首の切り落とされた腕でクロの頬を殴りつける。切断面から血の代わりにドロリとした黒い物体が流れ落ち、それは瞬時に元の形に――手首から先を再構築する。
クロはペッと口内に広がる鉄の味を吐き捨て、続けざまに拳を繰り出そうとしていたクマの体を『加速』した動作で蹴り飛ばす。クロと共に壁際まで迫っていた筈のクマは床を二転三転して反対側の壁に激突する。
それでも平然と立ち上がったクマを見て、クロは吐き捨てるように呟く。
「ローザ、撤収しよう。こいつと殺り合うのは時間の無駄だ」
迫ってきたクマを再び蹴飛ばしたクロは、返事を待たずにローザの手を取って立ち上がらせる。思った以上に強い力で引かれたローザは身体をクロに預け、意図せずに抱き合う形になる。
一瞬の合間――ローザが慌てて離れる直前に、クロは短く簡潔に耳打ちする。
クロの言葉を聞き取ったローザは深く頷き、単身で逃走経路の一つである窓際に駆け寄り、カーテンと窓を開く。三階という高さは落ちたら死ぬか死なないかの絶妙な高さではあるが、クロの身体能力とローザの『魔法権利』を駆使したなら、まず無傷で脱出可能な高さである。
ローザは宵闇に飛び出そうと窓枠に足を掛けたまま振り返り、室内を――クロを見る。
「私は先行して安全を確保する」
「ああ、任せた。後は手筈通りに、だ」
「了解。……気を付けて、クロ」
そう言うとローザは窓から飛び降りる。
既に逃走の選択を採用した二人にクマのぬいぐるみは仕掛けてくることはせず、ヨーゼフの傍で佇んでいる。ヨーゼフもある程度の余裕を取り戻していたが戦う気は完全に失い、壁に背を付けて座ったまま動かない。
任務を諦めて見送る体勢に入った二人に、クロは開けられた窓から入り込む風のように冷たく言い放つ。
「今回は見逃す――――お互いに、だ。それが気に入らないなら追って来い。もっとも追ってきたら容赦はしない」
ローザと同様にクロも飛び降りようと窓枠に足を掛ける。
「これから俺たちは、お前が雇った相手を探る。ホテルを買収したという言葉を信じて、遠慮なく追うぞ」
「ちょっと待て! …………いや、てめぇは敵の言葉を信じるのか?」
「”喋った”なら兎も角、俺に”喋らされた”言葉は疑う余地がない」
そう言うとクロは自身の目の下辺りにトントンと指で叩き、『魔法権利』の存在を示唆する。想像を遥かに超える深刻な展開にヨーゼフは顔を青くして手を伸ばす。けれどクロは『延長』されたヨーゼフの手から逃れ、窓の外に消えていく。
「待て! 待てぇッ!!」
えげつない遣り口に目を回しそうになりながら、ヨーゼフは飛び起きて窓に駆け寄る。
ヨーゼフは『相談屋』という組織に所属している。顧客から合法から非合法まで幅広い様々な依頼を受け、依頼人の代わりに先方に相談を持ち掛ける。時には話し合いで、時には暴力を駆使しても、先方に依頼人が示した条件を納得させるのだ。
仕事を請け負う以上、顧客情報の守秘義務は存在する。そして自らそれを漏らしたと知られれば課せられるペナルティは計り知れず、築き上げた『相談屋』の信頼は地に落ちてしまう。社長の夢が遠のいてしまう。
それだけは、絶対に避けなければッ!
ヨーゼフは隠れて『具現』を操るレイズィに二人が飛び降りた場所に向かうよう指示を出す。そして半ば無駄だと諦めつつも携帯端末を耳に当てたまま下を見る。
街灯に照らされた雪が灯りを反射していつも以上に明るい道には当然二人の姿はなく、足跡どころか飛び降りた形跡すら綺麗に無くなっていた。もう二人の跡すら負えない!
「くそっ!」
悪態を吐きながらも身を乗り出し目を凝らすヨーゼフに、思い掛けない場所から女の声が届く。
「本当に来た」
「しっかりと『挑発』したからな」
二人の声は後頭部から――ちょうど下を見下ろすヨーゼフの頭上から届いている。
まさか――と振り向いたその頬に、鋭い蹴りが突き刺さる。
「ここから出ていくのは、お前だ」
抵抗する間もなくヨーゼフは窓の外に蹴り出され、口に鉄の味を感じながらクロのブーツの裏を眺める。その先には二人が――四階の窓枠に掴まったローザと外壁の凹凸に掴まっていたクロは、今は自分の代わりに三階の窓枠に留まっている。
「足から落ちれば、死にはしない。…………多分な」
そんな役に立つかも分からない助言を受けながら、ヨーゼフは薄く雪の積もった路面に落ちていった。
ヨーゼフを蹴り落としたクロはそのままローザを受け止め、荒らされた室内を眺める。手榴弾の残骸に捲れ上がったカーペットの床、ひっくり返ったベッドに至る所に飛び散った血、そして溶けた氷―― 一見しただけでは何が起こったか理解出来ない有様であった。
額の汗を拭うローザを横目に、クロは懐から取り出した増血剤の錠剤を二粒だけ口に放り込む。即座に貧血が治まる便利な代物ではないが、あるとないとでは大きく変わる。身体が資本で頑丈な身体を維持しなければ戦えないクロにとって出血は天敵であり、嫌でも増血剤などの薬物に頼らなければならなかった。
乾燥した口内と熱を持った体が無性に水分を欲する。
「クロ、飲む?」
どこかに飲み物はないかと荒れた室内を見回すクロに、ローザは自分が飲んでいたペットボトルの水を投げて渡す。キンキンに冷えたペットボトルとローザを順に見て、どうしたものかとクロは黙る。
「クロは潔癖症?」
「いや、違う」
「なら相棒から渡された飲み物を躊躇わない。それが信頼」
クロは無意味に意識していた自分を恥じ、黙ってペットボトルの中身を半分ほど飲み、ローザに投げ返す。
「ありがとう、ローザ」
「礼はいらない。それより、これからどうするの?」
ペットボトルの中身を飲みながらローザが尋ね、クロは少しだけ悩み、答える。
「俺は外の掃除をしてくる。ローザはここで待っていてくれ」
「掃除?」
「敵がホテルを買収したのは本当らしい。非常階段から多数の足音だ」
「一人で行くの?」
「敵は恐らく銃を持っていて、廊下には遮蔽物が少ない。階段を昇り切る前に仕留める」
クロはそう言い残すと足音を殺して走り去る。そして僅かな銃声の悲鳴が届き、一分と経たずに右手とそこに握られた鋏を鮮血に染めたクロが戻ってくる。
「八人いた。恐らく民警の類で、別働隊もいる筈だ。応援はすぐに駆けつける。下から逃げるのは無しだ」
クロは右手に付着した血液の乾燥を『加速』させ、払い落とす。そして投げナイフをコートの内側に収めると廊下に歩き出る。飲みかけのボトルを飲み干して、ローザはクロの後を追う。
「ならどうするの?」
「上から逃げる。隣の建物との距離は三メートル弱、六階の窓からなら助走なしでも跳べる距離だ」
階段を昇りながら説明を加えるクロに、ローザは首を振り拒絶を示す。
「無理。私、三メートルも跳べない」
「訂正する。助走有りでローザを抱えて跳べる距離だ。問題ない」
しかしクロは立ち止まり、ローザの頭をポンポンと叩いて答える。年下の手が頭に置かれ、何とも言えぬ心情に陥ったローザはムッとした表情で先行する。
「それにローザはシロより小さく軽い」
低身長を気にしているローザは振り返りクロを睨むが
「その気になれば、抱えたまま百メートル十秒フラットも軽い」
そんなことを真顔で口にするクロを前に怒る気力は消え去ってしまった。
「二十年早く生まれていたら、クロはオリンピック選手になれた」
「代理戦争に国旗を背負わせた個人を投げ込んで見世物にするアレか? 無くなって正解だ。今同じルールでやっても、権利者の炙り出しにしかならない」
ローザはクロの言い分に眉根を寄せるが、ふと湧き上がった心当たりを口にする。
「ひょっとして、スポーツ嫌い?」
「子供の頃は大嫌いだった。今も体を動かすこと自体は嫌いではないが、誰かと一緒にやる気にはなれない。ローザは……いや、ロシアではどんなスポーツをするんだ?」
「スキーやスケート、ウィンタースポーツが主。私はスケートが得意」
そんな他愛もない話を続けながら階段を昇り続ける二人に、遥か下で発せられた怒声と悲鳴が届く。ローザは軽く首を振り、そっと呟く。
「下に降りたら、鉢合わせした」
「俺たちも急ごう、ローザ。追いつかれたら面倒だ」
「了解」
そうして二人はエレベーターの駆動音に追われながら、階段を昇って行った。
ドラキュラZERO見ました
ああいう終わり方大好きです




