湖畔の出会い
「個展の成功おめでとう」
「ありがとう。あなたがサロンで紹介してくださったおかげよ」
「私は素晴らしい作品が正当に評価されるべきだと思っただけ」
友人の屋敷でいただく紅茶は最高級で、心が解けてゆく。勧められるまま、ありがたくおかわりをいただいた。
「今後の予定は決めているの?」
「まだ……何も。また絵をゆっくり描きたいから、田舎にでも行こうかしら。……慰謝料旅行?」
「せめて『傷心旅行』にしなさいな。でも、離婚が成立してよかったじゃない。……よくあちらの厳格なご両親がお許しになったわね」
「子どもまでできたんじゃ、仕方がなかったんじゃない?……夫の寝所に潜り込む女を貞淑と言う気持ちは、さっぱりわからないけれど」
「……許しがたいわね。離婚して大正解よ」
「本当に彼の子なのかさえ、怪しいと思うけれどね。……三年も子どもが授からなかった私に、これ以上何も言う権利はなかったわ」
お互いに言葉を呑み込み、窓の外の庭園へ視線を逃す。
「……そうね。この季節なら、ここから少し北に向かうと静かな湖があるの。以前支援していた画家が使っていた別荘があるから、好きなだけ滞在してくるといいわ」
◇
館の周りを散策してみる。小さいけれど活気のある街並みに、少しずつ、心が躍っていく。
やってみたかったことに挑戦。さすがに外でやるのは気恥ずかしくて……買い込んだ果物を抱えて部屋に戻ってきた。
買ったばかりの瑞々しい丸ごとのりんごを一つ、思い切って齧ってみる。
( ……美味しい。来てよかった)
絵の具の香りがほのかに残る部屋の窓を開けると、美しい湖が一面に広がっていた。毎日この景色に出会えるなんて。
明日は湖のそばで、絵を描こう。
◇
緑が風に揺れる音に、愛らしい鳥の囀りが混じる。
対岸には小舟が見えた。乗ってみたいけれど、さすがに一人で漕ぎ出すのは難しいかもしれない。
悪路を想像して頑丈なブーツで来たけれど、道は驚くほど綺麗に整備されていた。
ときどきベンチも置かれている。手入れが行き届いていて、そこから見える景色がまたとびきり美しかった。
(ここの領主様は、この湖をとても大切にしていらっしゃるのね)
ありがたくベンチをお借りして、キャンバスに絵を描くことにした。
◇
絵に色が乗り始めた、ちょうどその時。
「あっ……!」
一陣の風が吹き抜け、お気に入りの帽子がさらわれていく。
慌てて追いかけたものの、帽子は少し高い木の枝に引っかかってしまった。
つま先立ちで背伸びしてみるけど、あと少し、指先が届かない。
「失礼」
不意に頭上から低く落ち着いた声が聞こえ、大きな手がすっと伸びた。
枝に引っかかっていた帽子が、ふわりと私の手元へと渡される。
「あ……ありがとうございます」
驚いて見上げると、そこにはシンプルなシャツ姿の背の高い男性が立っていた。
目深にハンチングを被っていて顔はあまりよく見えないが、無造作に革紐で束ねられた豊かな金髪に、無駄のない洗練された所作。
ラフな装いではあるものの、隠しきれない気品が彼から漂っている。
「湖から吹く風で……よくあることだ。街の雑貨屋で、帽子用のリボンを扱っている。赤い屋根の店なら、……その帽子に、似合いそうなものを置いているだろう。行ってみるといい」
彼は俯きがちにそれだけ告げると、風のように去っていった。
(不思議な人……でも、親切だわ)
立ち姿に言葉遣い……おそらく貴族だろう。
お礼を言い直せなかったことが気にかかる。
また会えるだろうかと考えながら、手元の帽子を見つめた。




