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辺境の廃塔管理人、気づけば住人が増えて小さな町になっていた 〜水とりんごだけの生活から始める異世界スローライフ〜  作者: 星海凡夫


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第1章 ~リンゴをくれる塔~

最初に感じたのは、寒さだった。


ドラマチックな痛みでもなければ、神々しい光が俺を包み込むでもなく、新しい生を告げる天上の音楽が流れるでもない。


寒い。


背中が寒い。指先が寒い。湿った石の床にくっついた右の頬が、これまた寒い。


ゆっくりと目を開けた。


頭上には、隙間だらけの黒ずんだ木の天井。板材と板材のあいだから、誰かが白い筋を描いたみたいに、細く淡い光が差し込んでいた。匂いは、古い埃と、湿った土と、それから──すぐには正体がつかめない、何か甘いもの。


数秒のあいだ、俺は動けなかった。


落ち着いていたからじゃない。


真逆だ。


脳が身体より先に目を覚まして、大量の疑問を一斉に叫びはじめたのだ。


ここはどこだ?

なんで床に寝てる?

胸が痛くないのはどうしてだ?

なんでこんなに深く息ができるんだ?


俺はなんとか上体を起こした。手のひらが冷たい石に触れて、そこでやっと気づく。


若い手だ。


細い指。シミひとつない。長年ろくに眠れず、まともに食えず、すべて大丈夫だと偽りつづけてきた人間特有の、あの疲れきった風貌が、どこにもなかった。


「……ああ」


声まで違う。


もっと軽い。


もっと澄んでいる。


もっと、若い。


俺は自分の身体を見下ろした。着ているのは目の粗い布の簡素なシャツに、黒っぽいズボン、歩くのに支障がない程度にはマシな、くたびれたブーツ。スーツはない。社員証もない。上司のメッセージで震えるスマホもない。表計算シートもない。深夜二時に「あともう一件だけ」と送られてくるメールもない。


俺の名前は、市川真いちかわ・しん


俺は死んだ。


少なくとも、あの男はそう言っていた。


いや、男じゃない。


神。


あるいは、それにかなり近い何かだ。


その記憶は、消化不良の夢みたいに蘇った。


白い広間。机。落ち着きすぎた声。ひとりの人間の運命を決めるには短すぎる会話。


「あなたは死にました」


「あなたの身体を別の世界で再構築します」


「世界を救う必要はありません」


「ただ、時が来たら塔にいてください」


あのとき、もっと問いただすべきだった。


もっと疑うべきだった。


勤め先に搾り取られ、入院して、後悔を抱えたまま二十九歳で死んだばかりの、ふわふわした頭で受け入れる以外のことを、なんでもするべきだった。


だが、なあ。


死んだ直後に誰かが現れて、新品の身体と、屋根と、上司がお前を沈めながら笑う声を二度と聞かなくて済む可能性を差し出してきたら──人間の尊厳なんて、わりと簡単に曲がるもんだ。


俺はひとりで笑った。


乾いて、しゃがれて、どこか間の抜けた笑い。


「はいはい。二周目の人生、ね。了解」


そう口にした瞬間、目の前に青い光が現れた。


カラフルなゲーム画面みたいに派手なエフェクトで飛び出すんじゃない。どちらかといえば、薄いガラスの板が淡く光って、その表面に静かな文字を刻み込むような現れ方だった。


『塔の記録』

名前:市川 真

魂の状態:転生済

現在の身体:再構築体

身体年齢:19歳

種族:人間

権限:暫定管理者

解放エリア:第一階層

稼働中の生産:清浄な水/リンゴ/乾燥薪

稼働中の施設:泉/簡易寝室/貯蔵庫

停止中の施設:厨房/温室/鍛冶場/書庫

注意:塔は庇護を与える。完全な支配権は与えない。


俺はそれをじっと見つめた。


暫定管理者。


「暫定」という言葉が、必要以上に引っかかった。


「……二周目の人生でも、正社員雇用じゃないわけ?」


表示板は答えない。


そりゃそうだ。ただの板だ。


それでも、文句を口にしたおかげで、ちょっとだけ気が楽になった。


ゆっくり立ち上がる。身体があまりにも軽くて驚いた。決して強いわけじゃない。ただ……自由なのだ。膝は軋まない。胸は締めつけない。頭はズキズキしない。深く息を吸うと、空気が丸ごと入ってきた。抵抗も、痛みもなく。自分の身体が予算削減でギリギリ回してる倒産寸前の会社みたいな感覚も、もうない。


そのとき、腹が鳴った。


盛大に。


とんでもなく盛大に。


青い表示板は、俺を嘲笑うかのように一行を更新した。


身体状態:空腹/疲労/軽度の打撲


「ご親切な診断をどうも、先生」


俺はあたりを見回した。


その場所は、豪華な塔というより、大きな塔の中に建てられた古びた小屋に近かった。歪んだ扉、暗がりのどこかへつづく木の階段、いくつかの部屋へ通じる短い廊下。壁は黒ずんだ石だったが、ところどころ、細い根っこが隙間から入り込んで床まで下りていた。


綺麗じゃない。


といって、目も当てられない地下牢でもない。


見捨てられていた。


それが適切な言葉だった。


かつて誰かが所有し、使われ、もしかすると大切にされていたのに、今はもう、存在を思い出してくれる誰かを待っているだけの場所。


俺はまず水を探しに行った。


塔の記録とやらが「稼働中の泉」があると言うなら、我が新居と哲学談義をするより先に、それを見つけなければ。


二度まちがった扉を開けたあと、小さな丸い部屋を見つけた。中央に石の水盤。壁の裂け目から清らかな水が静かに落ちていて、水面は古い場所には不似合いすぎるほど穏やかに光っていた。


ひざまずき、両手をすくうようにして飲んだ。


冷たい。


うまい。


とんでもなくうまい。


カルキ臭も、古い水道管の味も、病院の紙コップの味もしない。ただの水なのに、その瞬間は贅沢に思えた。


がぶ飲みして、噎せて、息を整えて、また飲んだ。


それからリンゴを探した。


難しくはなかった。


建物の裏手に、引っかかる扉があって、その先は塔の中心にある中庭だった。遥か頭上に空が見える。切り取るように取り囲む高い石壁は、どこまでつづいているのか、首を精いっぱい反らしても見終わらないほど。


中庭の真ん中に、樹があった。


リンゴの樹だ。


ただし、普通のリンゴの樹じゃない。


幹は太く、黒ずんで、銀色の葉脈のような筋が走っている。葉っぱは深くてほとんど光っているような緑。枝という枝に、赤く丸い、艶やかなリンゴが鈴なりだった。見捨てられた場所にはあまりにも不釣り合いなほど、美しい。


俺は樹を睨んだ。


樹は当然、気にしなかった。


ひとつもいで、匂いを嗅いだ。


かじった。


口の中で味が弾ける。


甘い。歯切れがいい。果汁たっぷり。


身体の方が思考より先に決断した。気がつくと、三つも食べていた。


四つ目で、笑いがこみあげた。


六つ目で、地面に座り込んだ。


八つ目で、リンゴに囲まれた人生もそんなに悪くないかもしれないと思った。


十一個目で、リンゴが憎くなりはじめた。


「……よし」俺は袖口で口をぬぐいながら呟いた。「こいつは命は繋げるけど、俺を文明人にしてくれるわけじゃない」


腹はまだ不平を言っている。


さっきよりはマシだが、言っている。


そこで現実が重くのしかかってくる。


水、リンゴ、乾いた薪。


これだけあれば数日は生き延びられる。


意地を張れば、もしかすると数週間。


でも「生きる」には足りない。


塩がいる。パンがいる。肉がいる。米だ、もしこの世界に米があるなら。何か鍋がいる。まともなナイフがいる。野生サルみたいになりながら文明を発見しようとする図じゃなく、まともに火を起こす手段がいる。


停止中の施設の一覧に「厨房」の文字。


ほとんど侮辱だった。


中に戻り、貯蔵庫を見つけた。


細長い部屋で、空の棚、壊れた木箱、それから、見捨てられた場所にしては妙に整然と積まれた薪が隅にある。薪の隣に、黒っぽい木の杖が壁に立てかけてあった。


前は気づかなかった。


近寄る。


杖はシンプルで、歩行用の道具くらいの長さだった。木材はあのリンゴの樹と同じ不思議な艶がある。先端近くに、小さな刻印──円の中に塔のマークがあった。


手を触れた瞬間、青い表示板が現れた。


『管理用ツールを検出』

認証ユーザー:市川 真

現在の形態:メンテナンス用杖

解放済み機能:サポート/軽度切断/採取/簡易運搬

ロック中機能:上級戦闘/採掘/複雑修繕/特殊栽培


「ふうん」


俺は杖を両手で握った。


「採取?」


杖が震えた。


先端が開き、形を変えて、枝を引き寄せたり高い果実を取ったりするのに便利そうな小さな鉤になった。


俺はそれを見た。


それから、外のリンゴの樹を見た。


それからまた、それを見た。


「お前、伝説の剣じゃないんだな」


杖は微動だにしない。


「褒めたんだぞ? 伝説の剣はトラブルしか呼ばないからな」


杖を中庭に持っていき、高い枝のリンゴで試す。うまくいった。そのあと、籠を想像してみた。


杖は震えたが、籠のかわりに、浅めのシャベルみたいな変な形になった。ほぼ洗面器だが、もっとひどい。


「わかった。限界はあるわけだな」


それが妙に気に入った。


すごく。


もし何でも完璧に動いたら、そっちのほうが怪しい。なんでもできる道具は便利すぎる。いくつかのことを下手にこなし、いくつかのことをまあまあこなす道具のほうが、よほど信用できた。


少し苦労して、リンゴを貯蔵庫に集めた。それから中庭に戻り、あたりの壁を観察する。


塔は見かけよりずっと大きかった。


はるかに大きい。


俺は第一階層にいるが、その「階層」だけでもちょっとした城壁に囲まれた土地くらいある。側面には閉ざされた石の扉があり、外付けの壊れた階段が上の回廊へつづいている。そして奥には、苔むした高い門。


門に近づくと、青い表示板がまた出た。


『外部出口を検出』

推定目的地:西部辺境の森

推定リスク:中程度

警告:暫定管理者は戦闘記録を保有していません


「わざわざ扉にまでディスられないといけないのかよ」


門に触れてみる。


開かない。


表示板が変わる。


開放条件:管理者による手動承認

備考:開放後、外部生物の侵入が可能になります


手を引っ込めた。


ああ。


そういうことか。


第一階層が安全なのは、閉ざされているからだ。


もし開ければ、世界が入ってくる。


食料、材料、人、街、情報。


そして、狼、怪物、盗賊、好奇心の強い獣人、あるいはこの世界に潜んでいるその他の厄介ごとまで。


また腹が鳴った。


俺は貯蔵庫のリンゴを見た。


それから門を。


それからまたリンゴを。


「──やめとこ」


家の中へ戻った。


臆病か? たぶん。


常識か? 間違いなく。


俺はたった今、別の世界で目覚めたばかりだ。地図なし、まともな武器なし、この世界のニワトリが火を吐くのか、ウサギが人を食うのかすら知らない。パンが食いたいからって門を開けるのは、二度目の死に方を選ぶにはあまりにもバカげている。


まずは、この塔を理解する必要があった。


第一階層の残りを探索する。


簡易寝室には固いベッドがあったが、清潔だった。厚手の毛布と、小さな机と、細い窓。風呂場は存在した──優先順位を正しく理解している神様に感謝だ──が、基本的なものだった。厨房はもっとも哀しい部屋だった。暖炉があり、調理台があり、空っぽの戸棚。鍋ひとつ、ナイフひとつ、皿ひとつない。


ただ「ここには幸福が存在しえました、まだですけど」と言っているような空間だけ。


温室は罅割れたガラス扉の向こうにあった。覗くと、乾いた苗床と空っぽの鉢受け。入ろうとすると、記録が応答した。


停止中の施設:温室

修復要件:完全なガラス/肥沃な土壌/登録済みの種子/塔のエネルギー


「登録済みの種子……」


ここは重要だ。


塔がリンゴを生産するなら、ほかのものも生産できるかもしれない。


でも、ひとりでには無理だ。


塔は「知る」必要がある。


あるいは「登録する」。


その考えに、俺は微笑んだ。


目覚めてからはじめて、方向性に似た感覚が湧いてきた。


王国を征服する必要はない。


魔王を倒す必要もない。


英雄になる必要もない。


俺が必要なのは、種子。


種子と、塩と、鍋と、あと、できれば俺を暗殺しようとしてこないニワトリ。


ばかばかしい目標だ。


そして、まさにそれゆえに、可能に思えた。


空の光が弱まりはじめた頃、寝室に戻った。リンゴをあと二つ食べ、水を飲み、固いベッドに横たわる。身体はくたくただが、頭は休まらない。


神のことを考えた。


あいつの言い方。「あなたは然るべき場所にいれば、私の目的を達成するでしょう」と。


塔のことを考えた。


あの注意書き。「塔は庇護を与える。完全な支配権は与えない」


門のことを考えた。


パンのことを考えた。


結局、またひとりで笑ってしまった。


「会社で搾取されて死んで、転生したらリンゴで給料払いする塔の管理人か」


最も栄光ある第二の人生の幕開け、とはいかない。


でも、これが俺のものだ。


目を閉じた。


数分、まさに眠りに落ちかけ──。


そのとき、暗闇のなかで青い表示板が光った。


無音。


警告なし。


光が瞼を貫き、俺は反射的に目を開けた。


『塔の警報』

中庭外部で動きを検出

発生源:不明

記録:非人間

意図:未確認


身体が硬直した。


心臓がドクンと跳ねる。


寝室の外、木の表面で何かが引っ掻く音。


一度。


二度。


それから、低く、掠れた、まぎれもなく生きている声が──なぜか俺にも完璧に理解できる言葉で──こう呟いた。


「……誰か、いるのか?」


俺は両手でメンテナンス用の杖を握りしめた。


先端が震える。どんな形を取るべきか、自分でもわからないみたいに躊躇うように。


空腹と、眠気と、恐怖と、まだ口の中にこびりつくリンゴの味のなかで、俺はたしかに理解した。


俺の平和な生活は、始まる前にすでに終わっていたらしい。

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