ヴァイオリンの女の子
笑われるかもしれない。
でも、あの瞬間、ほんとうに、世界がまったく色を変えた。
何気なく足を向けた懐かしい場所。
海を見下ろす高台の公園で、抜けるような蒼天の元に佇んでいたその女性を見て。
俺は自分でも忘れていた記憶を取り戻したんだ。
──あ。ヴァイオリンの、女の子
そうだ。
ずうっと前。俺がまだUKに渡る前、日本の小学校に通ってた頃。
小さな体に不釣り合いな大きなヴァイオリンを抱えて、ぴょこぴょこ走り回っていた同級生が居た。
彼女は特別な人だった。
小学生のガキだった俺でもそう感じるほどに、いつもまっすぐに前を見て、既に自分の道を歩み始めていた。
まじめで。泣き虫で。だけど誰よりも頑張り屋で。
俺の、憧れだった女の子。
「……岡田、さん?」
俺の発した声は、意外なほどに澄んだ音で、青天の元へと立ち上っていった。
***
「藤原くん?」
どこか憂いた表情で海を見ていた気がしたが、岡田あおいは俺を前にした途端、猫みたいに表情を一変させて声を上げた。つづけて明るい声でこう言った。
「覚えてるよー! 英語教室も音楽教室も一緒だったじゃん。わー、すっごい久しぶり!」
その、声が。
ものすごくきれいで。俺は感動すら覚えた。
人の声をここまで心地よく感じたのは初めてかもしれない。
明るいソプラノ、でも、甲高くはなく耳に優しい。
加えてその瞳の澄んだ色に一瞬見惚れてしまったことに気がついて、俺ははっと顔を熱くして「ね」と答えた。
それだけでもかなり必死だった。
「岡田変わってないから、すぐにわかったよ」
「そうかなぁ? 子供っぽいってこと?」
俺の言葉に岡田あおいはかすかに拗ねたように唇を尖らせた。それだけで心拍数が急上昇する。
なんだこれ。かわいいぞ。
俺は気持ちが高揚してゆくのを感じながら微笑った。
「違うよ。岡田は昔から──なんていうか、空気が違ったから」
え? と思った。我ながら。
何、言ってんだ俺。知り合いではあるけれど、何年も会っていなかった女の子に。
何こんなこと言ってんだ?
頭の片隅では冷静にそうジャッジしながらも、しかし、俺の心はどこかでスイッチが入ってしまったかのように彼女を見ていた。
吸い寄せられるように。
いや、あるいは。
「本当に、特別だったから」
惹き寄せられる──ように。
「……ありがとう」
やがて彼女は微笑んだ。
まるで花が咲くように、ゆっくりと。やわらかに。
その笑顔はきれいだった。
ほんとうに、きれいだったんだ。
──まだ、ヴァイオリン、続けてるの。
ひとつの質問が、唇をかすめて喉を滑り落ちて行った。
***
「バイト? レストランで?」
「うん。イタリアンレストランなの」
それから俺と岡田は、海を見下ろすベンチに座って話をした。
ほんのわずかに距離を挟んだ位置に腰かけ、頬と髪を揺らす海風に誘われるようにして、他愛のないことを、とりとめもなく。
「音楽やってる人とかって、怪我をするから、料理はしないようなイメージがあるけど」
最初の話題は、彼女が着ていたユニフォームについてだった。
白いエプロンにベレー帽。ほっそりした体をシンプルなカットソーとパンツに包んだ岡田からはほんのりとオレンジの香りが漂っていた。
彼女がふふ、と微笑んで首を傾げると、黒いタートルネックの肩に明るい茶色い髪がこぼれる。
手入れが良いのかなと思わせる、毛先までつるんときれいな髪。
「意外でしょー。下手だから、特訓してるの」
「そうなんだ」
「うん」
さらに微笑んで、いたずらっぽくまつ毛を伏せる。
彼女はそのまま瞳を閉じた。そして言った。
「今度、来てね。うちのドルチェ、すっごくおいしいの」
「ドルチェ?」
「デザート」
「ああ」
夕日色のアイシャドウの塗られたまぶたを見ながら、俺は、彼女のこの表情の理由に気が付かなかった。どうして、目を閉じたのか。まるで何かから目を反らすように。
なんとなく沈黙が落ちて、俺は息を吐いた。
ふと海に目線を寄せた。港に停泊する大きな船と、その向こうに広がるくらい紺色の海。
やがて岡田が、言った。
「藤原くん、はさ。ずうっとイギリスに行ってたんだよね」
俺は彼女に視線を戻した。
イギリス、という単語が、その澄んだ声で発せられるとまるでおとぎ話の国みたいに聞こえて、心地よさに目を細める。
「──うん。行ってた。小学校の途中から、今年までだから……7年くらいかな」
「7年かあ。長かったね」
「うん。初めは親の都合だったけど、途中からは親が帰って、俺だけ残った」
「え、どうして?」
澄んだ茶色の瞳が驚いたように俺を見上げた。
どうして?
そのまつげが海からのきらめく光に金色に透けるのを見つめながら、俺は自分でもほとんど初めて、その質問を己に投げた。
そして自分でも知らなかった答えが自分の口から滑り出るのを聴いた。
「──勉強したかったから」
はっきりとした声だった。
一瞬の間を挟んで俺は自分にえ、と思う。そうだったのか?
だが、自分で自分に答えるより先に、言葉を発したのは岡田あおいだった。
「なんの勉強?」
「えーと」
立て続けの質問にどぎまぎしながら俺はそれでも、なぜか彼女から目を反らせなかった。
「……言葉」
ぽつりと答えたのは、またしても自分にとって以外な分野だった。
否、確かにハイスクールではとても興味を持っていた分野だった。知り合いの先生を通じて何度かディスカッションをしたこともあるけれど。
ああでも、この言い方だとただの英語って思われるかも、と思った瞬間。
「語学、じゃないよね? 言語学?」
岡田あおいはさらりと言った。
俺は意外さに目を丸くしながらも、同時に嬉しくてうなづく。
「そう。良く知ってるね」
「だって、藤原君ぐらい長く向こうに住んでいたなら、そうかなって。昔から英語上手だったもんね」
「そうでもないけどね。それを言うなら、岡田こそ」
笑みをひとつ零し、気分が高揚した俺は、ついにずっと聞きたかった質問を口にした。
「──ヴァイオリン、まだ続けてる?」