動かない指先
ヴァイオリンケースの蓋を閉じてから、もう一年が経過しようとしている。
「痛っ」
オレンジをカッティングしている最中、左手の指先に鋭い痛みが走った。
思わず包丁を取り落す。同僚たちがすわとばかりに飛んできた。
「岡ちゃん、大丈夫!?」
「切った? どした?」
「だい、丈夫……です」
右手で左手を抑えるようにしながら私はなんとか笑って見せた。
──痛い。
薬指の関節が、反るようにして硬直して動かない。
その感覚は物理的な痛みよりもずっと、胸の痛みを私にもたらしていた。
「切ったわけじゃ、なくて。指がつっちゃったみたい」
冷たい心の内を隠しながら笑ってみせると、同僚たちはほっとしたようによかったー、と呟いた。
特に親しい女性の先輩、杉さんが優しく声をかけてくる。
「ずっとカッティングとかしてると疲れるよねー。あおいちゃんここんとこ連勤だし、少し休んで来たら? 変わるよ」
「え、でも……」
「顔色もちょっと悪いみたいだし。いいからいいから!」
そのまま押し出すようにキッチンのポジションをチェンジされ、私は困った顔でほかの同僚たちを見た。
すると返ってきたのは一様に「言うとおりにしとけ」と言わんばかりの視線と頷き。
極め付けには店長であるシェフまでもが厨房に顔を出して言い放った。
「なんだー、岡田切ったって? 疲れてんなら休んで来い。ふらふらで仕事されても迷惑だ」
「ちょっ! オニトリ店長! んな言い方ないでしょーよ!」
怒れる声と共にシェフの後ろから顔を出したのはホールスタッフの透さんだ。
元看護士であり、なかなかにしっかりものの透さんは、店長の頭をぶん殴らんばかりの勢いで詰め寄った。
「てんちょーはそんなんだからもてないのよ! もっと優しい言い方覚えなさいよ!」
「あんだと!? お前誰に向かってモノ言ってんだ!」
「タメだしいいでしょ!」
「良くねえ!」
「あー、わかりました、わかりました!!」
たちまちの内に始まった店長と透さんの舌戦を声を上げてさえぎり、私は言った。
「……すみません。私のせいでお騒がせして。お言葉通り少し休憩してきます」
ひとつ息を吐き出し、帽子を取って頭を下げる。
すると店長が気まずそうな声であー、と唸った。
「……まぁ、長めに休んできていいぞ」
「ハイ。ありがとうございます」
まだずきずきと痛む指先を押さえながら、私はやんわりと微笑んでキッチンを後にした。
***
指が痛いのは、事故の後遺症。
決して仕事のせいじゃない。
私は今から二年前、車との接触事故を起こしたのだ。
通っていた大学からの帰り道、急いでいた通行人に肩を押されてよろめいて、道路に向けて倒れこんだ。そして直後、耳をつんざいた車のクラクションの音。
「っ」
思い出すと、今でも、息が止まる。
大した事故じゃなかった。
スピードの遅い車だったことが幸いして、命に別状はなかったし、重く分厚い黒いタイヤは私を避けるようにして過ぎ去っていった。
ただ、ほんの一瞬。
ほんの一瞬、この左手の上を通過しただけで。
(……骨が、砕ける音がする)
私は思わずしゃがみこんで自分を抱いた。
あの瞬間の記憶が未だに脳裏に刻まれて離れない。
重く鈍い、胸の底に響いた衝撃。
私の夢を、目指すものを、あっけなく打ち砕いた一瞬。
(ブラームスも、バッハも。この手首の先と一緒に)
奪い去られて、いった。
──いきが、くるしい。
──呪いたい。誰かをいっそ。
そうしたら楽になれるの?
私はやがてふらりと立ち上がり、一つの場所を目指して歩き出した。
***
私の勤めるレストランは横浜の高台に建っていて、少し歩くと見晴らしの良い公園に出る。
気分転換の時や仕事の行き帰り、よく時間があると此処に来て、展望台から街を眺めた。
雨の日も風の日も関係なく、子供のころから通っていた。
かつてはヴァイオリンを練習しに。音楽学校に入った後は、気晴らしに。
そして指が砕けた後は、一人でずっと泣くために。
「……岡田、さん?」
今日もまた展望台の手すりにもたれかかり、なんとはなく海辺の町を眺めていた私は、背後から突然かけられた声にはっと意識を取り戻した。
また、目の前の景色が見えているのに見えていなかった。
そのことに気が付いて心臓が嫌な感じにどきどきと逸る。
私は風に乱れる髪を耳にかけながら、ゆっくりと振り返った。
(──だれ?)
そこにいたのは見知らぬ青年、だった。
少なくとも最初の一瞬はそう思った。
でもすぐに本当にそう? と私は私に問いかける。
色白の綺麗な顔立ち。
茶色がかった色素の薄い髪や瞳は、どこか懐かしく私の心の鐘を鳴らす。
私は、その淡い色の瞳を見つめて、ふうっと大きく息を吐き出した。
「岡田あおいさん、だよね?」
「……はい」
自分を呼ぶ声になんとなく外国語のようなアクセントが感じられて、私はなぜか、ほっとした。
体ごと完全に向きなおって彼を見つめると、穏やかな気持ちで唇を開いた。
「あの、」
「俺は藤原孝輔です」
こちらの言葉をさえぎるように彼が発した声に、私は目を丸くした。
なぜなら、その名前がやはりとても懐かしいものだったからだ。
藤原孝輔。
私の、昔なじみだ。
ただ彼は早い時期から親の仕事の都合で海外に渡ってしまたので、もうずいぶん長いこと会っていなかったけれど。
「藤原くん?」
私は彼を呼んだ。自分でも少し驚くほどに明るい声が出た。
そしてさらに驚いたのは、彼を見つめる自分の顔が笑顔になったことだった。
そんな私の表情を受けてか、彼もまた微笑んで「うん」と答えた。
「覚えてる?」
「覚えてるよー! 英語教室も音楽教室も一緒だったじゃん! わー、すっごい久しぶり!」
「ね。岡田変わってないからすぐにわかったよ」
「そうかなあ? 子供っぽいってこと?」
「違うよ。岡田は昔から──なんていうか、空気が違ったから」
藤原君はそこでさらに微笑んで、私を見た。
「……本当に、特別だったから」
海風が、ざぁっと、丘から吹き上げるようにして私たちの間を吹き抜けて行った。




