Heathrow Airport
ヒースロー空港に着くまでに、雨は三回降った。
『このめちゃくちゃな天気とも今日でお別れだな』
重いスーツケースを車のトランクから取り出しながら俺は言った。声をかけられたハリーはひどく所在なさげな声でメイビィ、と呟く。その声にふくまれた明らかな寂しさと、ほんの少しの非難の色合いを感じ取り、俺は顔を上げた。
ハリーは俺を見てはいなかった。今しも一機の飛行機が飛び立っていったばかりの、うすいグレーの空を見つめていた。イギリスに来た当初の頃は、目にするだけで胸が塞いだ、いちめんの灰色。
でもいまの俺はその色を網膜に焼き付けたい、と望んだ。
なんだろう、さっきから胸の奥ふかく、ずっと痛みを訴えている細い線があるんだ。今にも切れそうな、もろくやわらかい糸。
俺にとっては不快をもたらすだけの面倒なものなのに、それでも何故か守りたくてシャツの胸元を押さえてしまう。
そんな、訳も分からず大切な感情が、身体じゅうを迸っていた。
***
ヴァージン・アトランティック航空、VS900便。
13時に英国を出発して、成田には9時30分到着予定。
チェックインを済ませて荷物を預けたあと、俺はハリーを探した。二階のイタリアンカフェでパニーニに噛みついていた彼を発見し、近づいていく。
ついさっきまで手元で転がしていた重いスーツケースがなくなって、ひどく心細く感じた。自分が感傷的になっているのがわかる。
『うまい?』
オレンジ色の安っぽいプラスチックチェアーを引きながら、俺は彼に尋ねた。ハリーはコーヒーでパニーニを流し込みながら頷いた。
くたびれたブルーのパーカーの袖から覗く腕時計。金色の体毛がごつい腕を覆っているのも見えた。彼はかなり大柄のイギリス人だが、目も眉も色素が薄いせいか、全体的に輪郭がぼやけて見える。
ハリー。
この国で初めてできた、俺の友人。
俺が英国での生活を良きものにすることができたのは彼のおかげだ。彼の、無口だが献身的な友情と、心からの親愛のおかげ。
『何時に出発だっけ?』
ふいに話しかけられて、俺は彼を見つめていたことに気がついた。照れ隠しにさっと腕時計に目を落としながら答える。
『……13時。』
『オーケイ』
なにがオーケイなのかさっぱりわからないが、ハリーはそう答えて瞬きをした。煙るような白金のまつげに囲まれた、淡い水色の瞳。
ふいに、俺はあたりの音と言う音がすべて、耳の中にとびこんで来るのを感じた。
フォークとナイフがぶつかりあっている金属音。
フライトインフォメーションを告げるアナウンス。
人々のざわめき。笑い声がすると同時に、泣いている人もいるようだ。すすり泣く声が聴こえる。
スーツケースを転がす音はそこいらじゅうからごろごろと響き渡っていて、まるで空港そのものがその音を発しているみたいだった。
──えっ、日本へ帰るの?
ハイスクールを卒業した後、俺が日本の大学に進学することに決めたと伝えた時、友人たちは口々にそう言った。皆、平生ではあふれんばかりの好奇心に輝かせている瞳を、その時ばかりはロンドンの空のように曇らせて、さみしくなるねと言ってくれた。
──日本へ帰るの? いつ? 寂しくなるね、コウがいないと。
──僕たちはコウにイギリスにいてほしいけど、でも、しょうがないね。君の人生は君のものだもの。
──でも、コウ、どうしてなんだい?
『どうして日本に帰るんだ?』
ハリーの声に我に還った。
いつの間にか過去の音まで聴いてしまい、それに捕らわれていた俺は、現実にピントを合わせるように目の前の友人を見つめた。
ハリーの淡い瞳は俺をまっすぐ見つめている。
知り合いになってしばらくは、彼のその強い視線がまるで自分の内側まで覗いているような気がして、ひどく居心地わるく感じたものだった。
嫌、ハリーだけじゃない。思い返せばこの国で知り合った俺の友人たちは皆そうだった。感情表現が豊かで、情熱的で、思い立ったらすぐ行動できる大胆さがあって。何か意見を言えばどうして? とかならずその理由を求めてくる。
日本人の中ですら大人しい性格だった俺は、当初かなり戸惑ったものだったが──次第にそんなコミュニケーションの仕方が気持ちよく感じられるようになった。
ディスカッションもディベイトも、この国では誰もがそれぞれの確固とした意見を持ち、時としてうるさい位にそれを主張するけれど、最後にはかならずThank you,とつけたすのだ。時に疲れたように、時にほんとうに嬉しそうに。
Thank you,と。
『コウ』
ハリーが今一度俺の名前を呼んだ。
何を聞かれているのかはわかっているが、俺は答えることができなかった。理由はきっと、探そうとすれば百もあり、しかしそうしなければ存在しない。
『聞いてたか? 教えてくれよ、どうして日本に帰るのか。』
『既に何度も伝えただろう。』
『もう一度聞きたいんだ』
『なぜ?』
逃がしてくれないハリーをほんの少しだけ疎ましく感じ、俺は嫌らしく聞き返した。どうせ答えは即返ってくる、とわかっちゃいながら。
『さびしそうだから。お前が』
Because you look lonely.
そんな風に言われて、胸のあの痛みがひときわ強いものになって、俺は自分の中に迷い込みそうになった。どうしていいかわからなくなりそうで、とりあえず笑ってみせた。
『帰りたいから。それが俺の理由だよ。だめか?』
笑いながら、そう言う。あやふや、とはまさにこんな曖昧な状態を指すのだろう。案の上ハリーはNoと厳しく眉をひそめた。
『それは理由じゃない。帰りたい理由を聞きたいんだよ。それに、俺に許してもらう必要があるのか?』
『ないだろうな。』
投げやりに言って立ち上がる。そろそろ搭乗ゲートに行かなければいけない時間になっていた。
コンバースのスニーカーですたすた歩き始めると、ハリーが後ろからすぐ追いついてきた。まだWhyを繰り返している。
『コウ。どうしてだよ、俺はただ知りたいだけなんだ。どうして何も言ってくれないのか。どうして日本へ帰るのか』
『特別な理由はないんだ。嘘じゃない。』
『理由がないのに帰るほど、日本が好きなの? お前にとってイギリスは、やっぱり外国のままなのか?』
『ちがう』
違う、ちがう。
ハリーに問われれば問われるほど、胸の痛みが明確になってゆく。わかっている。もうイギリスは俺にとってただの外国ではなくなったこと。日本語より英語が得意になったこと。ホリデイに日本へ帰ると、旧友たちの歯切れのない物言いに苛立ちを覚えるようになったこと。
わかっている。ハリーの問いの答えは、ただ一つを除いて全て。
『じゃあどうして』
『ハリー。』
ついに観念して、俺は足を止め振り返った。口を開いて、ほんのわずか躊躇してから、でも伝える。口にすると自らの弱さが実体化してしまうから、言いたくなかったこと。
『わかったよ。言う。俺は理由を探しに行くんだ、日本へ。』
『探しに?』
『そうだよ。イギリスは大好きだ。叶うならずっと住みたい。でも。イギリスがただ好きだからだらだらこの国に滞在することを、俺は自分に許せない。理由が欲しいんだ。イギリスに住みたい理由じゃない、俺だけの、俺が生きて行く理由を。だから帰る。これがぜんぶ。わかった?』
つまり、ハリーの問いの答えを、俺は持ち合わせていなかったが、それは生まれてからずっとそうだった、ということである。
ハリーは俺の剣幕に押されて、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、しどろもどろ、頷いた。
『O-Okay.』
『Good.Thank you.』
もうこの話はしたくない。
俺は再び歩き出した。
***
窓の外に遠ざかるUK。
ハリーの力強い抱擁の感触が、まだ体の上に残っている。
指定席は通路側だったが、窓際の席が空いていたのでそこに移動して外を見ていた。
この国で、俺は俺でしかなかった。そのことを誇りに思えていた。
でももう遠ざかっている。戻ってこない。
これから俺が向かうのは、俺が生まれた東洋の島国。
日本。あの国では──
ぐんぐん機体が上昇しているのがわかる。足もとがすくわれるような浮遊感に体が緊張し、俺は窓に手をついた。寒暖差で曇る窓ガラス。
──あの国では、俺は誰なんだろう?




