むすびに代えて
慶長十四年(一六〇九)、江戸幕府は海外貿易に、良質な灰吹銀を使用することを禁じ、より低質な慶長丁銀の使用を命じている。徳川政権のかなり初期段階で、貴金属流出が問題視されていたことが分かる。それもそのはずで、この問題を武力によって一挙に解決しようとした豊臣政権の試みは十一年前に頓挫してしまっており、問題はなにひとつ解決されていなかったからである。
さらに約百年後の正徳五年(一七一五)、新井白石主導で海舶互市新例が制定され、海外貿易の額が制限されることとなった。その制定目的は、日本産の銀が、オランダ並びに清との交易で大量に流出し続けていたことに鑑み、貿易規模自体を制限、縮小することにあった。
文禄・慶長の役から百年以上経過しても、貴金属の流出問題は一向に解決の目途が立っていなかったのである。
江戸幕府は日本の武家政権として唯一、流通力を持つ銅銭の鋳造を大規模に行った政権としても知られている。一方で、戦国時代という未曾有の銭不足を勝ち抜いてきた武士層は、
「銭はいつ消えてなくなるか分からない」
という恐怖感、そして不信感に徹頭徹尾苛まれ続けた。それこそが、時代にそぐわなくなっても米による俸禄支給を幕府が頑なに維持し続けた所以であった。
また、「自分たちで鋳造した銭が信用を維持し続けられるかどうか」に関しても最後まで懐疑的であった。そんなものは「家のコピー機で印刷したお札」に過ぎなかったからである。
江戸幕府はその治世を通じ、銭の信用力を維持するため、銭に含まれる銅の量に細心の注意を払い、品質を一定の水準に保つことに腐心し続けた。
江戸幕府自体は、海外貿易で寛永通宝を決済手段に用いることを禁じたが、それでもジャワ島では、昭和初期まで寛永通宝が通貨として使用され続けたという。信用力維持の努力が奏功して、幕府の禁令にも関わらず日本産の銭が国際通用力を保有しえた実例である。
自分たちが信じていなかった銭が国際通用力を保有していたのに海外貿易での使用を禁じ、他方貴金属類の海外流出を抑止するために、実入りが細る不利益さえ甘受して貿易規模を縮小したのだから、皮肉としか言いようがない。
ここにいくつかの着想を記しておきたい。
江戸幕府の吏僚的立場の武士がある程度の経済観念を有していたことは、上の事蹟からも明らかであるが、戦国時代の武士にとって銭は、「必要とあれば他者から奪い取ればいいもの」でしかなかった。
銭に関してこの程度のリテラシーしかなかった戦国期の武士が、たとえ豊臣秀吉クラスとはいえ、石高制の正式採用による米本位制の採用という経済政策を自らの発想によって行い得たとはとても思えない。
おそらく千利休や今井宗久といった政商が、政権の、特に経済政策の意思決定に深く関わっていたものと思われるが、残念ながら一次史料を欠いておりそこは明言できない。
ここでは「秀吉という英雄の個人的資質によって国内の経済危機を打破し得た」とする属人性については無視するに止めておきたい。作中、「秀吉」呼称をできるだけ回避しなるべく「豊臣政権」表記を心がけた所以である。
各武家政権には、前政権の政策について丹念に研究を重ねていたテクノクラート集団が存在していたものと思われる。建武式目制定に携わった是円・真恵兄弟は有名だ。
「銭獲得説」で唱えた「対明貿易による明銭輸入」という着想は、このような政策立案の実務集団による足利義満政権の経済政策の研究分析を前提にしなければ成り立ちがたい。
これら歴史の波間に埋もれていった政策技術集団の地道な努力に敬意を表し、本稿を締めくくることとする。
ご静聴ありがとうございました。
(おわり)




