#87 広告システム混乱
執務室の重苦しい空気とは違い、スマホから聞こえてきた蒼君の声はいつもどおりだった。冷静で淡々とした彼の声に安堵を覚えるのは、重さや暗さがないからかもしれない。
『さっき、新田さんの家に着きました。理久さんは、佐伯部長の執務室ですか?』
「うん。合田部長と糸井部長も一緒」
『じゃあ、佐伯部長にDミーティングに繋ぐよう言ってください』
通話はすぐに切れた。私は彼の言葉をそのまま伝え、全員で奥のオンラインミーティングスペースに移動する。
壁面の大型モニターに電源が入れられ、そこに映された佐伯部長のD-Baseホーム画面には、Dミーティングの通知。『新田一希さんからミーティングへの招待が届いています』と表示されていた。
合田部長がマイクとスピーカーを手早く設定し、接続をオンにすると、大画面に蒼君の姿が映し出される。彼の左右には一希君と小山内さん。
『聞こえます?』と蒼君。
「問題ない。そっちは聞こえてるか? 新田が死んでなくて何よりだ」
合田部長は際どい言葉を口にし、「おっと」と慌てて佐伯部長の顔色をうかがった。一希君に憔悴している様子はなく、思いのほか元気そうで、うっかりいつもの調子で喋ってしまったのもうなずける。
佐伯部長は苦笑しつつ一希君に問いかけた。
「新田君、困ってることはない?」
『特に困ってることはないです。むしろ、申し訳なくて』
『新田さん、京スポの記事見たそうです』と蒼君が続けた。
『ああいう記事は出るかもと思ってたので、まあ、仕方ないです。それより、もしかしたら〈漆黒の夜【公式】〉が動き出したかもしれません。ちょっと、新田さんと席代わります』
執務室は記事のことで深刻な雰囲気になっていたのに、本人も蒼君もあまり気にしているように見えない。その様子に部長たちは困惑しつつ、蒼君と一希君が場所移動するのを見守っていた。
『ちょっと、見てもらいたいものがあるので』
一希君は手元でキーボードを操作しているようだった。『画面切り替えます』という声と同時に、大手ショッピングサイト『楽々バザール』のトップページが映し出される。
「新田、これは?」と合田部長。
『楽々バザールです』
「そんなもん見ればわかる」
『広告はインサイト・エンジンが請け負ってるんです』
その言葉に合田部長の表情が一変し、無言で話の続きを促した。
『俺、謹慎になってからずっとインサイト・エンジンを追ってたんです。で、今日――7月9日の夜中2時あたりからなんですけど、インサイト・エンジンがやってるネット広告の挙動がちょっとおかしくなって』
「挙動がおかしいっていうのは、具体的にはどういうことだ?」
『あくまでも俺の場合なんですけど、広告配信のパーソナライズが破綻しています。普段だったらレトロアニメ関連グッズばかりが広告表示されるんですけど、それが、今は全く関係ない女性向けのコスメとか、医療用のルーペみたいなのとか、高級ワインとか。そんなのばっかり出てくるんです。
楽々バザールだけじゃなくて、インサイト・エンジンが広告やってるサイトは軒並みそんな感じです。ちなみに、別の広告企業が入ってるMamasonとかの広告は普通です。
あ、ほら、こんなのまで』
一希君がマウスポインタで示した広告には、子供用のオムツが表示されている。
「新田、いつ出産予定だ?」と合田部長。
『産みませんよ。
それより、時間帯的に利用者が少ないのと、商品購入が普通にできてるせいで、気づいてる人はほとんどいません。さっきPitterを確認してみたら、楽々バザール絡みのそれっぽい投稿は10件くらいありました。
特定ブランドを非表示設定してたのに、そのブランドの広告ばかり出てくるとか。あとは、商品の購入ページで、その商品や製造メーカーへのネガキャン広告が表示されてたりとかもあるみたいです。すでに広告ですらないエロ画像とか、意味不明なテキストとかも』
「広告主からクレームが殺到しそうですね」
糸井部長は、あり得ないというように首を振っている。佐伯部長はモニターをじっと見つめ、考えを巡らせているようだった。
「これは、広告効果が激減するどころか、企業の信頼に関わるわね。インサイト・エンジンのシステムそのものが信用を失ってしまう。
問題なく購入できてるっていうのが、逆に心配だわ。ユーザーからのクレームがなければ気づくのが遅れるかもしれないし、もしかしたら、サイト運営者もインサイト・エンジンも、まだ異変に気づいていない可能性もあるわね」
『ちょっといいですか』と、画面の向こうで蒼君が身を乗り出した。
『ハッカーはそれを狙ってるのかもしれません。気づくのをできるだけ遅らせて、対応が遅れるほど、インサイト・エンジンの信用も失われますから。
気になるのは深夜に攻撃を仕掛けてることです』
「ハッカーが夜中にサイバー攻撃を仕掛けるなんて普通のことだろう?」と合田部長。
『そうですけど、このハッカーがライブ事故の黒幕だという仮定を思い出してください。タイミングを見計らってデマを流し、被害を大きくしましたよね。
今回の場合、被害の最大化を狙うなら、サイト利用者が最大化する時間帯を選んで仕掛けるはずです』
「確かにな。ショッピングサイトなら、少なくとも夜中2時ってことはなさそうだ」
『今回の攻撃は探りかもしれないと感じました。インサイト・エンジンとハッカーが交渉中だとするなら、軽い攻撃で様子を見て、脅迫を強めたとしてもおかしくありません。
ですから、交渉が決裂した場合、より深刻な被害をもたらす攻撃を仕掛けるということも当然考えられます。
今は広告システムへの攻撃にとどまっているようですが、例えば、インサイト・エンジンが保有するユーザープロファイルデータが狙われ、購買履歴や嗜好プロファイルデータが改竄される――というようなことも起こりうるかもしれません。
そうなると、いくら広告配信システムを復旧させても、学習データ自体が汚染された状態ですから、完全復旧にはかなりの時間を要するはずです。それまで企業が持ちこたえられるかどうかもわかりません』
合田部長は、厳しい目つきで話を聞いていた。そして、蒼君がこちらの反応を求めて口をつぐむと、おもむろに口を開く。
「惣領。おまえが『改竄』の可能性を口にするのは、相手が愉快犯だと踏んでるからか? 普通にデータを盗んで売るとは考えないのか?」
『もちろんその可能性もあります。けど、サイト側が広告企業であるインサイト・エンジンに提供しているユーザー個人情報はかなり限定的なもののはずです。住所はおそらく道府県レベル、生年月日も日付までは提供していないかもしれない。電話番号や、マイナンバーなどはきっと渡していないでしょう。それでも、そういった個人情報のセキュリティは厳重なはずです。
一方、IDに紐づけられたユーザープロファイルデータの方は比較的セキュリティが甘いですよね。そういった嗜好や傾向に関するデータは企業間でやりとりされているから脆弱性も高いし、攻撃するならそっちのほうが効果的です。
さっき言ったように、プロファイルデータを改竄すれば適切なパーソナライズ広告の配信は長期的に困難になるでしょう。企業のデータ資産としての価値が損なわれ、顧客分析やマーケティング戦略もまともにできなくなる』
「セキュリティが『比較的甘い』と言っても、インサイト・エンジンはAIエンジニアを抱える大手企業だ。惣領、おまえは〈漆黒の夜【公式】〉がそんな企業を相手にそこまでできると思ってるのか?」
合田部長の言葉は「できないだろう」ではなく、純粋に問いかけているようだった。蒼君はパソコン・モニターに目をやっているのか、視線を左右に走らせる。そして、こう口にしたのだった。
『僕は、まだこれが〈漆黒の夜【公式】〉本人の仕業だと断言できません』




