#10 無料の小説
いつも通り混雑する時間帯を避けてコモンズカフェに行くと、蒼君が入口近くのコーヒーディスペンサーの前に立っていた。
「惣領君、奥の席でいいかな?」
カウンターから出てきた店長が、蒼君を振り返ってトレーの上の器を指差す。どうやら、蒼君の今日のランチはコモンズカフェ名物のチキンカレーらしい。かすかにココナッツ香るスパイシーな匂いに食欲をそそられる。
「どこでもいいですけど、2人がけのとこで」
蒼君の返事にうなずき、店長は片側がベンチシートになった、最奥の2人用テーブルに向かった。「誰か来るの?」と訪ねると、蒼君は私の鼻先に人差し指を向ける。
「それ、持っていっときます。どうせコーヒー淹れるでしょ?」
蒼君は私の手からヒョイとタブレットを奪い、自分のコーヒーを手に歩いていった。さりげなくベンチ側の席を空けて座るのを見ると、「惣領は女性慣れしていない」という一希君の言葉は嘘なんじゃないかと思う。コーヒーを持って席についたときにはすでに私のカレーも運ばれていて、蒼君の器は半分くらい空になっていた。
カレーに手をつける前にタブレットを起動すると、目の前の天才君は「休憩中は休憩したほうがいいですよ」と、市原みたいなことを言う。
「だって、せっかく蒼君がいるんだから有意義な時間にしたいじゃない?」
私はPitterを開き、臨時会議で糸井部長が触れた、例の予言投稿を表示した。
『岬に建つ生家はギシギシと音を立て、窓から見える海原は、まるで怒り狂ったミエのようだった。ヒカルは堪えきれず目を閉じる。
仄暗い瞼の裏で、すべての身体感覚が奪い去られるような恐怖を覚えた。充電切れのスマホは呼びかけに応じず、沈黙が彼を更なる孤独の渦へと追いやっていく。ヒカルの目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。
上流の堤防はまだ持ちこたえているだろうか。すべて、時間の問題かもしれない。
#AI翻案抜粋 #リテラ・ノヴァ』
「蒼君。この長編翻案、どんな物語だったと思う?」
「400ピースのパズルの全体像を、1ピースで当てろって言ってるのと同じです。この文章が約200字、リテラ・ノヴァの長編翻案は8万字だから」
「400ピースくらいなら想像できそうだけど、……そう簡単でもないか。レゴブロックでも400個あれば色々作れるもんね。
プロフィールには『目で読む派の読書家』って書いてあるし、いろんな本の感想も投稿してるから、本当に本が好きなんだろうな。パーソナライズ翻案への感想が、AI翻案システムへの感想みたいになってるのがちょっと残念」
リテラ・ノヴァのAI翻案に感動してくれているのは伝わるが、『すでに人とAIの境目は消え去って、そこにある文章が私の心を揺さぶる。私のためだけに書かれた小説だと強く感じる。ようやく私の理解者に出会えたという感動』という感想投稿に、翻案の内容に言及した部分はない。
「仕方ないんじゃないですか?」と蒼君は口にする。その意図を尋ねることなく「そうね」と同意したのは、以前、パーソナライズ翻案への感想投稿について、小さな問題が起きたことがあったからだった。
コモンズ・ギャラリーに掲載されている作品について、リテラ・ノヴァ内の掲示板『リテラ・コミュニティ』に感想が投稿されることがある。そこで、とある長編翻案作品を絶賛した感想コメントに対して、「自演ですね」とか「主人公さんですね」といったリプライがついたことがあった。
リテラ・コミュニティへの書き込み権限があるのは、登録ユーザーのみ。そのほとんどが読書好きの『目で読む派』で、リスニング機能の利用は他の類似サービスと比較して著しく少ないという傾向がリテラ・ノヴァにはある。そういった本好き同士、緩やかな仲間意識で結ばれていて、滅多にいざこざが起こることはない。
しかし、この時はDRIが著者探しをしないよう注意喚起して収めた。それ以来、作品を手放しに褒める感想をあまり見かけなくなったのは治安の良さの表れでもあるが、自由な発言の場として機能しにくくなったという側面もある。
カウンセリング・サポート部の分析でわかったのは、ユーザーは自分の物語を読まれたいから敢えて著作権放棄するのであって、自分のカウンセリングが反映された翻案がまったく読まれない状況で、他人のパーソナライズ翻案が絶賛されていることに嫉妬する人も少なくないということ。
パーソナライズ翻案の公開を選択し、形式的に著作権を放棄しても、自分のカウンセリングが反映された作品には当然思い入れがある。それが、私の――いや、DRI職員全員の想像以上だったのだ。
「自分のパーソナライズ翻案の感想を言うのは、やっぱり目に見えるところではやりにくいってことなのかな? 外部コミュニティでもそういうのはほとんど見かけないし」
「批判的な感想ならともかく、自分のだと明かした上で物語を絶賛するような感想文は書きにくいんじゃないですか。この人の場合は著作権も本人にあるわけだし、Pitterで話題になってる。内容を褒めるような投稿してたら、自己満乙とか書いてくるやつがいたかもしれませんよ」
「なんか、嫌な世界」
私の口調が子どもっぽかったせいか、蒼君は口元にかすかな笑みを浮かべた。カレーの器はすっかり空になっている。
「Pitterはそういう世界です。リテラ・コミュニティみたいに、運営が注意喚起して収まるような場所じゃないですよ。個人的には、非公開選択したパーソナライズ翻案は、こんなふうに『#リテラ・ノヴァ』のタグをつけて公開しないほうがいいと思ってます」
「どうして?」
「そのタグがつくと、パブリックドメインだと勘違いする人が出るんじゃないかと思って。『リテラ・ノヴァ』や『AI翻案図書館』って言葉に、著作権フリーのイメージを持ってる人は多いですから」
蒼君の視点にはいつもハッとさせられる。今もまたそうだった。
「著作権って難しいね。もしかしたら、『リテラ・ノヴァ』でリサーチしてるから、他サイトでパーソナライズ翻案が見つからなかったのかな」
「その可能性は高いんじゃないですか。著作権はユーザーにあるわけだし、表記を義務付ける規約はありません。営利目的での利用は禁じていますが、追跡できない以上、ユーザーへの単なるお願いでしかありませんし」
「そこらへんの不備について、佐伯部長はどう思ってるのかな」
「『リテラ・ノヴァ』の翻案だと書いて販売したりしない以上、黙認するつもりのようですよ。そもそも、無名の人間が書いた長編小説が、お金払って買われると思いますか?」
蒼君の指摘が的を射ているのが、私をまた複雑な気分にさせる。
「本業の作家さんたちでさえ苦戦してるんだもんね。無料で読みたいならリテラ・ノヴァじゃなくても小説投稿サイトっていう手もあるし」
「リテラ・ノヴァの翻案とウェブ小説とはジャンルも読者層も違いますけど――、そう言えば、新田さんはアニメ原作を小説投稿サイトで読んでるって言ってました」
AIエンジニアの1人、新田一希君。彼は大のアニメ好きだった。飲み会で酔っ払うとよくアニメについて語っていたが、糸井部長もウェブ小説が原作のアニメをたまに観るらしく、意外な組み合わせの2人がその話で盛り上がっていたのを思い出す。
彼らによると、小説投稿サイトはひと昔前までメディアミックスの源泉だったらしい。しかし、最近ではウェブ小説が原作になるのは珍しい。
AIがアニメ制作の現場に導入され、人気ウェブ小説はどんどんアニメ化されて、その一方で原作小説を小説投稿サイトで読む人は減少。その結果アクセスも減少し、人気作が生まれにくい状況が生まれた。アニメ制作スタジオがオリジナルをどんどん発表するようになったのが、2030年代後半から。そのオリジナルアニメは、AIが出した企画をたたき台にしているものがほとんど――なのだとか。
私がそんな雑談を思い出していると、蒼君が同じ内容のことを話し始めた。一希君から聞いたらしいが、私の知らない情報もある。
「新田さんの話では、小説投稿サイトにもAI小説が氾濫してるみたいです。AI生成のタグ付けがルール化されてて、新田さんが読んでるのは人間が書いたやつだって。けっこう際どいギャグが入ってるから、うちのシステムでは絶対に書けないそうですよ。
うちの翻案もユーザーの選択やカウンセリング結果によってはかなり軽い文体が出力されますけど、人間みたいな倫理のギリギリを攻める表現は基本的に弾かれますから」
「そこらへん難しいよね。著作権切れたものって現代と価値観が違うし、男尊女卑の傾向がかなり強いじゃない。原本指定のAI翻案は、現代の倫理に照らすと疑問を覚えるものもある」
「原本が明記されてますし、ユーザー側にきっちりその当時の価値観を伝える義務もありますから。現代の価値観に合わないものを排除するのは焚書と代わりませんよ」
焚書という不穏な言葉で指摘されドキリとした。蒼君の何気ない言葉は、時に刃のように鋭い。動揺を誤魔化すように、私は咄嗟に思いついたことを口にした。
「今日の臨時会議で問題になってた1970年代レトロ調アニメって、たった70年前なのにかなり際どいみたいね。特に性的表現が、今ならアウトなものが結構あるって一希君が――」
「俺の話?」
声がして顔をあげると、一希君がアイスコーヒーを手にこっちに歩いてくるところだった。




