09
「残念だ。フィリア嬢」
約束の1ヶ月が終わり、イオニアとフィリアは自宅に戻ったところだ。彼はフィリアではなくイオニアをエスコートしている。
どうしてですか? と暴れるフィリアを父に引き渡す。
あの日、イオニアは白蓮に本当の婚約者にならないかと誘われた。
「私の本当の名を呼んでくれただろう?」
あれは、幻惑の師か伴侶しか呼ばないものだと言われて目眩がしたものだ。
「カナリアだって私の名を呼んだことはないのだよ?」
悪戯っぽく笑われて、顔が羞恥に染まる。
「でも、呼んでって」
「そう、呼んで欲しいと言った」
あれは妖流の告白かな? と首を傾げられて、一体いつからとか、どうしてとか混乱に落とされたものだ。
後から現れたカナリアはにやにやしているし、意味深なことを言って更にイオニアを混乱に陥れた。
物思いから戻ると、真っ青になった父と相変わらず困ったような母が目の前に立っている。母はフィリアを抱きしめ、父はぷるぷる震えながら書状を握りしめている。
書状の中身は苦言と王命だ。
白蓮からは、フィリアが様々な男性と親しくしたため、それを嘆いたレンをイオニアが慰めたという筋書きにして、妖の代表から人間の王へ苦言を呈し、王命でイオニアとの婚約を許可させると聞いている。
まるっきり嘘だが押し切るしかない。彼は、イオニアの家の事情をよく調べていて、普通にお願いしても父は頷かないだろうということでこのような形となった。
「ありがたいことですが、イオニアは長女で家を継がないと……」
王命だというのに父の口ぶりは渋い。
「フィリア嬢がいらっしゃるでしょう?」
さらっと何でもないことのように白蓮が言う。
「どちらの娘さんも可愛がっていると聞いています。親子を引き離すのは心苦しいですが、いずれどちらかの子が嫁ぐのは道理。私ではイオニア嬢を預けられないでしょうか」
「そんなことは……しかし……」
白蓮はどこからどうみても紳士だが父は困ったように、縋るような目でイオニアを見てくる。
そして、婚約者ではあるが、妖のことを学ぶために屋敷に滞在して欲しいと彼が言った時、ついに父は決定的な言葉を吐いた。
「イオニアは家のことを手伝っていたのです。居なくなると困ります」
それを聞いて、イオニアの心は一気に冷えた。
娘が婚約すると言うのに喜ばない父母、不貞腐れている妹。居なくなると困る、とは____
「よくわかりました。お父様が私を____愛してなどいないことが」
父はびっくりしたような顔をしている。
「どうしたんだい? イオニア。私達はイオニアを愛しているから引き留めて____」
その顔に嘘はなく、この人は、この人たちは本当にそう信じているのだ。それが余計にイオニアは悲しかった。
「そうかもしれません。けれど、私はもっと違った形の家族になりたかったのです」
「イオニア、お父様に謝りなさい」
珍しく、母が眉を寄せて怒っている。
優しい父と母、可愛い妹、言われるたびに苦しかった。言葉につまるイオニアの前に大きな背中が立った。
「これは王命です。覆せない。貴方達のお嬢さんは私が幸せにします。必ず。ですから、祝っていただけませんか? これはおめでたいことのはず」
____これではまるで不幸があったようです。
続けた言葉に父は息を呑んだようだった。白蓮は間違いなく、静かに怒っていた。
淡々と書類の交換が終わり、沈黙の中ふたたび馬車に乗る。
すまない、と鎮痛な顔をして謝る彼にイオニアは寄り添って言った。
「いいえ、いいえ。怒ってくださって嬉しかった」
そして空気を変えるように明るく話し出す。少しだけ躊躇いながら。
「カナリア様が揶揄うのです。白蓮様が私をイオと呼ぶのは、私に贈る名前を考えて下さっているのではないかって」
妖と人間の婚姻には二つある。人として書類を提出し、人の生ある限りの間結ぶ婚姻。そしてもうひとつは、妖としても契りを交わし、寿命を分かち合い長い年月を生きるもの。
白蓮はあまり人の名前を呼ばない。フィリアの名前を呼んでいるのは、今日初めて聞いた。
妖にとって名前は特別な意味を持つという。彼はよくイオニアの名前を呼ぶから、つい期待してしまう。
「きちんと理解している? 名を受け取ってしまったら戻れないよ?」
彼はどこか期待するように、けれど畏れを含む縋るような目を向けた。
イオニアは大きく息を吸って、吐く。目を閉じて、開くと彼の方をしっかりと見つめ返した。
「____教えてくださいませ」
向かい合って座った馬車の席を移り、白蓮はイオニアの隣に座った。
「イオリ」
耳元でまるで大切なもののように囁かれて、イオニアは震えた。
彼の指は空に文字を書く。きらきらとした彼の朱金色の文字が浮かぶ。
____伊織、と。
意味は、かけがえのない大切な子。
密やかに秘め事のように打ち明けられるそれに、目尻から涙がひとつ溢れる。
彼はそれを指で救うように拭って、忘れないで、と言った。
イオニアは涙を我慢することが出来なかった。ずっと、欲しかったものはこれなのだと。
両親に妹に、愛されたかった。彼らはイオニアを愛しているというけれど、大切にはしてくれなかった。イオニアが家族に尽くす想いを、こちらにも返して欲しい。それは浅ましい願いだったかもしれないけれども、紛れもなく本心で、ずっと求めていたものだった。
白蓮は静かにイオニアを抱きしめる。
「ちょっと早いけれど、いいよね?」
聞き返す間もなく、彼は空中に書いた文字を指で摘んだ。
「これを食べれば、もう戻れない。受け取ってくれる?」
口元に差し出されたそれに、迷いなく唇を開ける。
「大好きです。白蓮様」
言ってきらきら光る文字に口をつけた。
喉の辺りが熱くなって、身体に何か温かいものが巡った気がした。
「愛してる。寂しがる暇もなく傍にいてあげるから」
今は、お眠り。促されて、彼の胸に頭を預けた。
穏やかに髪を梳く手が心地いい。
寂しがりやの子は幼子のように眠る。
まるで、天使のように。なぜならば、彼女は既に本当の愛を知っているから。




