431~440
431.
突然「石焼き芋食べない?」と優しく鶺鴒が微笑んだ。促されて外に出ると風が凍えるほど冷たい。玄関に石焼き芋のお爺さんが立っていた。「今年来れなくなってな。お嬢ちゃんお得意さんだから」新聞紙に包んだほかほかの芋を薔薇が受け取った瞬間、世界は夏に戻っていた。
432.
居間にねじまき式の大きな時計がある。十人中八人が「おじいさんの古時計」を連想しそうな木製の大時計だ。ねじまき式ゆえ定期的に巻かないと止まるはずだが、誰も巻いたことがない。そも、ねじまわしを見た者すらいないのだ。「俺達がいなくなっても動いてんのかなあ」「きっとな」
433.
あさがおの鉢植えを抱えた女の子が庭に立っていた。鶺鴒はしゃがんで視線を合わせた。「みんなでいっしょにいくから、もうおみずやれないの。どうしたらいいかきいたらお兄ちゃんにたのんでみてって。おねがい。あさがおはまだ生きてるから」鉢植えは緑のカーテンの横で花開いている。
434.
カナカナカナカナ…「これなんだっけ?蝉?」「ひぐらしだよ」「涼しいきれいな声だよね」「実際涼しいんだけどね今」「…なんで?」「生きてるひぐらしの声って、けっこう凄まじいんだよ」微笑む兄の背後で、我が家のハンター君影が見えざる筈の眼差しを一心に壁の一隅に注いでいる。
435.
テレビを消したら、真っ黒になった画面に見知らぬ人が映っていた。ぎょっとしてソファを見るが、勿論誰もいない。黒い画面には驚愕している薔薇自身の顔と、とても哀れっぽい表情の見知らぬ人。薔薇はリモコンでテレビをつけた。黒い画面が消える瞬間、見知らぬ人は超笑顔だった。
436.
空が暗くなった。遠くには青空が見えているのに、冷気がさあっと迫ってくる。ゲリラ豪雨とまでは行かずとも通り雨は激しい。薔薇は全力で走るがすぐに追いつかれた。びしょ濡れで玄関に入ると、鶺鴒が靴を脱ぐところだった。降られなかったらしい。「逃げられると追いたくなるからね」
437.
きらっと光るものを見咎めて隼が窓の外を覗くと、庭の池の上を夏空の如く目にしみる金色のトンボが飛んでいた。水面スレスレに近付くトンボ目掛け、水中から柿色のザリガニが鋏を振るう。トンボはひらりと華麗にかわし、飛び去っていった。なんとなく夏はまだ終らないな、と分かった。
438.
鶺鴒はよく赤ちゃんに観察される。鶺鴒と目が合うと停止ボタンを押されたように固まってしまい、微笑みかけても食い入るように凝視する。今も、電車内の赤ちゃんの眼差しは鶺鴒に釘付けだ。しかし暫くすると満足したのか視線をそらし、無人の座席を全く同じ目つきで一心に見始めた。
439.
真夜中、喉が渇いた鶺鴒は台所へ行くことにした。わざと足音を立てるが、今夜は盛り上がっていて話し声が止まない。これ以上音を立てると妹あたりが目を覚ましてしまう。気付かぬフリをして入ろうかとドアの前で悩んでいると、はしゃぎながら出てきた足の生えた湯呑みと目が合った。
440.
金色の月の光が、家路を急ぐ鶺鴒に降り注ぐ。昔は青く見える月のことをそう呼んだのだが、今はひと月に二度目の満月もブルームーンと呼ぶらしい。「ねえいつになったら青い月になるの?」「わかんない。いつだろうね」「わくわくするね」塀の上の二匹の猫に教えるべきなのだろうか。




