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第二十三話 蒯越異度(かいえついど)

その夜、焚き火の周囲では、ひつまぶしと共に、次なる作戦会議が始まっていた。

「ひつまぶし、やっぱうまいな……!」


孫策が箸を動かしながら、笑みを浮かべる。京子と幸美教授が炊きあげた釜は、あっという間に空になりかけていた。


だが、剣人の目は真剣だった。


「袁術は俺たちに『劉表を討て』と言ってきた。でも、無策で行くわけにはいかない」


その言葉に、周囲の空気が引き締まった。


「周瑜さん、劉表軍について、注意すべきは誰でしょう。気になること、ありますか?」


剣人の問いに、周瑜は炭火の炎を見つめながら口を開いた。


「――最も注意すべきは、黄祖。江夏の地を根城とする老練の将。守りの堅さでは随一の武将です」


剣人が軽くうなずいた。


「黄祖……孫家と因縁のある、なんか……ずーっと親子二代、因縁のある武将と聞いたことありますが、どういう男なんですか?」


「うむ。黄祖は、もとは江夏の豪族。董卓が洛陽を蹂躙していた頃、劉表が荊州牧として赴任した。荊州はそのとき混乱の渦中にあったが、黄祖は巧みに独立勢力として立ち回っていた」


「つまり、劉表の配下じゃなかったんだ?」


「そのとおりだ。しかし劉表が勢力を固めると、黄祖は機を見て恭順し、江夏の太守として地位を得た。それでも、完全には従っておらぬ気配もある」


京子が箸を止めて、そっと口を開いた。


「じゃあ……軍師の蒯越かいえつは?」


「蒯越――沈思黙考の謀士だ。口数は少ないが、劉表がここまで勢力を保ってこられたのは、蒯越の存在があったからこそ」


周瑜は火の明かりに照らされた顔に、わずかな陰を落としながら言葉を続けた。


「彼は軽挙妄動を嫌い、時に黙して語らず。しかしその思索の深さは、諸葛亮にも匹敵すると言われている。動かざる智、それが蒯越だ」


「そして水軍の蔡瑁さいぼう……?」


「うむ。若き野心家だ。江夏の水軍をその手に握り、江陵や襄陽から長江を封鎖できるのは彼の力があってこそ。黄祖が江夏の陸を守り、蔡瑁が水を抑える。蒯越が戦略を調整し、劉表は中央で座す。……この三柱が並び立つ限り、荊州は容易には崩れない」


「三すくみのようだな……」


剣人が苦笑を漏らした。


「黄祖は孫堅の命を奪ったと聞いてます。なら、俺たちにとっては因縁の敵。だけど、感情だけでぶつかっても勝てないってことか……」


「剣人、あなたの言う通りです」と京子がうなずく。


「でも……その三人、今でも完全に協力しているわけじゃないのでは?」


「そのとおりだ。三人の間にも軋轢はある。蔡瑁は黄祖の老いを見て軽んじる節があり、蒯越は蔡瑁の野心を警戒している……」


周瑜は、ひつまぶしの最後のひと匙を茶碗にのせると、静かに言った。


「そこを突く。それが勝機になる」


焚き火がぱちりと火花を散らした。

夜の帳の下、静かに進軍の構想が練られていく。


剣人の目は闇の彼方を見つめていた。

因縁の地――江夏。

宿敵――黄祖。

そして、智謀の策士――蒯越。


すべてを越えなければ、前へは進めない。この3人が、劉表を支えていると言って過言ではありません。」



「ではお腹も満たしたところで、劉表軍について改めて、戦略をお話しましょう」


周瑜は、軍議の場でZwatchで映し出された地図の荊州に指を添えると、静かに語り出した。


「劉表――字を景升。兗州、山陽郡高平県の出身だ。名門中の名門、前漢景帝の第四子・魯恭王劉余、その第六子・郁桹侯劉驕の末裔にあたる。いわば、皇族の血を引く男だ」


その名に一同が静まり返る中、周瑜は続けた。


「若き頃は洛陽の太学で儒学を学び、当代随一の清流派、いわゆる士人の雄として名を馳せた。熹平の頃、党錮の禁によって多くの名士が弾圧されたが、劉表はその中でも『八及』と称されるほどの人物。張倹という賢者の逃亡を助け、自らも追われる身となったが、志を曲げることはなかった」


剣人が目を見張る。「それほどの正義漢が、どうして軍を率いる身に?」


「運命の巡りだな。黄巾の乱によって党錮の禁が解かれた中平元年、彼は何進に招かれて政界へ復帰。北軍中候に任じられた。そして霊帝が崩じたのち、詔によって荊州刺史へと任命される。だが、彼の本当の試練はそこからだった」


地図上の漢水をなぞりながら、周瑜は低く言った。


「荊州に赴任したものの、長江南岸は既に土豪どもが割拠し、中央の命など誰も顧みぬ混乱の地だった。彼はまず漢寿に入らず、北部の宜城へ進軍。反乱分子を討伐して北荊州を掌握し、州治を襄陽に移した。まさに冷静かつ着実な戦略家よ」


孫策が腕を組み、深く頷いた。「なるほど……剛ではなく、柔の政治家というわけか」


「その通り。だが、剛腕さも併せ持つ。初平元年――董卓の専横に義を唱えて挙兵した反董卓連合。その流れに劉表も加わった。そして今回、玉璽を追って、我々を、・・・」

「劉表は江夏の黄祖を前線に据えてくるだろう」


周瑜は、劉表の動きを予想しきっていた。

――

荊州政庁。静まり返った謁見の間に、重い足音が響く。


「――孫堅の軍、漢水を越え、樊城を囲みました!」


使者の声が城壁のように響き渡ると、劉表の眉がぴくりと動いた。


「……とうとう来たか」


その傍らに立つ男が、一歩進み出る。襟を正し、やや細身の体をまっすぐに保ったまま口を開いた。


「殿、ここは動かず、守りに徹するべきと存じます」


その声の主は、蒯越かいえつ


荊州の内政を預かる参謀にして、劉表の信任厚い文官である。


「孫堅は勢いこそあれど、背後に袁術を抱えておる。戦が長引けば、糧秣の途も細りましょう。彼の怒涛の勢いは、飢えと共に衰えます」


「異度殿の申される通り、籠城すれば勝機は我らにあり」


そう応じたのは、老将黄祖こうそ


白髪混じりの髯を撫でつつ、鎧の肩を鳴らしながら力強く語った。


「我が江夏の水軍、未だ健在。樊の城を砦とし、孫堅を漢水に沈めてご覧にいれましょうぞ」


「しかし――!」


声を張ったのは、もう一人の男、**蔡瑁さいぼう**である。

若き司令官は、腰の剣を軽く叩きながら、焦燥を隠さぬ眼で進み出た。

――

「孫堅は勇将。汜水関では董卓軍を破り、玉璽を持ち帰ったと聞く。まさに虎の如き男。籠城しているうちに、我が士気が削がれぬ保証はございませぬ!」


「若造、策に乗るな。城は民の命綱。戦は、先に疲れる方が負けるのだ」


黄祖が低く唸る。


蔡瑁は言い返しかけたが、蒯越が手を挙げ、二人の間に立つ。


「両将、冷静に。孫堅の狙いは明白です。玉璽を抱えて、英雄として名を上げるため、荊州を“正義の敵”に仕立てるつもり。戦えば、彼に“理由”を与えることになる」


「だが――戦わねば、我らの威信が地に堕ちる!」


蔡瑁の言葉に、政庁内がざわついた。


劉表は、しばし沈黙したのち、ゆるりと立ち上がる。


「……孫堅は、我が劉氏と同じ皇族の血を汲む男。我らが戦えば、それは“同族の殺し合い”となる」


「ですが殿! 孫堅が玉璽を持っておれば、それは“帝”を名乗る証にもなりましょう!」


蔡瑁の指摘に、蒯越が一瞬、眼を伏せた。


「……ならば、玉璽を得た証拠を掴むべきです。民に“奪いに来た”と信じさせれば、我らが正義となる」


「それでは卑策に過ぎる」


「いや、乱世では、それが“政”です」


空気が張りつめた。



「孫堅の進軍は早い。このままでは、江夏まで三日もかからぬでしょう」

蒯越の言葉に、蔡瑁が眉をひそめた。

「蒯公、それでも我らには水軍がある。黄祖将軍の陸戦隊と連携すれば――」

「戦えば勝てる、というのは、過信だ。孫堅には勢いがある。虎に挑むには、まずその牙を削がねば」


議論が熱を帯びる中、外の廊下から、風もないのにひゅうと音がした。

やがて、門番が慌てた様子で駆け込んできた。

「し、失礼つかまつります! 仙人を名乗る者が、御前に……!」

「仙人?」


蒯越がわずかに目を細め、黄祖が渋面を浮かべる。


「また山の占い師か。戦に臨む今、戯れ言に付き合っている暇はない」


「されど……その者、門をくぐった瞬間、守衛の一人が泡を吹いて倒れ……」


そこへ、ふわりと香のような香気が漂った。

廊下の奥から現れたのは、深い緑の法衣をまとい、白髪を風にたなびかせる不思議な男。

髭は長く、眉は雪のように白い。だが、瞳は黒曜石のように澄み切っていた。

「……于吉仙人、と名乗ろう」

彼の声は静かにして深く、響くように議場を満たした。


「これは、風聞に名高き……」


蒯越が低くつぶやいた。

蔡瑁は不快げに顔をしかめたが、黄祖だけはじっとその姿を見つめていた。


「于吉……そなたが何を告げに来た」

「一つだけ。……孫堅文台、討たれますぞ」


静寂。


蒯越も、蔡瑁も言葉を失い、ただ黄祖だけが眉を跳ね上げる。


「それは……我らの勝利を占うものか?」


「否。孫堅は、天に逆らい、死相を得ている。だが――彼を討つのは、あなた方ではない」


「……何?」


「戦に出てはなりません。とくに、黄祖将軍。そなたが矛を振るえば、命の灯は揺れ、すべての運命が崩れる」


言い終えると、于吉はふっと笑みを浮かべ、背を向けた。


「去るとしましょう。……我が役目は、ただ風を告げるのみ」


その背に、誰も言葉を返せなかった。


やがて静寂が戻り、蔡瑁が憮然と吐き捨てる。


「仙人だの何だの、馬鹿馬鹿しい……」


だが蒯越だけは、膝の上に手を置いたまま、じっと思案していた。


黄祖はふと、自らの掌を見下ろした。

その皺深い手に、汗が滲んでいた。


――孫堅を討つ。その大任が、どれほどの意味を持つのか。


荊州の空に、風が騒ぎ始めていた。


そのとき、再び使者が駆け込んできた。


「報告!孫堅軍、樊城を三方より囲み、補給路を遮断し始めました!」


劉表が、無言で城外の地図に視線を落とす。


「蔡瑁」


「はっ」


「江夏水軍を率い、樊城の西方・峴山へ伏兵を。黄祖は城を守り、蒯越は……鄧県の守備と民心の掌握に回ってくれ」


「承知!」


「……必ず、生き延びよ」


その言葉に、蔡瑁は瞳を揺らした。


「お主には未来がある。だが、“信”を失えば、未来は誰にも与えられぬ」


蒯越の助言に、蔡瑁は頷いた。


劉表は最後に、遠くを見るような眼で言った。


「孫堅よ……なぜ、この地に火を放たんとする」


政庁の外では、雷鳴のような太鼓が響き始めていた。


戦は――間もなく始まる。


荊州の大地が、炎に包まれるその前夜であった。

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