第二十一話 周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)
冬の陽光が江東の寿春を柔らかく包んでいた。
冷えた風はあるものの、空はどこまでも澄み渡り、その青さが勝利を迎える地にふさわしい清廉さを感じさせていた。
「……父上の軍が戻られました!」
城壁の上から伝令の叫びが上がるやいなや、城内にいた者たちは一斉に駆け出した。
兵士、文官、民草、皆が歓声を上げ、寿春の門前へと集っていく。
門の向こう、馬蹄の音が鳴り響いた。
先陣を切るのは、赤い甲冑に身を包んだ堂々たる武将。江東の虎——孫堅文台である。
「父上……!」
門前に最初に飛び出したのは、孫堅の次男・孫権仲謀だった。
年若き彼は、文武を併せ持ち、沈着冷静な性格で知られていたが、このときばかりは声を張り上げていた。
孫堅が馬から降りると、孫権は駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「よく守ってくれたな、権……そなたの成長、頼もしいぞ」
「父上も……ご無事で何よりです……っ」
ふたりは短く言葉を交わすと、力強く抱き合った。
そこには、戦場で生き延びた者と、それを信じて待った者だけが分かち合える確かな絆があった。
その様子を、少し離れた場所で見守っていた者がいる。
孫策伯符。
孫堅の長男にして、天性の武将。父に似て直情的で、戦場においては誰よりも勇ましい存在。
彼は静かに口元を緩めた。
「親父も、弟も……無事か。ならば……」
そのとき、風が吹いた。
策の耳に届いたのは、懐かしくも力強い声だった。
「策——!」
その名を呼ぶ声に振り向いた孫策の目に飛び込んできたのは、一騎の若武者。
淡い青の外套、洗練された鎧、そして何よりも、その整った顔立ち。
「……公瑾……!」
孫策は声を上げると、迷うことなくその男へと駆け寄った。
ふたりの間には、一切の言葉は要らなかった。
再会の一歩先で、彼らは力強く抱き合った。
「よく戻ったな、策!」
「お前がここを守ってくれていたからだ、公瑾!」
周瑜公瑾。
孫策の義兄弟にして、周家の若様。風のように優雅で、鋼のように芯を持つ男。
彼の存在は、この江東において唯一無二だった。
◇
江東・舒県の春。
桃花が咲き乱れ、鳥のさえずりが谷を渡るころ。少年・孫策伯符は、名家・周氏の館を訪れていた。
「君が、周公瑾か」
「そうだ。君が孫策……噂以上の覇気だ」
出会った瞬間から、二人の間には奇妙な気配が流れた。敵意ではない。だが、簡単には心を許さぬ、鋭い眼差しの交錯。
それでも、その日、二人は語り合った。天下の行方、義と忠、軍略と志。
月が昇るころには、盃を酌み交わし、すでに兄弟のような情が芽生えていた。
孫策が言った。
「俺は江東を獲る。だが、この地は広く、荒れている。文と武、両輪でなければ治まらぬ」
「ならば、私は文を預かろう。君が剣を振るうなら、私は道を敷く。共にやろうじゃないか」
そうして、孫策は周瑜に手を差し出した。
「兄弟として、誓わんか。共にこの乱世を駆け抜け、天下に義を示すことを!」
周瑜は、その手を強く握り返した。
「誓おう、伯符。君が日なら、私は風となろう。共に昇らん、この江東の空へ」
—
それからの日々、二人はまさに「文武両道」の化身であった。
孫策は剛勇無双、戦場において一騎当千の活躍を見せ、江東の郡県を次々と平定した。
一方、周瑜は軍略と人心掌握に秀で、民を治め、将を育て、軍の士気を高めた。
その信頼関係は、戦場においても寸分の狂いがなかった。
ある日、孫策が伏兵に囲まれ窮地に陥った時。
「伯符が危ない!」
その報を聞くや、周瑜はわずか五十騎を率いて救援に駆けつけ、的確な采配で敵軍を混乱させた。
孫策はその背に、かつて誓い合った言葉を思い出していた。
——「君が日なら、私は風となろう。」
まさしく、周瑜は風のごとく現れ、陽光のごとき孫策を支えた。
—
そして、別れの刻。
孫策が刺客に命を狙われ、傷を負ったとき、最期に呼んだのは周瑜だった。
「……公瑾、江東は、お前に託す……」
「伯符……!」
その遺言を胸に刻んだ周瑜は、孫権の補佐として呉の基礎を築き、赤壁の大戦へと導いていく。
孫策と周瑜——
彼らの友情は、ただの主従でも、同僚でもない。
乱世に咲いた、義と信義の象徴。
そしてそれは、孫権の世代へと受け継がれていくのだった。
◇
──
その光景を少し離れた場所で見つめる男がいた。
未来から来た剣士・孫剣(高木剣人)である。
「……あれが、周瑜……」
剣人は、何気なくスカウターを起動させた。
ヘッドマウントディスプレイの視界に、データが浮かび上がる。
【スカウター解析中:対象 周瑜 公瑾】
知力:100
武力:88
政治:94
魅力:99
音楽感知力:∞(計測不能)
「……こ、これは……」
驚愕の数値に、剣人は思わず目を見開いた。
孫策が信頼を寄せる理由が、数値のすべてに現れていた。
——そのときだった。
「……あの方は、どなた?」
静かに呟いたのは、白衣を翻して傍に立っていた山中幸美教授——、未来の科学者であった。
「えっ……? 教授……?」
「周瑜……公瑾……? なんて、綺麗な人……」
教授の声は、どこか夢見がちだった。
彼女が初めて科学以外に視線を奪われた瞬間だった。
──
寿春の城門が開かれ、孫堅軍が堂々と入城する。
戦いで煤けた鎧、矢傷を負った肩。だが誰一人、視線を伏せる者はいなかった。彼らは誇り高く、江東の民の期待をその身に刻んで帰還したのである。
門をくぐるその瞬間、城内から太鼓が鳴った。祝賀の合図だった。
兵士たちの足取りにあわせて、文官たちが花を撒く。
子どもたちが小旗を振り、老婆が涙をぬぐいながら手を合わせる。
それはただの「帰還」ではなかった。
希望が、戻ってきた。
「剣人」
ふいに呼ばれ、剣人は振り返る。
孫堅が、彼に向けて歩み寄っていた。
「そなたの名は……いや、“孫剣”と呼ぶべきか」
「はい……今はその名で、生きています」
「洛陽での働き、見事であった。策を講じ、我が軍の背を守ってくれた。その器、並の者ではない」
そう言って、孫堅は自らの佩剣を軽く叩いた。
「そなたが孫家に来たのは、偶然ではない……これは天命かもしれんな」
「……天命」
剣人は、自分の手を見つめた。現代ではただの大学生。だが今、戦を越えて人を守り、歴史を動かしている。
——この手に、宿る意味を、今こそ知る。
「剣人殿、ようこそ、江東の未来へ」
周瑜の声が重なる。
孫堅、孫策、孫権、そして周瑜——
この寿春の地に、江東を導く星々が、すべて揃った瞬間だった。
やがて、この地から立ち上がる「呉」という国が、三国のひとつとして並び立つ未来を、今はまだ誰も知らぬ。
だがその芽は、確かにここにあった。
風は静かに、江東を撫でていた。
――
夜。
寿春城では、帰還祝いと周瑜の再会を兼ねた宴が開かれていた。
庭園には篝火が灯され、簡素ながらも心のこもった膳が並べられていた。
楽師たちが笛と鼓で調べを奏でる中、ふいに、ひとりの男が中央に進み出た。
周瑜であった。
彼は腰に携えていた古琴を静かに広げ、膝を正して座ると、
城内にいる全ての者が息を呑んだ。
「この曲は……『梅花落』と申します。長き戦より戻った英傑たちへ——」
そう言って指を弦に滑らせた瞬間、柔らかくも清らかな音色が広がった。
音の波が、戦の傷を静かに洗い流す。
剣人も、孫堅も、そして孫美も——誰もがその世界に引き込まれていた。
——そして、曲が終わった。
「……すごい……」
幸美教授は、小さく呟いた。
彼女の眼には、涙がにじんでいた。
「周瑜様……その旋律の第三音……故意に半音下げましたね? あれは……情緒と風景の投影……」
「おや、そこに気づくとは。貴女、ただ者ではありませんね」
「わたし……音波工学の研究もしてます。あの音に、心を……持っていかれました」
ふたりは静かに見つめ合った。
音楽——理屈ではなく、魂で通じ合う時間。
剣人と孫策が顔を見合わせ、小さく笑った。
「教授が……恋してるな、あれ」
「だな。周瑜の魅力、恐るべし」
──
宴の終わり、孫堅が立ち上がり、杯を掲げた。
「皆の者、よくぞこの乱世を生き延び、ここに戻ってきてくれた。策、剣、そして……周瑜。そなたたちがいる限り、我ら孫家は負けぬ」
杯が高く掲げられ、城内は歓声に包まれた。
その片隅で、剣人は静かに呟いた。
「この時代に来て……ようやく、仲間って呼べる奴らに出会えた気がする」
彼の手には、未来から持ち込まれた南斗聖剣。
その刃が、月明かりに応じて静かに光っていた。
(周瑜公瑾——きみは赤壁の戦いで、英雄になるんだよ)
共に戦おう
剣人の胸に、新たな決意が宿った夜だった。




