回想 6
その日は、デビューの準備ついでにと、クローディアおば様が私とお母様、そしてアニー義伯母様をお茶に誘って下さった日だった。
人形役に疲れた私は有り難く美味しい紅茶と甘い焼き菓子を頂いて満足していた。美味しいのは大事である。美食家じゃないけど。
美しい庭園、少し暑い日差し、長閑な空気。
浮世離れしているよなあ、などと暖気に考えていた時だった。
ねえ、シア? と呼ぶどこかいつもより硬い声に少しばかりの違和感を覚えながら、陽光に向けて細めていた目を声の主であるお母様に向けると、そこには声と同じ、どこか硬い、そして何かを迷うような色が交じったお母様の顔があった。珍しいことに首を傾げると、不思議な問いをかけられた。
あなた、ジョシュアのことをどう思ってるのかしら? と。
意外な質問に、意図を図りかねてお母様を見詰めると、お母様は更に言葉を足した。
「ジョシュアのこと、好き?」
その一言は、なぜかやけに耳に、頭に響いた。
それは勿論、好きだった。但し、幼馴染みとして、友人として、ではあったが。
何となく、お母様の問う、好き? の意味が、私の考える好きとは違う気は、した。そしてその勘は外れていなかったとすぐにお母様の爆弾発言と共に知ることになったのだが、その時の私は取り敢えず頷き、好き、だって大切なお友達ですもの、と答えた。
事実、彼とは、回数は年々減っていっていたが、相変わらず社交シーズンに王都に行くと内輪のみのお茶会で時折会っていて、お互いの近況を楽しく話したりしていたのだ。彼がどう思っていたかは知らないが、毎年会う彼は変わらずに真面目で律儀で穏やかで優しい人で、そんな彼とのお喋りは、私には楽しい時間だったのだ。
私の返事を聞いたお母様は、何とも言い難い表情で考え込んだ。クローディアおば様とアニー義伯母様も何も言わなかったが、なぜかお母様と同じような表情をしていた。
暫く、沈黙が辺りを占めた。
そして、その爆弾が沈黙を破った。
「シア、あなたとジョシュアで婚約してもいいかしら?」
――正直、お母様が何を言ったのか、すぐには理解できなかった。衝撃が大き過ぎた。
この国の貴族令嬢の結婚適齢期は15歳から20歳。つまり、社交界デビューとは、そういう意味なのだ。ちなみに貴族子息のデビューは16歳。
この時の私は当然15歳。いよいよ社交界デビューという年齢。そして彼は18歳。14歳で従騎士になった彼は16歳で既に社交界デビューを果たしていた。つまり婚約するのに、年齢的には何の問題もないと言えた。何か問題があるとすれば、彼はまだ従騎士であり正騎士ではない、ということくらいだった。だがそれも、結婚する、というのであればであって、婚約であるなら問題にはならない。
ならない、のだが。
私には、お母様がなぜこんなに突然、しかも社交界デビューを目前に控えているとは言え、まだ正確にはデビューしていない娘に、婚約話などをしているのかが疑問だった。
この国は、恋愛結婚が推奨されている。理由は単純、そのほうが子供ができる確率が上がるから、というもの。これには切実な理由があった。この国は三方を敵国に囲まれている。大国ではないが、立地のせいか非常に肥沃な大地で実り豊かであり、また鉱物資源などにも恵まれているため、常に他国から狙われているのだ。国を守るためには闘う騎士が1人でも多くいるほうが良いと考えるのは、まあ納得も賛同もできないが、必然なのだろうとは思う。そして、騎士を1人でも多く確保するには騎士になる為の人間が必要である。当然、子供は多ければ多いほど良い、ということになる。子供を多く産んでもらうには恋愛結婚のほうが良い、という結果に至った経緯は分からないし、それが本当に多産の結果を生んでいるのかも知らないが、恋愛結婚が推奨されているということは、それなりに結果が出ているのだろう。
そんな国の方針により、平民は恋愛結婚が割りと当たり前になっていた。それでも裕福な商家などでは政略結婚がないわけではない。況してや貴族になれば、まだまだ政略結婚も多いのが実情だった。しかし、貴族にも恋愛結婚は浸透しつつあった。事実、お母様と父は恋愛結婚だと聞いていた。
だから私も、恋愛して結婚できる、かも、とちょっとだけ、ちょっとだけ思っていたのだ。これから社交界で出会う、素敵な誰かと恋をして結婚できるかも、と。お母様も当然それを望んでくれているだろうと何の疑問も抱かず当たり前のように思っていた。だから、この、まるで政略結婚のような婚約話には驚いた。
とは言っても、この話は正確にいうと政略結婚にはならない。なぜなら、彼は確かに士爵家という貴族の長男ではあるが、士爵という爵位は一代限りの栄誉爵位。たとえ跡を継げる男児がいても、爵位の継承はできないからだ。つまり彼は、貴族といっても限りなく平民に近いのだ。彼の父親が亡くなれば彼は平民になる。但し騎士になれたならば紳士階級というものになれるが。
紳士階級とは貴族と平民の間に当たる階級で、社交界に顔を出すことは可能だが、貴族ではない。貴族の子息も皆この紳士階級に属するが、男爵位以上の貴族家の子息達と士爵家の子息や騎士達の紳士階級では社交界での見られ方が違う。爵位の継承が可能な貴族家――侯爵から男爵までの貴族家――の嫡男――大抵長男――を含む子息達の紳士階級と士爵家の長男を含む子息達の紳士階級では、社交界における見られ方に天と地ほどの差がある。騎士となれば――騎士の種類や階級にもよるが――況してや何を況んや、である。
そういうわけで、彼と結婚すれば私も平民になる。真面目で頑張り屋の彼ならば多分騎士にはなれるだろうとは思うが、それでも紳士階級だ。彼が戦で国王に認められるほどの戦果や功績を挙げて士爵位を賜らない限り。そして士爵位を賜らなかった場合、私と彼の子供は確実に平民となるのだ。通常貴族家の政略結婚と言えば家と家のより強い繋がりやより良い繋がりを求めてするものだから、それに当て嵌めればますます以て、私と彼では政略結婚にはなり得ない。
考えれば考えるほど、どうにも解せなくなっていった。
なぜ、お母様はこんな話を突然持ち出したのか。なぜ、クローディアおば様もアニー義伯母様もお母様を止めないのか。……まあ、クローディアおば様とアニー義伯母様にとっては、どんなにお母様と親しい間柄といっても、そこは他家の話。口出しのできないものだろうけれど。
――彼は、この話を知っているのだろうか?
頭の中に浮かぶ様々な疑問に答えが出せないまま、お母様達の顔を代わる代わる見ている内にふと、そんな疑問が新たに湧いた。知っているのならば、どう思っているのだろうか、とも。
私には、彼がこの話を持ち出したとは到底思えなかったのだ。彼の態度はいつでもあくまで友人、幼馴染といった感じで――或いは妹かもしれないが――、とても私に対して恋愛感情があるとは思えないものだったから。もし仮に、彼が私に対して恋愛感情を持っていたのだとしても、彼の性格からして先ず私にその気持ちを告げてくれる筈だ、という思いもあった。
無いとは思うが、仮に我が家から持ちかけたのだとしたら。地位が上の貴族からこういった話を持ちかけられれば、下位の貴族は断り難い。勿論、絶対に無理とは言えないが。持ちかけられ方にもよるのだ。とにもかくにも、万が一にも億が一にも、我が家からの話だとしたら。私としては良い友人である彼に、無理強いはしたくなかった。……私自身はどうなんだと問われれば、その時の私は答えを持っていなかったのだが。要するに、多分、かなり混乱していたと思われる。
お母様達にじっと見詰められていた私はとにかく何か答えねばとあれこれ考えた結果、彼はどう思っているのですか、と何とか問いを絞り出した。するとお母様は、そうね、ジョシュアとお話ししたほうが良いわね、と微笑んだ。その笑みはやはりいつもと違って計り知れない色が浮かんでいて、私の中に表しようのないもやもやとした、感情とも何とも言い難いものを残した。