回想 4
異変をはっきりと感じたのは、新しい年を迎えて、兄が休みを終え王都へと戻って暫くしてからだった。
その少し前から、ほんの僅かな違和感を感じてはいたのだが、兄と2人にならないように、極力母にくっついているようにすることに全神経を傾けていた私は、その違和感を放置していた。残念ながら前世から、同時に2つのことに気を回せるほど器用ではなかった。それが良くなかったのだと、後に後悔する。
最初は、小さな変化だった。どこへ行くにもついてきてくれていた遊び相手の彼女が、あまりついてこなくなったのだ。本にはあまり興味のない少女だったし、淑女の嗜みの刺繍も好きではないし、彼女は一応メイド見習いだから、他に仕事でもあるのだろうとあまり気に留めていなかった。
軈て、彼女はよく転ぶようになった。それも、必ず私のいるほうへ向かって。当然私は巻き込まれ下敷きになり、しょっちゅう痣や擦り傷を作るようになった。
また、我が家には何とも贅沢なことに図書室があったのだが――この世界において、貴族の屋敷に図書室があるのは珍しくないとは後に知るのだが――その図書室にある本の中でも希少ではない本は、私でも図書室から持ち出すことを許されていた。その為、私はちょくちょくそんな本を持ち出しては自室や居間などで読んでいた。辞書や図鑑なども綺麗な挿し絵があったりして面白いので、それを眺める為に持ち出したりしていたのだが、それらは大抵大きくて重い。その大きくて重い本を私が部屋へ運ぼうとすると、それまでいなかった彼女がどこからともなく現れて、手伝いを買って出てくれる。それ自体はとても助かる。助かるのだが。私の足の上に必ずうっかり本を落とす。何と器用な、と返って感心したくなるほどだった。しかし当然ながらそんな重たい本が直撃した私の足には痣ができる。悪くすれば腫れる。
それでも、それくらいで終わっていれば、私に咎められるくらいで済んでいただろう。
だが彼女の偶然はどんどんエスカレートしていった。
抓る、蹴る、突き飛ばす、足を引っかける、が日常化し、髪を梳かす、と言っては引っこ抜く。そんな日々が続く。まるで兄が帰ってきたかのようだった。いや、四六時中一緒にいるだけに、余計に質が悪い。
なぜそんなとこをするのか問い質しても、彼女は一向に口を割らなかった。何のことかと嘯き、悪びれもせずににんまりと人の悪い笑みを浮かべる。とても13歳の少女とは思えない笑みだった。
彼女の変貌の理由が分からなかった私は、何か自分が悪いことをしたのかとも訊ねたが、それにも答えはもらえず、1人悩むことになった。
とにかく痛い思いをするのは嫌だったので、私は極力1人で部屋に籠り、彼女を避けるようになった。
この頃、甘やかしていたのが悪かったのか、かなりな我が儘娘と化していた妹といるのも億劫になり、1人でいる時間が一番ほっとできていた。
この異変に逸早く気づいたのも、やはりお母様だった。そして、口の重たい私の身体をあっという間に裸に剥いて調べ、大量の痣や擦り傷、腫れを見つけるや、医者を呼び出し治療させ、原因を探って突き止めた。怒った母は、恐いだけではなかった。凄まじい行動力と調査力を発揮したのだった。
春を迎える頃には、娘の監督不行き届きと、私付、つまり貴族令嬢付メイドとして失格という理由で、私の乳母だったメイドは馘首された。言うまでもなく、私への暴行で、その娘もだ。実は私の乳母は以前に一度馘首になりかけていた。兄の私への行いを、気づいていたにも関わらずお母様や父に報告せずに放置していたからだ。その時は、解雇すると憤るお母様を父が何とか宥めて収まったが、今度ばかりは父もお母様を止めようがなかった。二度も同じことを許したのだ。まあ当然と言えば当然である。
ただ、この時の私に、遊び相手の彼女がなぜあんなことをしたのか、という理由が知らされることはなかった。そのことに関しては特に気にしなかったが、理由が知りたかったとは思った。何か自分が悪かったのなら、二度と同じ過ちを繰り返さないように直したかったからだ。たが結局、お母様に「あなたは何も悪くないのよ」と言われて終わってしまった。お母様にそう言われてしまっては食い下がれなかった。
新たな私付のメイドには、お母様付のメイドであったエリンが、教育係も兼ねてついた。
お母様の信用厚いこのメイドは、教育となるととても厳しいが、基本的にはとてもおおらかで明るい人だった。お母様とほぼ同じ年齢であることも、私の安心材料の1つだった。エリンがいれば、王都に行っても兄に怯えて過ごさなくても済むかもしれない。そう思えるほどに、彼女はとても忠実忠実しく、けれど煩くない程度の絶妙な加減で面倒を見てくれた。
その年に王都に行くと、更に新しくメイド見習い兼遊び相手が加わった。ターラというその娘は、お母様の一番上の兄であるフェイ伯父様が連れてきた。歳は私と同じ。愛らしい顔立ちで、明るく人懐こい性格だった。
しかし一度失敗していた上にその理由が分からないままだった私は、彼女に対して非常に慎重になった。様子を見ながら本当に少しずつ、少しずつ、距離を詰めていった。ターラはそれを察したのか、けれど特に気にした様子もなく、常ににこにこと笑顔を絶やさずに仕事に私の相手にと、くるくるとよく働いた。その仕事ぶりを見ていた私は、ただただ感心するしかなかった。同じ歳だというのに一方は働き、一方は遊んでばかり。いや、一応勉強はしていたけれども。
彼女に感心して心象が大分変わった頃には社交のシーズンも終わり、お母様は勿論、エリンのお陰でこの年は王都でも中々楽しく過ごすことができたのだった。すっかり我が儘娘に変貌してしまっていた妹に、ターラと2人で四苦八苦したり困り果てたりはしていたが、それすらも笑いに変えてしまう彼女に助けられつつ。