第一章
鉄臭さと生ぬるい空気に目眩がする。
血に汚れた包帯。
苦しげなうめき声。
転がすように寝かされた人間。
助けたいのに、足が震えて動けない。
拒絶の声。
恨むような視線。
想像に怯えて喉の奥が震えそうになる。
身体が強ばり、肺が上手く膨らまない。
「聖女ルクレア……仕事の時間だ」
「っ……」
床の冷たさに意識が引きずられる。
起こした身体が軋み、視界がはっきりとし始める。
日はまだ昇っていない。
窓の外の暗さに、少しだけ安堵する。
硬い床に座り込んだルクレアは、暫く震える自分の手を見つめ、頭を横に振った。
「……バカみたい」
掠れた喉で呟いた声だけが、石畳に反響していた。
「起きろ!!」
鉄格子の揺れる嫌な音でルクレアの意識が引きずりあげられる。
窓の外は薄明かるく、汚れたままの床は変わらず冷たい。
冷えて軋む身体。
ぎしりと痛む関節を庇うように起き上がる。
「まだ、食事の時間でも無いでしょ」
ルクレアが憮然と返せば、外から聞き慣れた舌打ちが聞こえてくる。
「罪人が偉そうにしやがって……いいから、早く出ろ!!」
軋む格子戸の音と、無遠慮に踏み込んでくる足音に、ルクレアは顔を顰める。
「ちょっと!!」
乱暴に掴まれた肩が痛みを訴えた。
伝わってくる温度が不快で仕方がない。
「宰相閣下がお呼びなんだよ!! 早く出て仕度をしろ!!」
鉄格子の外の空気にルクレアの肩がびくりと震えた。
しかし、すぐに自分を抑える看守を見上げ、睨み付ける。
「……今更あたしなんかに、宰相様が何のようなのよ!!」
「知るわけがないだろう!! いいから早く仕度をしろ!! その有り様じゃあ、閣下の前にお目通り出来んだろ!!」
「ちょっと!! 分かったから……!! 掴まないでよ!!」
半ば引きずられるようにして、ルクレアは数ヵ月ぶりに部屋の外へと連れ出された。
「いいか? 宰相閣下をお待たせしないために、手早く済ませろ。あんまりぐずぐずしてたら、ひん剥いちまうからな」
赤い痕が残った手を投げ出すように解放された。
手の震えを身体の内に閉じ込めながら、ふんと鼻を鳴らしてみせる。
押し込まれた部屋は、牢屋よりはましな広さだった。
暖かい部屋の空気に、数ヶ月ぶりに肺の中まで潤っていく気がする。
部屋の中央、なみなみと張られた湯を手にかける。
「……暖かい」
凍りついていた指先が溶けていく。
その場に座り込んでしまいそうになるが、部屋の外から聞こえる、看守の足踏みの音に、指先に力が入った。
あの男に洗われるだなんて、冗談でもごめんだ。
破れた布を脱ぎ、湯を浴びた。
ふと、棚の上に置かれた鏡が目にとまる。
……湯気で白く曇ってしまったそれに、安堵の息が漏れた。
石鹸を手で泡立て身体に纏わせるが、すぐに泡はつぶれ、べたついてくる。
流れていく湯は黒炭でも溶かしたような色だ。
荒れた肌に石鹸が滲みる。
透明になることのない湯で何度も身体を流し続けた。
品の良い調度品で整えられた執務室に、ペンだけが忙しなく走る。
淹れたての紅茶の香りとインクの匂いが部屋に満ちていた。
セルディア王国の中枢を担う宰相は、次々と手元の書類に目を通し、サインを済ませていく。
次の書類に手を伸ばした時、ついでとばかりにルクレアに視線が投げられた。
宰相は一度、鼻に皺を寄せてから、再び書類に目を落とす。
「聖女ルクレア。君が投獄されてから、暫く経つ。君も自分の罪と充分に向き合うことが出来ただろう。なので、再び聖女として、この国の役に立てる機会を与えてやろう」
ペンは止まらず、走り続けている。
不快な音にルクレアは眉間に皺を寄せた。
「近頃、魔王の影響によるものか、我が国での魔獣被害が増大傾向にある」
「それがあたしに何の関係が……った!!」
口を挟もうとしたルクレアの腕に痛みが走った。
隣に立つ看守の冷たい瞳に突き刺される。
「君には魔獣退治の遠征に出る騎士に同行してもらう予定だ。あまり数を割いて、その他の重要業務に影響を出すわけにはいかないからな」
返事は要らないと、矢継ぎ早に言葉が投げられる。
「騎士一名と君とで、騎士団が手を回せない各所を巡って貰う。これは非常に重要で意義のあることだ。国民を守ることが出来る立場にあるわけだからな」
宰相は机に肘をついたまま書類に目を落とす。
「出立は君の体調が整ってからとする。君は、仮にも聖女の一人なのだからその見てくれでは些か外聞が、な」
視線がルクレアの姿を嘲笑った。
発言を許されていないルクレアは唇を噛みしめ、肋の浮いた身体を空いてる方の手で抱き締める。
あれ程出ていきたかった筈の檻の中が恋しく思えてしまいそうで腕に力を込める。
「……仕事の時間だ。聖女ルクレア」
ルクレアの喉が震える。
耳の奥で嫌な音がする。
今まで向けられなかった宰相の視界に、初めてルクレアが写っていた。
低い天井。
ベッドに隠れて見えない床。
固いマットに身を預け、破れたシーツに包まれた穏やかな寝息が部屋に満ちる。
薄暗い窓の外からは鳥の鳴き声すら聞こえてこない。
夢も見ずに、ルクレアは寝具の中で手足を抱えて眠っていた。
「いつまで寝ているつもり!?」
がちゃりと扉が開かれて、眠りが奪い取られる。
身体が強ばり、心臓が弾けそうになる。
静寂を嫌ったメイドは、足を広げて立ち、ルクレアを見下ろした。
「わざわざ、朝食のご準備をしてあげたんだから早く食べてくださいませ?」
ベッド横の机にがちゃりとトレーがぶつかって、跳ねたスープが毛羽立ったシーツを濡らす。
「これだけ?」
「ええ。充分でしょう? 何もせずに毎日寝てるだけの"聖女様"には」
小さなパンと薄いスープ。
メイドは腕を組み、口角を上げている。
「……ええ、そうね。牢屋の中での食事に比べればご馳走だわ。どうもありがとう?」
息を吐き、メイドに向かって鏡のように口角を上げてみせる。
牢屋の中では、いつも空っぽの腹を抱えていた。
それに比べれば、充分な食事だ。
「くっ……」
メイドは唇を噛みしめ、ルクレアを一瞥すると踵を返して部屋から出ていく。
扉が閉まり壁が揺れる。
「平気よ。こんなの」
薄いスープを匙で掬い、指先で、黒さが薄れた肌を撫でた。
硬い金属の音と汗の匂い。
遠巻きに投げられる視線。
ルクレアは騎士団の鍛練所の隅で椅子に座り、縮こまる。
「あ~……聖女、様? 治癒魔法をお願いしても?」
「手を出して」
差し出された手にこれは仕事なのだと、操られるように手が動く。
剣で抉れた傷口が照らされ、みるみる内に塞がれる。
手の持ち主は苦痛に歪んだ顔を引きつらせていく。
「……どうも」
「仕事だから」
足早に離れる騎士と他の騎士との話が届く。
「あの力で……」
「何考えてるか分からなくて……」
「苦痛を喜んでるとか……」
遠くに聞こえる騒音。
昔のように、何も見ないために顔を上げずに地面をじっと見つめる。
「聖女ルクレア。力を使ったばかりですまないが、こちらもお願いできるか?」
真っ直ぐと呼ぶ声が、見つめる瞳が、ルクレアを捕まえた。
「わ、かったわ」
差し出された腕は大きく裂かれている。
目の前の騎士は、腕を照らす光を静かに見つめている。
「終わりよ」
「ありがとう。助かった」
瞬き一つしなかったその騎士は、傷が塞がった腕をじっと見てからルクレアを見つめる。
「別に。仕事だから」
椅子に座り直して、視線を逸らす。
「そうだな」
騎士は立ち上がり、鍛練の輪に戻っていった。
ふと、痛みを訴えない相手は始めてだったとルクレアの視線が騎士を捉える。
彼の視線はルクレアを写さない。
だから、ルクレアはそちらを見ていた。
騎士たちは変わらずに遠巻きにルクレアを見ていた。




