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千歳とて、外出ぐらいはする。
確かに根底は出不精だが、散歩するのはどちらかといえば好きだし、人がたくさん居るところに行くのは気が引けるだけで、嫌いとも言い切れない。
というわけで、休日にはメモを渡されて買い物を頼まれることもある。最寄のショッピングモールへ、よほど重いものを頼まれていなければ、歩いていくのである。ほとんどが食品なので、売り場をうろつくと家族連れやら奥様方やらの中で明らかに浮くのだが、そういうことには耐性があったから苦にならない。ついでに入っている書店で新刊を確かめたり、文房具を買い足したりも出来るので、一度も拒んだことは無かった。
身に着けた防寒具が少し鬱陶しく感じるほど、店内は暖かい。あまり綺麗とは言いがたいかもしれない空気が、それでも冷たくなった頬には優しかった。
入ってすぐ左手は食料品売り場だが、彼は右を向いて歩き出した。まず書店に行こうと決めていたからだった。
あちこちに赤いハート型の風船などの可愛らしい飾りが施されているのに、歩いていると気づく。黄色いタペストリーを見て、その理由を知る。ピンク色の文字で『2・14 Happy Valentine! 』と印刷されていたのだ。
「……そんな季節か」
女性ではないので用意する必要もないし、肉親を除いた人に貰ったこともないので毎年淡白にも忘れているイベントだった。この時期の女性は大変なんだろうという考えから始まって、二月の風物詩だなあというところまでが、千歳の認識の限度である。
ただ、そこはかとなく甘い感じを抜けて入った書店では、幾重もの意味で空気が変わっていたが。
「おや、千歳君?」
横にはそう広くない店内だが、その分本棚の最上段は天井間近である。そのため、あちこちにはしごが備品として置いてある。
その一つに登りかけていた少女が、彼を認めて微笑した。
「……槐、先輩?」
槐夕夜。身長と体重は中学生以下だが、これでも千歳と同じ学校の二つ年上の先輩に当たる。博覧強記というか、とりあえず知識が広大な上アプローチが独特なので、毎回教師陣を悩ませている、級友いわくの『史上最悪の不登校児』。
どうして此処にと訊けば「買い物に」だろう。当たり前だ。書店なのだから。
ただ、どうして高校三年生の晩冬に、文学評論の書籍を取ろうと頑張っているのか。確かに、彼女が参考書を睨んでいる光景など想像できないが。
混乱しながらも、とにかくはしごを押さえることにした。少女は金属製のそれを殆ど軋ませることなく身軽に登り、目的のものを本棚から手の中に滑らせると、やはり体重が存在しないかのような動きで再び床に足を着け、千歳へ微笑を向けた。
「ありがとう。いや、こういうところって流行り廃りに影響されているようで、意外と侮れないんだよね」
ご満悦の少女が掴んでいる本は、確かに訊いたこともない作者の名が印刷されている。
「……息抜き、ですか?」
「ああ、僕 進学しないからね」
一瞬で言葉の意味を悟る辺りは流石才媛なのだろうが。
「………………働けるんですか?」
本人申告で病弱とはいえ、高校と同じような勤務状況ではたちまち馘首になるのでは。
率直で失礼な言葉を呟いてしまったのに、少女はいつも通り楽しげなままだった。
「その辺りは問題ないのさ。気遣ってくれてありがとう」
曖昧に首を振って、レジに向かう彼女の後姿をぼんやりとその場で見送る。
最後の最後まで教師陣の期待や打算など何のそのと行動するところが、真に槐夕夜らしい。
戻ってきた少女は「呼び止めてしまって悪かったね」と頭を傾けた。
「君は買い物かい?」
「どちらかと言えば、お遣いです」
「それはまた可愛らしい」
皮肉もからかいもなく笑顔で応じる夕夜に、彼もまた淡く微笑を返す。
彼女の独特の雰囲気は、やはりあの図書室に助けられてのものではないらしい。怜悧さに相応しい、澄んだ空気。不思議と心地好いのだ。だから、というわけでもないだろうが、ほんの数ヶ月前に会った人なのに、卒業を思うとほんのりと寂しい。
この人ですら、いつか記憶の中で薄れてゆくのだろうか。
「……先輩」
考えるとほぼ同時に、問いかける。思い出したのは、若狭夏野のこと。
「覚えているより忘れた方が、より遠くまで行けるんでしょうか」
「それは分からないよ、僕如きじゃ」
振り向いた夕夜は真顔だった。
「覚えているのは手間暇かかるし、時にとても辛いことだけど、でも忘れない人が進めないわけじゃない」
「……そう、ですね」
「記憶の四つのプロセスって聞いたことあるかい?」
「“記銘”“保持”“想起”“再認”……?」
いきなりひょいと飛んだ話に、千歳はとりあえず応じる。そういえば、初めて助手として働いたときにも窈にこんな話を振られた気がする。
「そうだよ。じゃあ、“再認”時にちょっとずつその記憶が変わってゆくことがあるっていうのは?」
小さく頷く。記憶の齟齬や美化があるのはそのためだと。
「うん。だからさ、“想起”段階で問題が起こって“忘れた”記憶って、実はちゃんと“保持”されているわけで……極論だけど、そのことはそのまま、自分の中に残っていると考えられなくもない」
思い出せないことと引き換えに、歪むことなく。
「だから、忘れた人だってきっとそんなに立ち止まって寂しがる必要があると言わなくて良いんじゃないかな。……結局は、望むとおりにやるのが一番だ……って、やっぱり答えにならなかったね、ごめん」
「いいえ。……変なこと、訊きましたね」
「それこそ気にしないで」
笑った少女は、多分何処までも忘れようとはしないで行くのだろう。
何の脈絡もなく、ふとそう予感した。
ならば――自分も、出来る限りのことを覚えていたいと、そう思った。
「……窈、どうして《獏》は、《百年時計の獏》なんて呼び方があるの?」
夕食後、ずっと疑問に思っていたことを問いかけると、《獏》はさっと顔を上げた。
眼差しは真摯で、けれど顔色は僅かに白い。もしかしてと考えて、窈がその呼称を気に入っていないのは分かった。
「……えっと、少し思っただけ、なんだけど」
「…千歳くん、それ、何処で」
「本で。……嫌、なんだよね?ごめんなさい」
窈は小さく首を振った。
「大丈夫。……そうだね、尤もな疑問だもの」
少女は一度深呼吸をして、まだ白さを残したまま、けれど一先ず微笑した。
「それは元々数代前の《獏》の自虐の言葉から来ているの。――『《獏》は時計に螺子巻いて、百代をつないできた』って言う。響きが綺麗で、たぶん意味も正しくは伝わらなくて、だからそういう言葉も生まれた」
その何処が自虐なのかなど、訊ける筈もなかった。首を垂れて、言葉を重ねる。
「……ごめんなさい」
「気にしなくて良いの、本当に。……そう、時計といえば」
いつも通り柔和に微笑した窈は手を打って振り返り、リヤンの名を呼ぶ。しばらくして現れた女性はそっと、二人のついているテーブルに天鷲絨の箱を置いた。
てのひらに納まる大きさのそれは、角の丸い正方形といった風の形をしている。褪せが微塵も存在しない完璧な濃紺は、貴金属の中身を連想させる。しかし、同じくそっと窈が蓋を開けると、意外にも入っていたのは普通の時計だった。千歳が分からないだけで実は結構な値打ちものということもなさそうだ。極めて普通の、男性用のアナログ腕時計だった。
「多分、若狭さんが忘れて行かれたものだと思うの」
「この間……じゃなくて、十一月のとき?」
頷いた窈に代わって、リヤンが口を開く。
「帰られた後、清掃中に発見しまして保管しておいたのですが、整理の際仕舞い込み、それきりでしたので、先日も失念していたのです」
年末それほど大掛かりな整理を見た覚えがないので、十中八九千歳が住むに伴っての作業だろう。誰にも責任はないはずだが、千歳としては弱冠夏野に申し訳無かった。
「もしかしたら思い出して、でもまた入って良いか困ってしまうかもしれないし、もし見かけたら声を掛けて欲しいんだ」
本当は届けるのが一番なのだが、依頼者でもない以上、《獏》としての権限を行使するわけにはいかないのだろう。となれば、一高校生の千歳に出来ることもない。了承して、彼は箱の中の時計を見た。生活感はあるが丁寧に手入れされていた。




