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《獏》――《百年時計の獏》は“魔法使い”の一種とされるが、正確には異なる。
確かに『後天的に不思議な力を得る』ことは共通だが、それよりも差異の方が絶対的に多い。
まず彼らは、周りが喧騒とならないよう配慮はするが、人と交流する。多くの“魔法使い”が世間を避けるのを鑑みれば明らかに異質である。
これは《獏》が人の心ともいえる記憶に触れ、その一部を夢に還元することに関連する。これも相違と言えるだろう。“魔法使い”が触れるのは世界の理であり、その穴である。人間を扱う魔法も皆無ではないが、その触れる部分が全く異なる。魔法はあくまで世界に拘り、《獏》はどこまでも人間のものである。
また、“魔法使い”の多くが弟子、つまり後継者の有無について無関心であるのに比べ、《獏》は弟子を一人と定めている。言い換えればその一人を獲得するのが半ば義務と化している可能性はある。技能の継承も、詳細は不明だが、魔法のそれとは大きく異なるらしい。
その他、『嘘を吐かない』『名乗るのは最小限』などと、細かい掟が存在するのも相違といえよう。
噂によれば日本で生き残っているのはたった一人らしいが――。
「……変だ…」
更科千歳は釈然としない気持ちのまま、本を閉じた。
なんだって一私立高校の一図書室に、政府機関レベルの“魔法使い”という単語が乱発されている本が在るのだろうか。
絶対おかしいと思える千歳もおかしいのだが、一応のところ彼は話題の《獏》の被保護者にして助手なので、正当な理由はある。
一度司書に訊いてみたいような、恐ろしいような。
やめておこうと結論付けて、彼は棚に本を戻した。
この辺りでは有名な進学校ゆえに、千歳の通う私立清林学園高等部の三学期は慌しい。一応大学付属ではあるが、外部を受ける生徒も少なくないからである。首都の方やら古都の方やらに向かう人間もかなり居て、二月ともなれば校内で見かける三年生の姿は格段に減る。
放課後ということを差し引いても密度が少なくなった廊下を進む。人がうつした温度は薄く、晴れた空もそこはかとなく低く感じる。まだ、春は暦の上にしか来ていない。制服と同化しそうな濃緑のマフラーを巻いて靴を履き替え、昇降口を出る。
「更科」
しかしそのとき掛かった声に振り向くと、級友の羽咋零が三歩ほど遅れて出てきたところだった。千歳はきょとんとその端麗な顔を見る。
「……どうかしたの?」
必要最低限しか他人に働きかけない彼がわざわざ自分を呼び止める理由が想像できなくて首を傾げる。
「見かけて、丁度良いから気になっていたことを訊こうと思って」
「何を?」
「十二月の件、結局大丈夫だったの」
「…………多分?」
語尾が自然に上がる。窈もリヤンもあれきり何も言わないので、何もないのだろうと思っている。
やはり「曖昧だね」と零には眉をひそめられたが、多分彼は彼なりに気にしていたのだろう。時間はずいぶん経っているが、様子見にはそう長すぎる期間ではない。
「気にしなくて、良いのに」
申し出たのは自分で、窈に迷惑を掛けるのも自分で、零が気に病むことでもない。気にするべきだとしたら自分だから。
「申し出を受けた以上、僕だって責任はあるよ」
突き放すような口調には、けれど棘はない。
「でも、どうやって取るの?」
責任があって、損害があったとしたら。
純然たる疑問として訊ねると、「そっち次第だよ」と素っ気無い答えが返ってきた。予想済みだったのかもしれない。
少し考えて、しかしやはり答えはひとつだった。
「もし、何かあったとしても」
零が改めて賠償することなど、何もない。
「今まで、助けてくれたから」
それで、きっと、十分だ。
「そう。じゃあ、今まで通りってことだね」
「え」
「……あのさ、まさかとは思うけど、槐先輩の分も僕の所に乗せてないよね」
もう良いのに、と言おうとして返ってきた言葉に納得する。
確かに知恵を借りたのは主に零の天敵たる彼女だった。しかし零が居なければ聞けなかった話が多いのも事実だ。
「……抱き合わせ販売?」
「ホント止めてくれる?意味も微妙にあってないし」
「ごめんなさい……」
視線の痛さに負けて謝ってから、首を振る。
「でも、本当にそこまで気にしないで良いのに」
「貸し借りが嫌いなだけ」
「じゃあ、借りなくて良いよ」
本当は、何かあるたび話を聞いてもらっていたのに、何も返せないことが心苦しかった。そして、返したつもりで向こうに負担を思わせているのも心苦しいのだけど。
「……更科」
弱冠硬くなった声で、溜息混じりに零は言った。
「思いやりも受容も、行き過ぎれば単なる卑屈だよ」
「……そう、かな」
「相手を考えなければ尚更に」
投げられた言葉を含んで、吟味して、考えて。
千歳はそっと、言葉を拾い上げた。
「…………じゃあ、頑張って返してくれる?」
多分、零がもっとも相応しいと思っている言葉。
推測は当たったらしく、彼は少し皮肉の色を残しているものの、口角を上げた。
それを確認して、じんわりと嬉しくなる。安堵よりもずっと積極的なもので。
――今まで通り。
ここに何時まで居られるのか分からないけれど、せめてもう少しの間だけは時間を信じたかった。
「……どうしたのかな」
零と別れて入った路地で、所在無さげに佇む青年を見つけて、千歳は首を傾げた。大学生だろうか、ラフだがこざっぱりした印象で、髪の色は脱けているが特に浮ついた感じは受けず、ごくごく普通の、どこにでも居そうな人物のようだった、ただ、何処と無く茫洋とした表情が気に掛かる。迷って途方に暮れているというのでも無い――《獏》への依頼を迷っているようでも無い。
結局千歳は彼へと近づいて「どうかしましたか?」と声を掛けることにした。青年は弾かれたように振り返った。
「俺の、知り合いか?」
奇妙な問い掛けだったが、とにかく初対面だと示すために首を振る。
「何か困ってらっしゃるようだったので。それに……そこは、僕の家、なので」
正確には《獏》こと鬼無里窈の家なのでなんとなく主張するのも悪いような気がしたが、とりあえず門扉をくぐらないことには帰宅できない。
しかし彼のその言葉に青年は目を瞠って、掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。
「ってことは、君が《獏》なのか!?」
「え……違います、住み込んでいるだけで、単なる助手です……」
勢いに呑まれて返しながら、あれ、と内心呟く。
先ほど青年に覚えた違和感とは別の、もっとよく慣れたもの。
千歳の中の、虚偽を裁く彫刻の名をした感覚の囁き。
――どうして?
嘘など、吐いていないのに。
彼の頭の中では混乱が回っていたが、元来薄い表情のおかげか青年は気づかなかったようだ。拍子抜けしたように降りてきた肩と共に吐かれた溜息は、勢いをまとめた大きなものだった。
「いや、ごめん、取り乱して」
「いえ……《獏》に御用ですか?」
「あ、うん、だけど……」
青年はやはりためらっているようだった。依頼するかしないかではないと判断する。
「……普通は、さ。《獏》って依頼以外で人に会わないんだろ?」
よく分からないまま、千歳はこくりと頷いた。依頼以外の、興味本位な用事だと、忠実なリヤンがさっさと追い返してしまう。
「俺は……その、依頼じゃないんだけど、訊きたいことがあって……」
「訊きたいこと?」
「俺は、何を依頼したのか、って」
不思議な言葉に、千歳は目を見開いた。
「まあ、記憶喪失?」
窈は目を瞬かせた。若狭夏野と名乗った青年は首肯する。
話をまとめると、彼は《獏》に依頼をしに行った後、事故で頭を打って記憶が混乱したらしい。日常生活に支障は無いレベルだが、四ヶ月経っても、ここ数年の記憶は断片的であった。そして先日、部屋で『《獏》に会う』といった主旨のメモを見つけて手掛かりにならないかと訪れたらしい。
「それはお気の毒でした。お身体の方は?」
「そっちはすっかり大丈夫なんですけど……やっぱり、気になって」
「ええ、当然ですよ。……千歳くん、ちょっとリヤンに訊いてきてくれる?」
いきなり名指しされて思わず背中を伸ばしてしまったが、言われた名にも首を捻る。二度とは利用できない場所だから、顧客名簿など無いと思うのだが。
「彼女なら覚えているかも。少なくとも、依頼を受けたかどうかは、きっと分かる」
その言葉の意味は分からなかったが、千歳は頷いて応接室を出た。
台所で夕食の支度をしていたリヤンに声を掛けようとした瞬間、その背から「何か御用でしょうか」と素っ気無い言葉が飛んできて、思わず体を強張らせる。
「……今、大丈夫ですか?」
まだ少しうるさい心臓に落ち着け落ち着けと唱えながら問うと、紅みがかった栗色の髪が翻る。
窈は黒絹のような長い髪に茶色の瞳の、柔らかい印象を持つ少女だが、この女性は髪も瞳も紅の混じった栗色で、何処か硬質である。不思議な色に人工的な要素が皆無である辺り、謎が多い。
「えっと……若狭夏野さんという方、依頼に来られたことがありますか?」
「いつ頃でしょうか」
「昨年の十一月以前……くらいしか」
リヤンは少し考え込んだが、すぐに顔を上げた。
「十一月にいらっしゃいました。随分ためらわれて、結局その日は依頼せずに帰られたと思います」
「依頼の内容は、全く?」
「ええ……ただ、《獏》が消せるのは一つの事件だけなのかと訊かれたような気はします」
「……それだけじゃないんですか」
「基本的に“食事”は『一つの事物に関連すること』なら変換できますので」
「つまり……特定の人とかものとかに関しての記憶なら、一連として消せる?」
リヤンが頷く。そこまで出来るとは未だに知らなかったので、感心すると同時に空恐ろしい気分になる。
たった一つの出来事さえ、残りを狂わせることがある。ならば。
「だから窈様はおっしゃったでしょう?『断片的に記憶を消しては危ない』と」
「あ、仙波さんの……」
愕然として固まっていた思考が廻る。あれは方便かと思っていたが、実はそればかりではなかったらしい。
「ですから、若狭さんにも大方同様のことを申し上げました。ますます悩まれて、もう少し考えてからまた改めてとおっしゃって、その日は帰られたはずです」
それきり来ない依頼人も珍しくないから、気にも留めなかったのだろう。
これくらいですが、と締めくくるリヤンに頭を下げ、千歳は応接室へと戻った。
「……大丈夫でしたでしょうか」
リヤンは鍋の中の灰汁を掬いながら、ぽつりと零した。
一を聞いて十を悟るといった風ではないが、普段は緩やかなのに切欠を掴むと連鎖的に真実まで辿り着いてしまう、直感的な頭脳を持つ少年。本人の葛藤の中心にある異能も一役買っているのだろうが、結局は一役でしかない。
その弾みが頼もしくもあり――恐ろしくも、ある。
断片を揃えてしまえば、薄氷は砕けるだろう。ましてや。
リヤンは取っ手を持つ指に力を込めて、今夜進言する内容の推敲を胸中で始めた。
リヤンの証言を伝えると、窈は残念そうに眉を下げた。
「お役に立てず申し訳ありませんでした」
「いや、駄目で元々と思ってたんです。此処まできちんと教えてくれただけでも収穫だと思います」
では、と笑って去ろうとした夏野に、千歳は「お大事に」とだけ言った。
《獏》に辿り着いたことを考えると、早く戻るといいですねとは、言えなかった。