雪花の記憶 壱
お久しぶりでございます。桜咲です。
今回は悠紀さんの過去編となります。
淡い粉雪のように切なく、儚い刹那の物語の中で少しでも彼らの想いを伝えられたらと思います。
それではどうぞ、泡沫の記憶へ––––
春風の中、ひとひらの雪片が儚げに舞う
声にならない声で呟いた
忘れ雪
春に降る淡く、儚い雪花
春の足音に心躍らせる世界に突然舞う細雪
心の底から願った人の願いを叶えてくれるという、気まぐれな終雪
本当に願いを叶えてくれるというのなら、どうか、叶えてほしい
この、心からの願いを――――
春の気配がもうすぐそこまで迫ってきた、よく晴れた日だった。
「姉さん。仕事ですか?」
依頼書を手に難しい顔をしている姉の手元を覗き込む顔立ちがそっくりの少年。だが、あいにく背が足りず、よく見えない。姉は背伸びをして懸命に覗き込もうとしている少年の頭を一撫でして頷く。その拍子に羽織っている上着の袖口から冬空の色をした剣と指輪がついたブレスレットが覗く。ランクは『A』。
「ええ。涼ちゃんと一緒に委員会の方のね。悠も行く?」
彼女は少年の姉、蒼燕 海紀。年は少年と同じ。真面目そうな大人びた顔立ちも、冬空色の瞳も、漆黒の髪も全て同じ。だが、少年とは違い、少し儚げな印象が強い少女。そして、雪のように白い肌。
「姉さんが難しい顔をしてる仕事は大抵難しいから、僕にはまだ・・・。それに、僕は委員会に所属していません」
悠と呼ばれた少年は幼い外見に似つかわしくない真面目な顔で言葉を濁す。眉間にしわを寄せていると、姉は口元に手をやって小さく笑うと彼の肩に手を置く。
「いつもなら「憧れの氷瀧さんに会える!」って言って飛びつくのに、珍しいわね」
恥ずかしさでか、黒髪の隙間から覗いた耳が赤く染まる。彼は動揺を誤魔化すように咳払いしてから答える。
「氷瀧さんには会いたいですけど、僕はまだどの支部にも所属していませんから・・・」
自分と同じ冬空色の瞳を見つめ、生真面目な答えを返す。姉と違って自分は最近ようやく自分の意思どおりに異能が使えるようになったばかりだ。ランクだって姉とは違いまだ『B』。レベルは3。足手纏いにしかならないことは自分が一番よくわかっている。
「大丈夫よ。来年委員会に入るための試験を受けるのでしょう?その前の現場見学と思えばいいのよ」
そうする事が当然、とでも言わんばかりの口調で姉がニコッと笑う。それでも弟が俯いているのを見ると、苦笑して彼の額をつん、と突く。
「そんなに眉間にしわを寄せてると、そのまま取れなくなっちゃうよ?」
突かれた額を押さえ、無言で抗議する。姉は膝をつくと弟と視線を合わせ、再び微笑む。
「ね?」
首を傾げる海紀。どうやらきちんと視線を合わせて話したかったらしい。自身と同じ色の澄んだ瞳にじっと見つめられ、気まずげに視線を泳がせると一度目を閉じ、覚悟を決めたように目を開ける。
「――――わかりました。足を引っ張らないよう、頑張ります」
「よし、じゃあ行こうか。いつまでも待たせると涼ちゃん怒るから」
依頼書を手にとても嬉しそうに玄関へ向かう姉。不安げな面持ちでその後姿を追わなければと思いつつ、彼は少しの間動けなかった。
本当に、自分がついていって大丈夫なのだろうか。
どうしてもそう思わずにはいられなかったのだ。
――――思えば、このときから予感のようなものがしていた。俺は全力で撥ね付けるべきだったのだ。
この時の選択を生涯悔いたくないのなら――――
春を受け入れ始めた公園にある大きな木の木陰にラフな格好をした少年が一人で立っていた。木の幹に背中を預けているその少年は、普通の子供とは少し違っていた。なんというか・・・彼の周囲の雰囲気というか空気が、他とは異質、と言えばいいのだろうか。
まるで、そこだけ世界が違うみたいな。
少年はこちらの存在に気付き、もたれていた幹から背中を離す。顔面に年相応の笑顔が一杯に広がる。そうすると彼を取り巻いていた異質な空気が跡形もなく払拭される。どこか不安を滲ませた顔に満面の笑みを浮かべた少年は早足に駆け寄ってきた。
「よっ、海紀。・・・と、悠紀か。久しぶり」
「こんにちわ、涼ちゃん」
「こんにちわ、涼宮さん。お久しぶりです」
気さくに片手をあげ挨拶をしてきた少年。彼の手首には紺色の十字型の槍と指輪がついたブレスレットがある。ランクは『Z』。悠紀達より四つ年上だったと記憶している。焦げ茶と茶色の間の色の髪が陽光を受け眩しく輝き、紺色の瞳が意外そうな色に染まる。
「お前も来てくれるなんてな、悠。嬉しいぞ。それから何度も言わせんな。氷瀧か海紀みたく涼でいい」
本当に嬉しそうに破顔しながら悠紀の髪をくしゃくしゃかき回す少年。名は涼宮 氷瀧。撫でられた悠紀はムッと眉間にしわを寄せて「わかりました。ですが、子供扱いはしないでください」と彼の手をやんわり払う。
「さて。揃ったみたいだし行くとす「その前に依頼の確認、でしょ」
早速歩き出そうとした氷瀧の襟首を摑んで待ったをかける海紀。彼は「ハイハイ」とやる気なさげに海紀に向き直る。素直な姿勢に満足げに頷いた海紀は依頼書を広げる。
「まず今回の依頼場所だけど・・・わかってるわよね?涼ちゃん」
「そりゃあ・・・・・・・・・えとっ・・・・・・。何処だっけ?」
海紀に話を振られ、いきおいよく話し出したものの後が続かず、目を泳がせて首を傾け、最後は頭をかく氷瀧。本当に知らないらしい。海紀は深いため息をつくと悠紀と同じ、冬空色の瞳にこれでもかというぐらいの呆れをぶちまける。
「もう、昨日確認したばっかりでしょ。しっかりしてよ、涼ちゃん」
「メンゴメンゴ。んで、何処?」
「本当に悪いと思っていない人には教えないわ。一人で道に迷って獣に骨も残さず食べられてしまえばいいのよ」
恐ろしいことをさも天気の話をするかのような口調でさらりと毒を含めて言い放った海紀。それも爽やかな笑顔で。氷瀧はそんな物言いに怒る、のではなく底抜けに明るい顔でははっ、と笑う。
「俺がそこらの獣風情に喰われるように見えるか?」
絶対の自信がこもった問いかけのような断言。自分に自信がなければこんなことは言えないだろう。そんな氷瀧の言葉に海紀は失笑とともに冷たい眼差しを投げる。
「ええ。見えるわ。安心して。“空の珠”の手錠を何個もつけて最終的には木に縛り付けてあげるから。そうすればろくに抵抗も出来ず喰われるはずよ。あぁ、あとは獣が好みそうな血のにおいでもつけておきましょうか。痛みがないかどうかは保障できないけど、確実に食いついてくれるわよ」
またしても恐ろしい発言。だが、その言葉からは敵意などの感情は読み取れない。悠紀はまたですか、と小さく呟き空を眺める。
「で、場所は?」
一通りふざけ合うと真剣な顔になった氷瀧が問う。海紀は依頼書と一緒に渡された大きな地図をショルダーバックから出すとその場に広げる。
「ここよ。ずいぶん前に閉鎖された研究所」
地図に書かれているその研究所の名前を見た瞬間、悠紀は背筋が冷たくなるのを感じた。自分の記憶が正しければ、ここは・・・。
「姉さん。ここって・・・前」
「ええ。この研究所はあの事件のあった場所よ」
あの事件。悠紀の脳裏に一年前の新聞の一面が浮かび上がる。この研究所で働いていた人達が何者かによって虐殺されたのだ。女子供だろうと見境なく皆殺し。犯人はいまだ捕まっていない。それどころかろくな調査が行われないまま立ち入り禁止になったと聞く。
「そんな物騒なとこに子供三人向かわせるなんて上層部はなに考えてるんだか。ったく。やってらんねーぜ」
「異能者が関わってる可能性が示唆されたの。今回の任務は少人数での研究所内の偵察。まず私達が中の様子を見て、異常有りとみたら即座に増援が突入する手筈になっているわ」
肩を回しながらの氷瀧の言葉を軽く聞き流して続けた海紀は右太ももにつけたホルスターから丸い小型の無線機を三人分取り出して氷瀧と悠紀に手渡す。思わず受け取ってしまった悠紀だが、手渡された無線機を両手で受け取ってからはっとする。
なんで姉さんは三人分持ってるんだ?さっき初めて行くって言ったはずなのに・・・。
「姉さん。何で無線機三人分持って・・・る・・・・・・。まさか・・・」
言葉の途中で姉の意図に気付き、確信に満ちた瞳で姉を見つめる。ふふっと悪戯っぽい笑みを口元に乗せた海紀は悠紀の額を小突く。
「正解。私は最初から悠を連れてくつもりだったのよ」
「直属の上司にはなんと説明したんですか?」
頭を抱えたい心境に駆られながらも一応訊いてみる。どうせ「弟に実際の任務を経験させてあげたいんです」とかもっともらしい理由を並べて許可をもらってきたのだろう。姉のすることは簡単に想像出来る。
「悠の考えてる通りによ」
それは向こうも同じ。諦め混じりのため息をつく弟を姉は楽しそうに見ている。
「海紀。無線機、どうやってつけんだ?」
そんなじゃれあいの横で手渡された無線機を勝手にいじっていた氷瀧が説明を求める。ちらりと氷瀧を見た海紀は名残惜しそうにもう一度悠紀を見てから視線を外すと自分用の無線機を見えるように手のひらに置く。
「この無線機は異能を込めれば勝手に形を変えて取り付けられるようになるわ。見てて」
ブレスレットにしている指輪を外すと数秒目を閉じる。と、彼女の手のひらの丸い無線機が形を変えていく。
「これは・・・」
丸かった無線機は氷のイヤリングに姿を変えていた。氷瀧と悠紀は驚きに目を見開いている。大きな任務に携わった経験がない悠紀は当然として、彼もこんな高性能な無線機を使うのは初めてらしい。
「すごいでしょ。これなら異能で守られてるから戦闘中に壊れる心配もなくて安心よ」
得意げにウインクしてみせる海紀。何故姉がこんな高価な無線機を持っているのだろう。疑問に思った悠紀だがすぐに嘆息する。おそらくこれももっともらしい理由をくっつけて借りてきたのだろう。我が姉ながら恐ろしい。
「さて。行きましょうか」
目的の場所に着くと、二手に分かれることになった。研究所に入った途端道が分かれていたからだ。
「俺は深希と二人でいい。姉弟で仲良くやれよ」
水もないのに宙に浮いている体長一mほどのサメ、深希の頭を撫でながらひらひらと手を振って分かれ道の右側を選び、進んでいく氷瀧。その手にはいつの間に出したのか紺色の十文字槍が握られていた。
「行こう。悠」
「え・・・。ですが、氷瀧さんが・・・」
もう見えなくなってしまった氷瀧の進んでいった分かれ道を心配げに見る悠紀。海紀は涼が選んだ分かれ道を一瞥もせず左側に足を踏み入れる。
「大丈夫。涼ちゃんは強いからね。何かあれば無線で知らせてくるだろうし心配ないわ」
「そう・・・ですね」
もう一度氷瀧の選んだ分かれ道を見て、迷いを振り切るように頭を振ると姉の後へと続いた。
研究所内は数メートル先も見えないほど真っ暗だった。明かりらしい明かりといえば壊れた建物の隙間から入ってくる微量な光のみという状態なので、足元がおぼつかない。
「はい、懐中電灯。こんな真っ暗闇じゃ進み難いわ」
中に入って少し進んだ時、ショルダーバックから一つだけ小型の懐中電灯を取り出した海紀が横にいた悠紀に渡す。渡された小さな懐中電灯に目を落とし、次に姉を見つめる。
「姉さんは要らないんですか?」
「敵が現れたら即行で叩けるようにしとかなくちゃいけないからね。行く先を照らしてくれる?」
「はい」
海紀はその返事を聞くとすぅ、と真剣な表情に変わる。神経を張り詰め、僅かな気配、物音すらもらすまいと集中しているのがわかった。彼女の手はいつの間にか剣の柄にかかっている。その肩には一羽の燕が止まっている。姉の相棒だ。
しばらく進むと、不快な臭いが漂ってきた。その臭気に悠紀は思わず手で口元を覆う。そう。例えるなら鉄のような・・・鉄?
はっとして姉の背中を見る。その背が緊張しているのが悠紀にはわかった。どうやら海紀も同じ考えに至ったらしい。
「ここにいて」
「わかりました」
真剣な表情で言われ、考える間もなく頷く。「すぐ戻ってくるから」と言い残した海紀は足音を殺して奥へと進んでいった。
鉄の臭気が満ちている通路に一人残された悠紀は、忙しなく視線を左右に走らせる。懐中電灯がなければまったく光が射さない。そんな場所で一人になるのは初めての経験だった。
「海紀姉さん・・・」
恐怖で掠れた弱々しい声が耳が痛くなるほど静かな通路に大きく響く。聞こえる音は自分の心音と荒い息遣いのみ。
「・・・っ・・・・・・」
右手を腰に佩いた剣の柄にかけ、一歩前に足を踏み出すと懐中電灯で姉の進んでいった方向を照らす。海紀が戻ってくる様子はない。その時。
「・・・ぅっく・・・」
「え?」
幼い子供の泣き声のような音がどこからか聞こえた。耳を澄ますと、微かにだが聞こえてくる。悠紀は困惑した表情で海紀の去った方向と泣き声がする方向を交互に見る。
ちなみに、ここに来るまでいくつか分かれ道があり、彼らが進んできたのはその中でも最も争った形跡のあった道だ。
ぐっと目を瞑ると通路の壁に手をつく。
「氷よ。海紀姉さんに僕の通った後を教えて」
小さく命ずると懐中電灯を消し、泣き声のするほうへそろそろと足を進める。いつ、何が出てきてもいいように右手は柄にかかったままだ。
『おい。海紀の姉貴にここにいろって言われただろ』
肩から咎めるような声がする。一拍置いて顕現したのは冬空色の瞳と薄い空色の羽を持つ燕。悠紀の相棒の氷だ。海紀の具象化と姿形すべてそっくりだ。
「わかってます。だけど、ほっとけません」
『それもそうだが・・・。危険すぎる』
「危険なのは重々承知です。少し様子を見るだけにします。危険だと思ったらすぐ引き返します」
『・・・・・・深追いするなよ』
「ええ」
真っ直ぐ目を見て頷くと氷は仕方ないといった感じで悠紀の頭に止まる。ここが彼の定位置だ。
迷わないように目印をつけながら歩いていく。彼の足跡は氷によって示されているが、万が一この氷を消された時のための予防線だ。念には念を入れておかないと。何かあってからでは遅いのだ。
徐々にだが闇に目が慣れてきた。
泣き声を頼りに進んでいくと、声が次第に大きくなってきた。近い。そう感じた時分かれ道が見えた。泣き声は分かれ道の左側から聞こえてくる。悠紀はゴクッとつばを飲み、震える足を動かす。
壁に背中をつけ、そっと覗き込む。その先は行き止まりだった。そして、そこにいたのは。
「子供・・・」
『子供だな』
自分と同じくらいと思しき子供が座って泣いていた。子供は黒いワンピースらしきものを着ている。服からすると、多分女の子だろう。俯いているので顔は見えない。
悠紀は困ったように顔を戻す。こういう場合、どうしたらいいんだろう。
『声かけてみればいいんじゃないか?』
頭に止まっている氷が助言する。相棒の言葉に意を決したのか脅かさないように懐中電灯をつけて曲がり角から出ると、少女の一歩手前まで足を進める。しっかりしゃがんで目線を合わせることも優しい声を出すよう心掛けることも忘れない。
「あの・・・・・・。大丈・・・夫・・・ですか?何で泣いてるの?」
声をかけると少女はピタリと泣き止み、恐る恐る顔を上げて悠紀を見上げる。小動物が危険じゃないか判断する時に似てるなと思いつつおずおずと笑みを浮かべる。
よく見ると少女は悠紀と同じくらいの年のようだった。着ている服の所々が湿っている。涙でだろうか。それに、頬や髪が汚れている。そして最大の謎は、なぜこんな所にこんな子供がいるか。そのことに違和感を覚えながら全身で警戒心をあらわにしている少女を見つめ、小さくため息をつく。やっぱり姉さんに頼んだほうがいいかもしれない。
そう考えて立ち上がる。と、ズボンの裾をくいくいと引っ張られる。下を見ると少女がズボンの裾を摑んでいた。
「おにいちゃん」
「・・・はっ?」
子供相手に思いっきり胡乱げな声を出してしまい、しまった、と内心呟く。気を落ち着かせて再び膝を折り、目線を合わせる。
「僕は君のお兄さんじゃないですよ。君の本当のお兄さんが何処にいるのか、わかりますか?」
ゆっくりとした口調を心がけて話しかけると、少女は首を傾げて悠紀に手を引く。
「こっち・・・」
ぐいぐい引っ張られ、悠紀はどうしたものかと氷を見上げる。氷は肩に移動し、少女に聞こえないよう小声で耳打ちする。
『もしかしたら今回のターゲットかもしれん。迂闊についていったら危険だ』
彼の言うとおり、ここは引いとくべきだろう。
「あの、僕は戻らなくてはいけないのでそちらには行けません。いったん外に出ませんか?」
そう提案するも、少女は悠紀の手を離そうとしない。困ったなぁ、とぼやいていると氷がまた耳打ちする。
『無線で連絡を入れておけ。そうすれば何かあっても海紀の姉貴と氷瀧の兄貴が駆けつけてくれる』
「そうですね」
耳につけている氷のイヤリングに触れると周波数を合わせる。
「姉さん」
小声で呼びかけるとすぐに応答があった。
『悠?何・・あった・・?』
電波が悪いのか、ノイズが邪魔して聞き取り辛い。悠紀は今の状況を知らせようと口を開く。瞬間。
ビキビキッ
突然悠紀の無線機に小さな亀裂が入り、それはどんどん広がっていくと止める間もなく粉々に砕け散った。
「うわっ」
反射的に両手で顔を守る。大破した無線機はもう使い物にならないだろう。耳に残った無線機の破片を手のひらに乗せる。何が原因かは知らないが、これでは姉とも氷瀧とも連絡が取れない。つまり、完全に孤立してしまった。
「これって弁償ですかね・・・」
あまり考えたくない可能性が浮上する。いくらするかはわからないが、おそらく数万は下らないだろう。とてもじゃないが子供の、それも十歳の子供にすぎない悠紀に払える額ではない。
「仕方ないですね。この子について行くことにしましょう」
『それしかない、か』
無線が大破したときに集中力が切れ、氷の道標が消えてしまっている。おまけに廊下は暗く、どこも同じような景色ばかりでどこをどう曲がってきたかなどまったく覚えてない。それならこの少女についていった方があてもなく歩くよりはよかろう、と判断したのだ。
ずっとぐいぐい引っ張っていた少女に合わせて歩き出すと、少女は嬉しそうに笑った。が、ちょっと顔をしかめる。
「それ、けして」
指差されたのは懐中電灯だった。悠紀は咄嗟に迷う。懐中電灯を消すと前が見えない闇が広がるのだ。だが、もしこの子が敵だとしたら・・・。
『消しといた方が得策だな』
そうですね。
少女には聞こえないように心の中で対話を済ませ、懐中電灯を消してバックにしまう。途端に薄い闇に覆われた視界に本能的に恐れを覚えたが、頭上にいる相棒が心配するなと言うように片翼で悠紀の頬を撫でる。
「ちょっとだけですからね」
念のために釘を刺す。通じたかどうかは定かではないが、少女は頷く。今頃悠紀が待っているはずの場所を見て怒ってるかな、と不安げに後方を振り返りつつ少女に手を引かれるまま奥へ進む。この少女が研究所で何をされたのか、そして、何をしたかなんて、知る由もなく。




