蒼雫(あおな)の記憶 壱
沫雪貴之の母である彼女は、優秀な異能を扱う両親の間に生まれながら異能者としては最低ランクの異能者だった。
ほとんど使い道のない上に1日1回しか発動できないほど少ない異能量。
おまけに具象化は2日に1回出せるか出せないか。
武器などまともな形状をとったことがない。
一般人と同程度の、いや、それよりもなお悪い身体能力と自己治癒力。
ついでに付け加えるなら頭脳も並より下である。
そのせいで両親から肉体的な暴力こそ振るわれなかったものの、精神的な言葉の暴力を浴びせられ続けていた。
そしてある日、二度と親と呼ぶなと両親に言われた日から声が出なくなってしまった。
その日から彼女は、笑った
怒られている時も、悲しい時も、痛い時も、怖い時も。
いつも、どんな場面でも、笑みを浮かべていた。
幼い頃、まだ両親が優しかった頃、泣き虫だった彼女に二人が言っていたから。
あなたの名前はね、泪が少ない人生を歩めますようにっていう私の願いと、幸せを当たり前のものと思わないで大切にできる人になって欲しいってお父さんの願いを合わせて込めてつけたの
どんなに辛くても、苦しくても、その後は必ず良い事が起きる
幸せになれない人なんかいないんだから
だからね、沙貴
笑ってごらん
きっと、良い事が起こる。それを信じて、笑い続けた。
笑っていてほしいと、幸せになって欲しいと願いを込めて二人がつけてくれた名前の通りに決して泣かなかった。
自分が出来損ないのせいでもう直せないほど壊れてしまった家族の絆。幼い頃身にあまるほどの愛情と優しさをくれた二人は、今は互いを罵り合い、責任をなすりつけ合い、沙貴の事などもはや認識していない。
けれど彼女にとっては大事な家族で、大好きな両親で、自分という個に“沙貴”という宝物をくれた、この先の道標を示してくれた、かけがえのない人達だった。
だから彼女は必死に異能を上達させようとした。その成果で小学生の頃はたった2㎝、わずか10秒せいぜいが5キロ未満のものを浮かせられるだけだったのが、今ぐらいまでになったのだ。
異能者はおろか、一般人の中でも下の下に位置するのだが、そんな彼女も一応異能者の範囲内にある。
そのため、教員にすらあまりの能力値の低さに驚愕されながら中学生の頃から彼女は三珠学園の中等部に在籍していた。
クラスはランクやレベルがほぼ同じ学生ごとに振り分けられているので、彼女ほどではないにしろ異能者の中では下に位置する生徒がこのクラスの大多数を占めていた。
J組 ジョーカークラス 邪魔者除け者が集められたクラス。
本来ジョーカーには切り札という意味があるはずなのだが、ここではババ抜きなどの際最後まで持っていたら負けとなる厄介者、という意味が定着していた。
そのため、J組の生徒は肩身が狭い思いをしていた、のだが、
唯一彼女だけが違っていた。
「沫雪さん。あなた、なぜ呼び出されたかわかっていますか?」
定番中の定番。遅咲きの桜の花びらが一つ二つと舞い散る中人目のつかない校舎裏に、これまた定番となっている数名の女子と彼女らに囲まれている一人の女子生徒。
まごうことなき集団によるいじめの現場である。だというのに、囲まれている彼女に怯えた様子も萎縮している様子も欠片も見受けられない。
むしろ、口元が綻んですらいた。
【申し訳ありません。なぜ呼び出されたのか私には皆目見当がつかないのです。どうして私を呼び出したのですか?】
この状況で、誰もがいじめだと確信を持って断言できるこの絵面で、まぁ見方を変えればなんとなく困ってる子を助けているのかなと思えなくもないようないややっぱり微塵もそんな風には見えない場面で、なぜ心の底から困惑しきった目と笑顔を浮かべて携帯のメール作成画面で超速で作り上げた丁寧な言葉遣いの文章を提示することができるのだろうか。
というか、いじめをしている側になぜ自分はいじめられなくてはならないのかを問いかけるとは結構な度胸の持ち主である。
気づいていないだけか。
それはさておき、メール作成の早さに呆気にとられていた女子達だが、すぐに我に返って口々にわめきだす。
それぞれの言葉が互いにぶつかり合い、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
彼女、沫雪 沙貴もそうだったのだろう。表情は笑顔のままだが、その瞳には困惑の色がありありと浮かんでいた。
どうしよう。問い返したらまた怒らせてしまうかな。
どうにか聞き取れないかと耳を澄ませてはいるのだが、女性特有のヒステリックな声で何人もが別々の単語をわめき散らしているのだ。比較的耳は良いので断片的に拾えはするものの、意味として繋ぎあわせるには状況を欠片も理解していない彼女には難しいことだった。
対応に困っていると、声とは別の音が聞こえた気がした。
その音がだんだん近づいてきているように思えて目の前を取り囲む女子生徒の隙間から周囲を見回す。ガサガサという枯葉を踏む音だ。
誰か、来る?
こんな何もないところに来る人はどんな人だろう、というとても純粋な興味からさらに目を凝らそうとした時、
「ちょっと、聞いてんの!」
視線が彷徨い始めたことに気づいたリーダー格の女子がひときわ大きな声をだす。怒りを多分に含んでいるそれに沙貴は慌てて謝ろうと手の中の携帯を操作する。
それが気に食わなかったのだろう。リーダー格の女子が携帯をひったくるように奪い取った。
「人の話は聞かないわ携帯いじるわ何様な訳?あんた」
唯一の会話手段を奪われてしまった沙貴は弁解することも言い返すこともできず、ただ空いた手のひらを握り締める。そして、ごめんなさいの意味を込めて頭を下げた。
「うっわキッモー」「はぁ?何してる訳?頭下げれば良いってもんじゃないんだけど」「ごめんなさいも言えないとか恥ずかしー」
浴びせられた言葉はどれも悪意100%越えのものばかりで、人の心を傷つけるには充分すぎた。
ゆっくりと、沙貴の頭が上がっていく。女子達はその顔には羞恥が浮かんでいるだろうか、悔しさか、怯えか、いずれにしてもあの生意気な笑顔は消えているだろう。
そう、確信していた。
けれど、顔を上げて真っ直ぐ彼女達を見つめ返す沙貴は、困った風に笑っていた。
「ヘラヘラヘラヘラ気持ち悪いんだよ!」
変わらない沙貴の様子にぷっつんしてしまった集団の中で一番短気そうなデブゴri、失礼、ぽっちゃり体型の女子が右手を振りかぶった。
叩かれる、と判断した体が強張り、反射的にギュッと目を瞑った。
「邪魔だ」
ぞわりと背筋を冷たい手で撫でられたような寒気がした。思わずぶるりと体を震わせながら片目を開けると、女子達が全員ある一点を見上げたまま氷点下の地へ放り出されたようにガタガタ震えていた。
寒いのかな?
些か以上にずれた事を真面目に思う沙貴。女子生徒達の様子を気にするよりも先にもっと気にするべきことがあるだろうと思う。
たとえば、今の声の主とか。
だというのに、
そうだ。携帯。
この後に及んでも声の主についてこれっぽっちも疑問を抱かないらしく、地面に落ちている携帯を大事そうに拾い上げる。そして、気づいた。
これ、男の人の靴?
携帯を拾う際に目に入った数cm先にある一目で物がいいとわかる光沢のある黒い革靴。大きさからみてまず女性のものではない。
視線を上げていくと質の良さそうなズボンと長い足、品の良いシャツと上着は隙なく着こなされており、ネクタイは曲がる事を許されないように完璧な正三角形を保っている。
その更に上にある顔は、冷徹そのものだった。
彫刻のように冷たく無機質な面持ちに艶のある黒髪はきっちりと整えられ、氷をそのままはめ込んだような、見つめられるだけで凍りつきそうな青玉の瞳。
冷たくも澄み切った混じり気のない純粋な青。
冷たく凍えそうな色なのに、彼女には海のように思えた。
見ているだけで溺れそうな、深い深い蒼。
綺麗
陳腐な言葉だが、それ以外に自身の胸に満ちた衝撃を表す言葉が見つからなかった。
「集団で弱者を踏みにじらないと優位を保てないような愚者ごときが私の行く先を遮るな」
色のない無機質な声音で紡がれた言葉は見下しているのではなく、ただただ感じたままの事実を口にしているようだった。
突然登場した青年の雰囲気というか目つきというか、彼の全てに萎縮してしまったいじめっ子達は何も言えず、はくはくと口を開け閉めするという間抜けな動作を繰り返していた。
一方の沙貴は彼の双眸に見入っていたが、その言葉で我に帰り、とりあえずお礼を言おうと携帯を操作する。
【ありが】
「勘違いをしているようだから言っておこう。私は貴様を助けた訳ではない。私の行く手を遮る貴様らが邪魔だった。それだけ・・・何だ?」
彼女の超速メール作成を上回る速さで淀みなく話していた彼だが、話し掛けている相手の様子に違和感を覚えた。
なぜか彼女は不思議そうに目を瞬かせ、ゆるく首を傾けていたのだ。まるで何を言っているのだろう、この人はとでも言わんばかりの仕草である。
【私は携帯を取り戻してくれたことに対してお礼をと思ったのですけど・・・ごめんなさい。気づかなくて。いつ私を助けてくださったのですか?】
本心からの言葉だと目を見て悟った冷はそういうことかとすぐに状況を理解した。
自分が置かれた状況を理解できないバカか。
初対面の相手に対してひどい評価である。
「今の言葉は忘れろ。貴様のおめでたい思考では理解できん」
己の置かれた立場すら理解できない低脳な者に一から十まで懇切丁寧に教えてやる彼ではない。バッサリそう言い捨てるとなおも不思議そうな顔をしている彼女を尻目にスタスタと何事もなかったかのように歩き去っていった。
これが沫雪沙貴と真海冷の最初の出逢いである。
その日から真海 冷はどうしてか沫雪 沙貴につきまとわれるようになった。
休み時間。昼休み。放課後。更には休日まで。
暇さえあれば彼女は大学の校舎へやってきた。そして、どうやって行方をつかんでいるのか必ず彼がいる教室へやってきてそれはそれは嬉しそうに笑うのだ。
理解できん。
初めて会ったあの日から早くも1ヶ月が経とうとしていたが、相も変わらずやってきた沙貴は広い講堂内にも関わらずすぐに冷の姿を見つけ、目が合うととても嬉しそうに笑った。
何故笑う。
ここ1ヶ月で彼女が来るであろう時間帯を不本意ながら完璧に把握してしまった冷は、そのタイミングでこれまた大変不本意なのだが彼女がやってくる後ろ側の比較的目立たない扉を見てしまう癖が身についていた。
目をやるとちょうどやってきた沙貴が扉を開けるところで、1秒と間を空けず視線がぶつかった。
途端に咲く満面の笑み。
初めて会って日もそうだったが、冷が見る時の彼女はいつも笑顔だった。
それが彼には理解できなかった。
意味もなく何故笑える。それも、ただ私を見るという行為で。
彼を取り巻く笑顔はいつも表面的なつくりものばかりだ。
愛想を多分に含んだ笑顔。彼に媚びを売る笑顔。相手を油断させるための笑顔。内心を悟らせないための笑顔。
そんな作り物ばかりを見続けていた彼だからこそ、彼女の笑顔は嘘偽りのない本心だと一目見た時から気づいていた。気づかざるをえなかった。
だからこそ理解ができないのだ。
人の顔を見て喜ぶという彼女の心理が。
彼は、笑顔というものを知らない。
いや。知らないのではなく、知識としては知っているし今まで生きてきた中で何度も目にしている。
正確には、笑ったことがない。
子供の頃からそうだった。彼はどうしてか何を見ても心が動かない人だった。
両親に褒められても嬉しいとは感じず。
身近な人が亡くなっても悲しみすら湧かず。
命の危険を感じた時ですら、怖いと思わなかった。
あるのは尽きることのない興味への探究心。
当然それは表情も動かないということを意味しており、嬉しい時に自然と浮かぶ笑顔はもちろん悲しい時に流れる涙ですら流れたことはなく、死ぬギリギリ手前を実体験した時ですら彫刻のような無表情のまま。
頭は大人顔負けなほど明晰だったにも関わらず、心は生まれた時から死んでいた。
それでも今までほとんどないと言ってもいいほどそのことが問題として浮上しなかったのだから彼にとっては感情などというものは瑣末なことなのだろう。
理解できん。
人の心理は目を見ればある程度わかる。そんな彼にも理解できない人間の1人が彼女だった。
理解できないことをそのまま放置するような彼ではない。1ヶ月間観察していたものの答えは見つかりそうにないので方法を変えることにした彼は席を立った。
この講義は必修ではない上にもうすでに知識として在る。ならば自分には必要ない。
「ついて来い」
優等生的な存在である上に彼に選んでもらえた講義を担当する講師の評価は上がるとまことしやかに噂されている真海 冷に退席され、ショックのためかふらりとよろめいた講師がチョークを落とす。当の本人はもうすでに講義室のことなど頭になく、目の前の問題を解くことだけが脳内を占めていた。
【?】
携帯画面に表示された疑問符に構うことなく彼女の手首を掴むとそのまま抗えないほどには強いが転ばないほどには弱い絶妙な力加減で引っ張っていく。
その一連の様子を見ていた一つの視線があった。
黒に見えるほどの暗い藍色(勝つ色)の瞳にはどろりとした嫉妬の色が渦巻き、派手めな化粧で彩られた顔はそれが台無しになる程の怒りで醜く歪んでいた。
私には見向きもしない冷様が、なんであんなジョーカークラスの女なんかに・・・っ。
心底腹立たしい。
この世で一番美しいと自他共に認める美貌を持つ自分に見向きもしない彼が、あんな秀でた部分などなに一つない女に興味を持つなんて。
「絶対に、許さないっ」
我愛 亜美は華美な装飾が施された携帯を手に取った。
【あの、どこまd行くですか?さ先輩】
片腕を引っ張られながらどうにか打った文章はギリギリ意味が通じる形になった。その事にホッとしながら歩幅の大きい彼に並ぶとそれを見せる。
「黙ってついて来い」
携帯を一暼すらせずにそう告げた彼の足取りには乱れはない。行き先を聞くことを諦めた沙貴は早くも体力の限界を迎え始めていた。もともと一般人より身体能力は低く、体力も異能量に比例してか少ない。
っ!
変わらない足取りで進んでいく彼に追いすがる事で精一杯だった沙貴は足元が疎かになり、自分の足に躓いて前へ倒れ込んだ。そして、気づけば温かいものに顔面をぶつけ、鼻腔いっぱいに爽やかな香りを感じ取っていた。
痛く・・・ない?
つむっていた目をそろりと開けると、まずは白が飛び込んできた。何度か瞬きして視線を上げると、彼女が惹かれた海が間近にあった。
「状況が理解できないバカな上に運動神経まで皆無なのか。本当に人間なのか興味がわくな」
息を呑んだ彼女に容赦のかけらもない言葉が浴びせられるが、間近にある瞳に見惚れている彼女には聞こえていないようだ。
見る角度や光の当たる角度によって深海のような深い色や浅瀬のように透明感のある鮮やかな色に見える不思議な色合いの瞳。まるでそれだけで一つの芸術品として成り立ちそうな美しさだと、沙貴は本気でそう思っていた。
その目が物言いたげに僅かながら細まるのを認め、そこでようやく転ぶ前に冷に抱きとめられたままだと気付いた。
【ありがとうございます】
深々と頭を下げながらそっと身体を離す。瞳の色と表情に似合わないとても温かかった体から離れるのに少しだけ名残惜しさを感じていると、再び手首を掴んで歩き出した彼は先ほどより歩く速度が遅くなっていた。
優しい人。
転んだ時、掴まれていた手首が斜め上に引かれ、勢いに乗った体を振り向いた彼の空いた手が倒れないように引き寄せた。そのおかげで床ではなく彼に当たったのだ。
表情に出にくいだけで、本当は優しくて温かい人だな。
今だってそうだ。彼女に合わせて歩調を調節してくれている。無意識なのか意識しているのかまではわからないが、どちらにしても彼女の中の評価はうなぎのぼりであった。
【貴方の名前をお伺いしてもよろしいですか?私は中等部1年沫雪 沙貴です】
彼が足を止めたのはそれから2分もしない人気のない場所だった。躊躇いなく目の前にある扉を開いた彼は中へ入り、彼女を引き込むと扉を閉める。
向き直った彼にそう書いた携帯画面を見せると、つかんだままだった彼女の手首を離してから答える。
「経済学部2年真海 冷」
初めて聞いたはずなのに、その名前は彼にピッタリと当てはまった。
冷様
心の中にて少々危ない陶酔した声で繰り返した沙貴の口元がふわりと綻ぶ。やっと聞けた彼の名前。噂で名前は知っていたが、やはり当人の口から聞くのとでは違う。
【改めてよろしくお願いします。真海先輩】
「冷でいい。敬称も外して構わん。お前、話せないのか」
ペコリと頭を下げた沙貴に普通なら問いかけにくいことを初っ端から清々しいまでのどストレートでぶつけてきた。
かつてこれほどまでに真正面から聞いてきた人がいるだろうか、と考えるまでもない事が脳裏をよぎり、それがおかしくて笑いがこぼれた。
「何故笑う」
【ごめんなさい。今まで冷さんのように正面から私が話せないことに触れた方がいらっしゃらなかったので、おかしくて】
「わからんな。その程度で何故笑える」
【あ、ごめんなさい。気に障って、しまいましたか?】
申し訳なさそうな表情ではあるのだが、口元が笑みの形のままなので伝わりにくいだろう。自分でもそう分かっているのかへにゃりと目尻を下げて困った顔になる。
それでも口元は笑みの形なのだからすごい。
「お前は何故いつも笑っている」
【私は、冷さんがおっしゃる通り話せません。だから、人との会話が上手く出来なくて、いつもひとりぼっちでした】
誰にも話したことのない、いや、話せるような人がいなかったから、今まで誰にも話せなかった自分のこと。
けれど、この人になら。
決して逸らされることのない、真っ直ぐに自分だけを映す瞳。
こんなに真正面から自分を見てくれた人は今までいなかった。
【私は、両親が望むような子供ではありませんでした】
自分の両親はとても優秀な人達だ。幼い頃からなんなとなくそれを肌で感じていた。
自分もああなりたいと、憧れていた。
なのに・・・。
【持って生まれた異能も、異能量も、通常は普通の人達よりも高いはずの身体能力も自然治癒力も】
何もかもが低かった。低過ぎた。一般人と比べても劣るほどに。
最初こそまだ完全に目覚めてないからだと、すぐに自分たちをも凌ぐ異能者になると期待していた両親だったが、その分失望も大きかった。
5年経っても能力値は低いままで、二人の中に溜まり溜まったものがついに爆発した日だった。
あなたなんか
お前なんか
私の子供じゃない
2度と私を
母と
父と
呼ぶな
あの日から、私は声を失った。
そして、かけがえのない絆も失ってしまった。
【私が出来損のせいで全部壊してしまった。だから、私は】
せめて、二人が願いを込めて授けてくれたこの名前は壊さないように。
泪が少ない人生を歩めますようにと願ってくれた母の願い通りに決して泣かずに常に笑顔で生きてきた。
幸せを当たり前のものと思わないで大切にできる人になって欲しいと願ってくれた父の願い通りにどんな小さな幸せも大切に忘れないように生きてきた。
【これが、私がいつも笑顔の理由です】
両親が望んだ子供にはなれない
なら、せめて
両親が願いを込めてくれた名前の通りになりたい
壊れかけた幼心が行き着いた結論だった。
「くだらん」
黙って話を聞いていた冷が開口一番に言い放った言葉がこれである。
さすが冷様。容赦のかけらもない、惚れ惚れするほどの切れ味である。
「お前の親も大概だが、お前はそれ以上の馬鹿だ」
ズドン、と効果音がつきそうなほどの断言にさすがの沙貴の笑顔にもひびが入った。目線を伏せた彼女に構わず彼はズバズバと言いたいことを並べ立てる。
「私が壊したと言ったが、お前に才能がないのはお前の責任ではない。誰の責任にもなりえない問題を持ち出して押し付けあう行為も滑稽極まりないが、それを己のせいだと抱え込む行為も愚かそのものだ」
わたしのせいじゃ、ない
その一言に、心が揺れた。
「お前は才能がないにもかかわらず努力した。それを認める認めないは相手次第だ。お前の親はそれを認めなかった。周りもそれに気づかなかった。それだけのことだ」
浮上した気持ちがまた沈んだ。
そうだ。どれだけ頑張っても、認めて欲しい人に認めてもらえなければ、何の意味も、価値もない。
なら、頑張る必要など、あるのだろうか。
どろり、と暗いモノがどこからか胸中へと流れ込んだ。それは今まで彼女を支えていたものを徐々に飲み込み、無意味なものへと変えていこうとしていた。
生きる目標であった名前すらも、侵されていく。
「だが、私はお前を認めよう」
ともすれば聞き流してしまいそうなほどさらりと告げられた言葉に彼女は自分の耳を疑った。
自分とは比べるのもおこがましいほどの経歴と才能の持ち主である彼が自分へ向ける言葉とは到底思えない一言を耳にした気がした。
深く俯いていた彼女の顔がゆっくりと持ち上がっていく。どうしてか無性に彼の瞳が見たくなった。
そして、目にした彼の目はいつも通り澄み切っていて、変わらぬ美しさを湛えていた。
沙貴が海のようだと感じたそのままが広がってた。
その瞳を見ていると、不思議なことに胸の中に熱が灯った。
冷たいはずの彼の瞳を見て熱くなるなんておかしいな、と笑った途端、どこからか降ってきた透明な雫。
手の甲に当たって砕けたそれに雨でも降ってきたのかと見上げるも、空は雲ひとつない青空で、雨の気配などどこにもない。というか、視界がぼやけてしまっていてよく見えない。
おや?とひとつ瞬くと、温かいものがこめかみを伝い、頬を流れ落ちていく。何だろうと拭う前にひやりとした感触が頬を撫でた。
冷の指だ。
「何故泣く」
泣いて、る?
自覚すると堰を切ったよう頬を伝い落ちる雫の量が増えていく。幼少期以来のそれにどうしていいのかわからず流れるがままにしていると、ひやりとしたものを反対側にも感じた。
両頬を冷の指先が挟み込み、次から次へと溢れる涙を指先で受ける。
「笑っていたかと思えば突然泣き出す。つくづく読めん奴だ」
そう言いながらも手は離れず、指を伝い手首へと流れ、シミひとつないシャツへと吸い込まれていく涙を厭うことなくまじまじと見続けている。
沙貴は沙貴で芸術のようだと常々思っていた青玉の瞳に間近で見つめられ、泣き顔を見られているという羞恥より彼の瞳をもっと見ていたいという想いが勝り、じっと見つめ返していた。
端から見れば恋人同士がキスをしようとしているようにしか見えない、誤解しか招かない体勢である。
しかし実情はよく表情の変わる疑問しか湧かない彼女を観察したい感情が欠落した冷血漢と、
初めて見たときから惹かれた彼の双眸をただずっと見ていたいだけの純粋すぎる少女の図、であった。
この二人が結ばれる日は、はてさて訪れるのだろうか。
最近サイドストーリーを書く事にはまってしまい、なかなか本編が進まなくなっております。これはいかんと思いながら書くことをやめられないこれはどうすればいいのか悩みながらこれからも続けていきます。




