第四百七十一話「大人しい伊吹」
三日間の一学期期末試験が終わった日の放課後、近衛伊吹は中等科五北会のサロンへと急いでいた。
「槐!早くしろよ!」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
伊吹はとにかく早歩きでサロンへ向かっていた。この試験のうちの二日間は咲耶がサロンに顔を出すことはなかった。試験が午前中で終わりなのでサロンに寄らずに帰って昼食にする者もいたが、それでも五北会メンバーの大半は試験期間中もサロンに顔を出していた。それなのに何故か咲耶はサロンに顔を出さなかったのだ。
別にサロンに顔を出していなかったからといって何か心配しているわけではない。学園にはちゃんと来ていることを把握しているし、試験もきちんと受けている。病気や体調不良というわけではないので何かの心配があると思っているわけではない。ただ土日を挟んでいたこともあり何日も咲耶の顔を見れなかったから早く会いたいだけだ。
「槐!急げ!」
「だからそんなに急がなくても九条さんは逃げないってば……」
「ばっ!さっ、咲耶は関係ないだろ!」
槐がそう言うと一瞬で顔を真っ赤にした伊吹が慌てて手を振り出した。露骨すぎてわざとやっているのかと思うほどにわかりやすい。しかし伊吹本人はいたって真面目に白を切っているつもりなのだ。槐から、いや、周囲の誰が見たってわざとやってるのかと思うほどわかりやすいが、それでも本人は真面目なのだ……。
何故咲耶がサロンに顔を出していなかったのかはわからないが、グループの西園寺や徳大寺も一緒に来ていなかったので何らかの関係があるのかもしれない。それに期末試験の間に来なかったのだから、早く家に帰って翌日の試験勉強でもしていたのだろうと思われる。
今日は三日間の期末試験が終わった最終日の放課後であり、もう家に帰って勉強する必要はない。ならば今日こそは咲耶もサロンに来ているだろう。だからこそ伊吹は急いでサロンへと向かっているのだ。
「近衛様、鷹司様、御機嫌よう」
「近衛様おはようございます」
「おう!」
サロンに入った伊吹と槐に全員から声がかかる。最初はそれに威勢良く応えた伊吹だったが、軽くサロン内を見回して咲耶達がいないことに気付き、一気に落胆した表情になった。
「(伊吹、とりあえず席に行こう?九条さんもあとから来るかもしれないよ)」
「わっ、わかってる!それに咲耶は関係ないと言ってるだろう!」
後ろからコソッとそう言ってくれた槐にでかい声で答えて台無しにする伊吹。しかし本人がいいなら別にいいかと槐ももういちいち突っ込まない。
伊吹が急いでサロンにやってきたから早く着きすぎただけで、まだサロンメンバーも全員は揃っていない。いつもどちらかといえばやや遅めくらいにゆったりやってくる咲耶達がまだ来ていなくとも当然だった。槐はそれがわかっているから最初から急ぐ必要はないと言っていたのだが、伊吹は気持ちが逸って早足でやってきて、結局咲耶が来る前に到着していた。
席に着いてもソワソワしたまま伊吹は何度も時計を確認していた。分単位で時間が進んでから見るのならまだわからなくはないが、さすがに秒単位でチラチラと時計を見てもいくらも進んでいるわけがない。『落ち着きがないなぁ』と槐は思っていたが、そんな伊吹も面白いので放っておく。
「御機嫌よう」
「「「「「――ッ!?」」」」」
そう思って待っていると、とある三人以外の全員が揃ってからようやく目的の人物達が現れた。全員がいつもの自分の席に座って控えている。最後に、逆光ではっきりと表情は見えないが、扇子で口元を隠された女帝とその二人の側近である女王達が入室し、空けられているサロンの真ん中を通って最奥の指定席へと向かう。
女帝、九条咲耶様がサロンに来られるまでに全員が揃い、着席して、中央の通路を空けて待つ。その間を九条咲耶様が通られると全員が最上位の礼を持ってお迎えする。これが中等科五北会サロンの常識となっていた。
近衛伊吹や鷹司槐が入室してきても『あっ、近衛様ちーっす』というような軽い挨拶なのに対し、九条咲耶様と二人の女王が中央を通られる時は全員が口を噤み、頭を下げて通り過ぎられるのを待っていた。
「おっ、おう!咲耶!」
「「「――ッ!」」」
そんな女帝と二人の女王の前に立ち塞がる者が現れてサロン内に緊張が走る。いくら近衛様といえど、女帝九条咲耶様の前に立ち塞がって良いものか?出来れば咲耶様のご機嫌を損ねるようなことはして欲しくないと思って見守る。
「御機嫌よう近衛様、鷹司様」
「やぁ九条さん。久しぶりだね」
いつでも伊吹のフォローに入れるように槐も後ろについていく。二人の女王は男子二人の行動に少しムッとした表情を浮かべていた。咲耶様と二人の側近に気持ち良く入室していただき、今日も一日平穏に過ごしたい。そう思っているのに、近衛様と鷹司様がお三方の機嫌を損ねてしまわれた。他のメンバー達はハラハラしながらその様子を見ていることしか出来ない。
「咲耶!これを!」
「……拝見いたします」
ぶっきらぼうにそう言って近衛伊吹が招待状を突き出す。包みなどからそれが招待状であることは一目でわかる。そもそも時期的に考えて近衛家のパーティーの招待状が来るのがそろそろだろうとは全員が思っていた。
本当は伊吹はもっと前に招待状を配ろうと思って用意していた。だが咲耶がサロンに来なかったために配るのが今日になってしまったのだ。伊吹は咲耶に一番最初に招待状を渡そうとしていた。だからすでに用意して待っていたが咲耶が来なかったために今日まで配っていなかったのだ。
「はい。確かに拝見いたしました」
「俺達は許婚だ。パーティーではペアを組むぞ。良いな?」
「許婚ではなく近衛家より一方的に許婚候補宣言を受けているだけです。パーティーへの出席やペアについては家に帰り家族と相談した上でお返事させていただきます」
「おう!」
冷たくあしらわれているというのは誰の目にも明らかだった。そのまま、失礼しますと言われて横を通り過ぎて九条咲耶様は最奥の女帝席へと向かわれる。しかし近衛伊吹様はとても幸せそうな表情を浮かべられていた。サロンメンバーにとっては慣れた光景なのでもう今更何も言わない。
「よし。じゃあお前らにも招待状を配るぞ!」
ニコニコ笑顔になった近衛様がサロンメンバー達に招待状を配り始める。九条様がそれほど機嫌を損ねなくてよかったとサロンメンバー達は胸を撫で下ろしたのだった。
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咲耶に招待状を受け取ってもらい、ペアの約束も取り付けた(と勝手に思い込んでいる)伊吹は上機嫌で歩いていた。
咲耶がパーティーの招待状でああいう返事をするのはいつものことだ。そしてああ言っておきながらペアを断られた者はいない。それはつまりあれはああいう言い方をしているだけで、実質的にはパーティーへの参加も、ペアを組むことも了承してもらえたという意味だと伊吹は解釈していた。
「随分ご機嫌だね、伊吹」
「あ~?いや!そんなことはないぞ!はっはっはっ!」
明らかに上機嫌なままサロンを出て廊下を歩く。今日は久しぶりに咲耶もサロンに顔を出したので、伊吹達も咲耶達が帰るまでサロンに残っていた。咲耶達は先ほど帰ったのでもう用はないとばかりに伊吹達も帰っている。
表面的には伊吹と咲耶は六年の三月以来疎遠になっている……、ように見える。
中々初等科五北会の会長職を交代しない伊吹に向かって、業を煮やした咲耶がいい加減早く職を辞して交代しろと言った。その時から伊吹と咲耶の仲はこじれて疎遠になっている……、ように見えた。だが実はそうではない。
咲耶にそう言われてから伊吹は組織の何たるかを、経営者の何たるかを、徹底的に勉強している。組織の長としての振る舞い、考え方、あらゆることを勉強し、相応しいように訓練している。
伊吹が今まで咲耶とあまり話さず距離を置いていたのは、自分が会長として相応しい男になるまで咲耶とあまり話さないでおこうと自分自身に誓ったからだ。咲耶に注意されたことをきちんと出来るようになるまで咲耶と余計な話はしない。そして成長し、会長に相応しい男となった自分を見てもらおうと思っていた。
今回は近衛家のパーティーに誘わなければならないという大義名分があったからこそ、久しぶりにじっくり心温まる会話をすることが出来た。久しぶりに咲耶と話すことが出来て伊吹はここ最近では最も上機嫌になっていたのだ。
「咲耶は先日弟の山吹にも会いに来たらしい!義弟になるんだから今から山吹ともしっかり顔を合わせておこうと思ったんだろう!可愛い奴だ!はっはっはっ!」
「そっか……。うん。まぁ伊吹がそう思うならそれでいいんじゃないかな?」
槐は表面上だけの笑顔のままそう言った。伊吹と槐は親友だ。少なくとも槐の方はそう思っている。だが友情と恋愛とは話が別だ。伊吹のことは親友と思っているが、九条咲耶との恋愛ではライバルだ。お互いにそれをわかった上で正々堂々と咲耶を奪い合う。
二人が友情と恋愛の狭間で揺れつつ会話していると向こうから歩いてくる者達がいた。向こうも伊吹と槐に気付いて視線を送ってくる。両者の視線がぶつかり火花を散らす。
「おい、待て」
「……何か御用ですか?」
廊下の真ん中を歩いていた伊吹と槐に対し、向こうから歩いてきていた石榴と柾は端に寄って通り過ぎようとした。だが伊吹に呼び止められて立ち止まる。
「押小路柾……、お前生徒会に入るつもりらしいな?」
「…………それが、何か?」
高圧的に見下ろすような視線の伊吹に、柾は多少下手に出ているがその目は屈服していなかった。鋭い視線を伊吹に向けて真っ直ぐ見据える。
伊吹や槐は押小路柾のことを知っている。もちろん親しいわけでもなければ詳しく知っているわけでもない。だが実質的に地下家の最上位クラスである押小路家を知らないわけがない。
堂上家と地下家の間には隔絶した違いがある。ちょっと出世したからといって地下家が簡単に堂上家にはなれない。だが地下家の最上位、あと少し位が上がれば堂上家の仲間入りであった押小路家のことは当然知っている。押小路家が堂上家になる可能性は皆無だ。どれだけ頑張っても、何があっても後世で上に上がることが出来ないのが堂上家というものである。
だがそれでも堂上家と一歩しか違わない地下家であれば、当然有力な家として誰もが知っている。百人いるうちの中途半端な順位の者ならば忘れ去られていても、一番上や一番下というのはどうしても目立つ。そういう位置にいる者は人々から覚えられやすい。
「毎年恒例の夏のパーティーに招待してやる。ありがたく思え」
「……招待状が届いてから検討させていただきますよ」
「「…………」」
二人の間に火花が散る。別に二人に直接何か因縁があるわけではない。だが何故か二人はこの時お互いにライバルとして認識し合った。何に対してどうライバルなのかはわからない。だがこいつは敵だ。お互いの本能がそう言っている。
「伊吹、こちらの生徒会長さんも呼んであげたら?」
「えっ!?おっ、俺、じゃなくて、私は場違いなので……」
槐の言葉にギョッとした石榴が慌てて辞退しようと断る。確かに地下家でも近衛家のパーティーに数多く呼ばれている。だが外部生がたくさん呼ばれることはない。押小路家は外部生とはいえ地下家のトップクラスだからこそ呼ばれるのだ。石榴の速水家は本来近衛家のパーティーに呼ばれるような家格ではない。
「そうだな。一人っきりでは怯えてしまって理由をつけて逃げるかもしれないもんな。頼りになる先輩も呼んでやろう。これなら一人で心細く逃げ隠れする必要もなくなるだろう?」
「それはそれは……、格別のご配慮痛み入りますね」
伊吹と柾は完全に相手を睨みつけ、ますます視線で火花を飛ばす。石榴は巻き込まれてヒェーッ!と声にならない声を上げているが誰も聞いてくれなかった。
やがてお互いに散々睨み合った伊吹と柾は離れて廊下をすれ違う。かなり廊下を歩き、向こうに伊吹達が見えないのを確認してから石榴が口を開いた。
「おい、押小路君……、近衛家を相手に……」
「大丈夫です」
石榴の言葉を遮り柾がそう言い切った。石榴には何が大丈夫なのかさっぱりわからないが、柾の表情は強がりや何もわかっていないという様子ではなかった。
「近衛伊吹、鷹司槐……。確かに五北家、堂上家上位クラスの存在感と圧迫感はありました。ですが……、彼女の比ではありません」
「彼女……」
柾の言わんとしていることを察して石榴も口を閉じた。柾の言っている『彼女』というのが誰を指しているかは一目瞭然だ。そしてその威圧や存在感は桁が違う。
『彼女』……、九条咲耶様と近衛伊吹では豆柴の子犬とグリズリーほどの違いだ。近衛伊吹がいくらキャンキャン吠えていても、立ち上がったグリズリーより恐ろしい九条咲耶様とでは威圧感が違う。
「ぷっ!そう言えばそうだな」
「ええ、そうです」
フッと空気が軽くなった二人はまた話しながら廊下を進んでいったのだった。




