第四百三十話「目をつけられた?」
衝撃の入学式から一夜明けて、藤花学園中等科は例年通りの日常が始まっていた。入学式のあの異様な雰囲気さえ目を瞑ればそこには普通の中等科生活が待って……、は、いなかった。
「御機嫌よう」
「ええ、御機嫌よう」
内部生達が当たり前のように『御機嫌よう』と挨拶しているのを見て、中等科から入学してきた外部生、その中でもとりわけ一般家庭の生徒達はクスクスと笑っていた。
「ぷーーーっ!『御機嫌よう』だって!」
「あはっ!あんな挨拶リアルでしてるの初めて聞いたわ!」
中等科から入学してくる外部生はまだ貴族の割合も多い。地方在住などの小さな貴族家ならば、初等科から親元から離して子供を藤花学園に通わせるのは難しい。そこで子供がある程度成長してから中等科や高等科から入学させる家もそれなりにある。だがそれ以外にもすでに中等科から成績で選ばれた一般家庭の生徒も混じりだす。
初等科にも『一般生徒』と呼ばれる者達が存在していた。しかしそれは家格として貴族などの位を持たないというだけで、生まれや育ちは一般家庭、所謂庶民とは一線を画する。
あくまで初等科における『一般生徒』達は、有力な貴族家の分家筋などで、家を継げないために貴族ではないから『一般生徒』と呼ばれているにすぎない。育ちも上位の家で教養も身につけた相応の者達ばかりである。それに比べて中等科から入ってくる『一般家庭』の生徒達は本当に世間の庶民育ちに過ぎない。
一般家庭育ちの庶民にとっては日ごろから『御機嫌よう』などという挨拶はまず使わないだろう。そういう言葉があることは知っていても、そういう言葉を使ったことも、使われたこともない子供が圧倒的に多い。大人ならば違和感を持っても黙って聞いているであろうし、相手に合わせることもするだろう。
だが子供というのは自分の聞き慣れない言葉などを聞くだけでも笑ったり、馬鹿にしたりすることはままある。しかも子供というのは恐れ知らずだ。相手が圧倒的に格上でもそれを理解せず、自分達の狭く浅い常識だけで判断してしまいがちになる。
結果、中等科で初めて接触する内部生と外部生はお互いに相手を馬鹿にし、嫌い合うことになる。
内部生達にとっては外部生は下品であり、その上身の程も弁えず自分達を馬鹿にしてくる無教養の者達として映る。外部生達にとっては内部生とはやたら偉そうで、お上品ぶって、自分達のことを小馬鹿にしてくる嫌な相手に思えてしまう。その結果、中等科以降内部生と外部生は険悪なムードがずっと続くことになるのだ。
高等科で新たな外部生が入学してきても、内部生達はまた下品で野蛮な者達が増えたと嫌悪し、中等科からの外部生達は高等科から入学してきた外部生達に内部生の悪口を吹き込む。そうしてますます軋轢が生まれ、時には大きな衝突に発展することもある。
もちろん現実には内部生の家の力は圧倒的であり、もし本当に衝突すれば外部生達にはほぼ勝ち目はない。学園も内部生を蔑ろには出来ないために仲裁や裁定も内部生に甘いように映る。そうなるとますます外部生達が反発して態度が硬直するという悪循環に陥っていた。
「あんた達さ、あんまりそういうこと言わない方がいいよ?」
「…………ん」
「何よ。確か……河村さんと加田さんだっけ?二人はあのお上品ぶった人達の側なわけ?」
内部生達の言葉遣いを小馬鹿にして笑っていた新一年生の外部生達に、女子にしては背の高いショートカットの女の子と、小柄で無口な女の子が注意を促した。両者は同じクラスであり、昨日の入学式の後にクラス内での自己紹介を聞いている。
「確か二人とも中等科からの入学だったよね?あたしらと変わらないんじゃなかったっけ?それなのに向こうの肩を持つわけ?」
「そういうわけじゃないよ。でもわざわざそうやって馬鹿にしてからかうから揉めるんだよ。それで仕返しされたからって後で泣きを見るのも、僻んでネチネチ文句を言う羽目になるのも自分達だよ?」
「…………ん」
「何よそれ。喧嘩売ってるわけ?」
女子にしては大柄な生徒と、小柄な生徒の物言いにカチンときた外部生達が二人を囲み始める。しかし地下家である二人は知っているのだ。このような初期においての確執が今後の六年間、あるいは八年、十年先まで祟るということを……。
普通に考えても一般家庭の子と、地下家の子ですらその立場には隔絶した差が存在する。ましてや内部生達は堂上家や地下家の中でも上位に位置する家の者が多いのだ。さらに派閥、門流に属し、初等科六年間の間に周囲との信頼関係も出来上がっている。一人を相手にしているつもりで絡んだら、その相手の派閥丸ごと敵に回していた、なんてことはザラにある。
もし内部生のそれなりに大きな派閥にでも喧嘩を売ろうものならば、外部生達ではどうやっても太刀打ち出来ない。そして学園や生徒会、保護者やPTAに訴えても黙殺される。それは外部生が常識のない言動をしたり、喧嘩を売るかのような振る舞いをすることが原因だからだ。だがそういう裁定を下された者はそれを素直に受け入れない。
内部生が優遇されているから自分達の方が悪いと言われた。大人や教師達、学園は何もしてくれない。えこ贔屓だ。そうやって内部生達に逆恨みし、学園や大人達が内部生に甘くえこ贔屓していると思い込む。
確かに学園側が内部生達に逆らい難いというのは事実だが、それだけが全てというわけでもない。学園とてあまりに目に余ることならば内部生相手でもそれなりに厳しい処分を下す。ただ今朝の一件を見てもわかる通り、どちらかと言えば外部生達がカルチャーショックによって、内部生達を馬鹿にしたり軽く見たりすることが大体の事の発端であることが多い。
もし今朝の一件が問題となって学園の知る所となり処分が下されていたならば、外部生達の方だけが罰を受けていただろう。それはそうだ。内部生達はただ普通に挨拶をしていただけなのだから……。だが自分達だけが一方的に罰を受ければ逆恨みもするし、学園側にも勝手に失望し反発する。そうやって妬みや僻みが蓄積されていくのだ。
「そう言えばこの子達も……、なんだっけ?ちぢれ?とか言ってなかった?」
「ぎゃははっ!ちぢれって何よ!それを言うならじじげでしょ?」
「はぁ……、地下家だよ……」
大柄な少女は呆れて首を振りながら指摘する。一般家庭育ちの子達の認識はその程度なのだ。いくら勉強が出来ても普通の小学校に通っていた新一年生ではまだこの程度でも止むを得ない。世間では中等科一年生など子供も子供であり、藤花学園の生徒達が大人び過ぎているだけにすぎない。
「どうでもいいわよ。で?そのじげけ様は私達庶民のことは馬鹿にしていいってわけね」
ハンッ、と鼻を鳴らしながら大柄な少女と小柄な少女を囲む者達が肩を竦めて笑う。地下家の二人は『そりゃこんな態度だったら内部生達にやられるのも仕方ないな……』と思いながら、この場をどう収めようかと困り果てていた。
その時、ロータリーが騒がしくなりワイワイと人の声が大きくなった。揉めていた少女達もそちらに視線を向けてみれば……。
「御機嫌よう!九条様!」
「九条様御機嫌よう」
「ええ。御機嫌よう、皆さん」
他の家の車とはランクが違う高級車が停まったかと思うと降りてきたのは、入学式で一人講堂のど真ん中に特別な椅子に座っていた人物だった。地下家の二人はその人物が何者か理解している。一瞬でここでこんな風に屯していてはまずいと悟った。しかし少女達に絡んでいる方は事態を理解していない。
「何よあれ……」
「ぷっ!本当にアニメや漫画のお嬢様みたいね!」
「あははっ!ちょーウケるんですけど!」
「ちょっ!馬鹿っ!やめろ!聞こえたらどうするつもりだ……」
「……ん」
大柄な少女の言葉に小柄な少女もカクカクと首を振る。
「ああん?誰が馬鹿よ。あんた達、自分達の立場がわかってんの?」
「そうよそうよ!」
「だから!あまり目立つようなことをするなって!アレはヤバいんだよ!私達に絡むならそれはそれでいいから、とにかくこの場から逃げ……」
大柄な少女は焦ったようにそう言った。しかしそれはもう手遅れだった。
「貴女達……、何をしているのかしら?」
コツコツと足音高くやってきた人物は、扇子で口元を隠しながら吊り上った鋭い視線をこちらに向けてきた。大柄な少女と小柄な少女は一瞬にして背筋が伸び、冷や汗がダラダラと流れ出た。
馬鹿にしていた言葉を聞かれてしまったのか?それとも『完璧女帝』様がやってきたにも関わらず挨拶もしなかったことだろうか?あるいは『完璧女帝』様の通りの邪魔をしてしまっていると思われたのかもしれない。
何にしろ……、『完璧女帝』九条咲耶様に睨まれたらもうお終いだ。自分達のみでは済まず、一族郎党全てが抹殺されるに違いない。あまりの絶望感に二人は泣き出しそうになっていた。
「何よ……?あんたには関係ないでしょ?」
二人を囲んでいた少女達も、何も知らないにも関わらずその雰囲気に圧倒される。この相手は只者ではない。いきなり面と向かって馬鹿に出来る相手ではなく、囲んでいる者達にしては言葉を選んで話した……、つもりだった。しかしそれは藤花学園ではあり得ない言葉遣いと態度だ。それが許容されるはずもない。
「まぁ!九条様に向かって何て口の利き方を……」
「下品な方達ね……。外部生というのは皆さんああなのかしら……」
周囲の全員がその者達に厳しい視線を向け、言葉を投げかける。何かはわからないが状況がまずいと察したその者達はそそくさと逃げ出す。
「いっ、行くわよ!」
「うん」
「行こ行こ」
ここで素直に謝らなかった時点で彼女達の今後は決まってしまったも同然ではあるが、それにはまだ気付いていない者達は逃げ出した。そして大柄な少女と小柄な少女だけが残された。その目の前には『完璧女帝』がいる。そのあまりの圧力に二人とも気を失ってしまいそうだ。
そして……、ゆっくりと……、九条咲耶様の口が開いた……。
「貴女達、大丈夫だった?あの人達に絡まれていたのよね?何もされていない?」
「はっ、はいっ!大丈夫です!助けていただきありがとうございました!」
「……ん。ありがとぅ……」
日ごろ無口な小柄な少女まですぐに礼を述べた。完璧女帝相手に小声でボソボソと、そんな口調で言うべきではないが、それでもこの少女にしては精一杯頑張って応えたのだ。
「えっ!うわぁっ!河村鬼灯ちゃんと加田鈴蘭ちゃんですよね?本物だぁっ!凄い凄い!本当に会えるなんて……、感激だわ!」
「「…………え?」」
いきなりほにゃっと表情が崩れた九条咲耶様はそう言われた。二人は理解が追いつかずに呆けることしか出来ない。
「あっ!?……ごめんなさい。折角だけれどあまり貴女達とお近づきになると色々とまずいかもしれないの……。それでは、御機嫌よう」
「あっ、はい……。ごきげんよう」
「……ごきげんよぅ」
にこやかな笑顔で九条咲耶様は立ち去った。あまりの出来事の連続に大柄な少女、河村鬼灯と、小柄な少女、加田鈴蘭の理解が追いつかない。ただ一つわかることは……。
「わっ、私達、初対面のはずなのに顔と名前覚えられてる!?」
「…………ん。知らない間に覚えられてる……」
「どっ、どどどっ、どうしよう?」
「…………ん。たぶんまずぃ……」
「だよね!だよね!さっきのって後で処分するから覚えてろってことかな?」
「……かもしれない」
「うわぁぁぁぁ~!終わった!河村家終わっちゃったよ!ごめんねお父さん、お母さん!」
鬼灯と鈴蘭は、会ったこともないはずの地方の地下家である自分達が、九条咲耶様に覚えられていたことで大混乱に陥った。この後自分達がどうされるのかと思いながら、心の中で家族に迷惑をかけてしまったことを泣いて謝っていたのだった。
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閑話「引き継がれるもの」
初等科五北会において、入学式のその日に五北会でお披露目されるのは五北家しかいない。五北家以外は通常の学園が始まってから初めてお披露目される。今年度も五北家の入学がなかった初等科では、今日が新入生達のお披露目の日だった。
「ごきげんよう!よろしくおねがいします!」
「ええ。よろしくね」
新一年生達が挨拶をして、先輩達がそれに応じる。初等科とはいえ、上級生達ともなれば下手な高校生や大学生よりもしっかりしている。可愛い新一年生達に頬を緩めて挨拶を受け終わると、一年生達がそれぞれの派閥に分かれて話をし始めた。しかし一人の一年生女子生徒がサロンの最奥に置かれている、他とは違う立派な椅子に気付いた。
「わあっ!すてき!このいす、わたしの!」
新一年生の女の子はそのあまりに立派で綺麗な椅子に誘われてそこに座ってしまった。それを受けて一瞬でサロン内が凍りつく。
「――ッ!?そっ、その席は……」
上級生達が注意しようと思った時にはもう遅かった。重い扉が開かれ、コツコツコツと足音高くその席の主がサロンへと入ってきてしまった。
「御機嫌よう」
ツインテールの髪を揺らし、口元を扇子で隠したやや厳しそうな顔立ちをした上級生が最奥の特別な席の前に辿り着く。
「あら……?」
「ひっ!?」
鋭い目つきで見下ろされた新一年生の少女は、目の前に立つ上級生の雰囲気に飲まれて震えることしか出来なかった。
「こっ、久我様っ!この子はまだ何も知らない新一年生です!どっ、どうかお許しを……」
「貴女は黙ってなさい」
「――ッ!?」
ジロリと睨まれただけで新一年生の女の子を庇おうとしていた上級生が固まる。その威圧から新一年生達も本能で理解した。この方が何者なのか。この特別立派な席が誰のものなのか。
「貴女は……、この席が誰のための席か。どうしてここにあるかご存知かしら?」
「ヒッ!ごっ、ごめんなさい!なにもしらないんです!しらなかったんです!」
女の子はガタガタと震えながらこの席の主であろう相手に謝る。しかしその相手は怒るでもなく、しゃがんで女の子の目線の高さに合わせると言葉を紡いだ。
「この席は……、今から約六年前に『ある方』のためだけに置かれた椅子よ。そして私はそれを知らずにその席に座ってしまった。今の貴女のようにね」
「ヒグッ……」
怒られると思って女の子は目に涙を溜める。しかし席の主はフッと表情を緩めた。
「でもその方はこう言われたわ。『この席を引き継ぐのならばそれに相応しい者になりなさい』とね……」
「ぁ……」
まるで何かを懐かしむように、目の前の女王はそう言った。小さく『私なんてまだまだだけどね』と言ったのを、目の前の女の子だけは聞いていた。
「私が卒業する時、貴女がこの席に相応しい者になっていれば貴女に譲るわ。それまでは……、その席に座るに相応しい者になれるように自分を磨きなさい」
「はっ、はいっ!」
女の子は……、憧れの視線で目の前の上級生、初等科五北会の女王、久我竜胆を見詰めた。その頬は若干上気し赤らんでいる。ただの憧れだけではなく……、本当にこの人の後を引き継げるように頑張ろう。女の子は心の底からそう誓った。
「ふふっ。じゃあ今日はその席は貸してあげるわ。その席から見える景色も見ておきなさい。そうすれば貴女が目指すべき先もきっと見えるわ」
「~~~~~っ!はいっ!!!」
元気よく答えた女の子に、竜胆はまたフッと笑ったのだった。




