プロローグ 『終末旅行の一幕』
――暗い、寒い、深い、重い、狭い、遠い、鈍い、痛い
その全てを一つに練りこんで、腐らせて、冷たく湿った布のように全身へ纏わせたような、そんな闇の中を歩いている。風の抜ける音すら、もうずいぶんと聞いていない気がする。
歯抜けになった高層ビルが、まるで溺れるように空を仰いでいる。
窓ガラスは割れ、鉄骨は錆び、コンクリートは崩れてとうの昔に地面と綯交ぜになった。
歩くたびに、粉々になった何かが靴の底で砕かれるのを感じる。それが何かの骨なのか、それとも壊れた日常の残骸か、もう見分けはつかない。
体の大きさに合っていないコートの裾を引きずり、重い鞄を肩から提げる。時折コートの端を自分で踏んでは、転びそうになるが、この悴む空気を防ぐことができる代物を手放すわけにはいかない。緩んできた襟を口元まで引き上げ、顔の半分を覆い隠して歩き始める。
しかし、その足取りもすぐに止まることになる。
一つの倒壊したビルが行く手を阻んでいたからだ。先ほどまでの急いた歩調を緩め、怪我をしないよう慎重に歩を進めていく。医療器具や手当てできるものが満足にない今、小さな傷も膿んでしまえば命取りになりかねない。
ガラス片などに注意しながらそろりそろりと器用に傾いたビルの中を通り抜ける。
足元を覆う瓦礫が、かつての都市が形骸化したことを雄弁に物語っていた。原型を留めていないプラスチック製品、色褪せた広告看板、道端に打ち捨てられた傘。
どれもそこに「誰か」がいたことの証だが、今では少年の足音以外、何一つ生き物の鼓動を感じさせるようなものはなかった。電灯は灯らず、信号は壊れ、道路は草に覆われている。
かつて人が生きていた形跡だけが、時間の屍のように取り残されている。
肩にかけた鞄の中には、拾い集めた食料と、他人の名前が書かれた水筒、もう意味を持たない文字が羅列されたメモ帳、使えない地図、そして、読みかけの本が入っていた。
折り目のついた途中で止まった物語は、もうきっと結末を綴ることはない。それでもなぜか捨てることができなかった。
「――」
長い間歩きっぱなしだった足はそろそろ悲鳴を上げてきている。
今夜泊まれそうな場所を探すまでは休憩を取らないつもりだったが、日に日に増えていく荷物が体力の限界値を引き下げているのかもしれない。
一度荷物を地面におろし、少しの間足を休めることにした。
少年は時折空を眺める癖があった。今にも雨が降り出しそうな、重く立ち込めた灰色の雲が瞳の中に映る。
何の気なしに取った行動だったが、その瞳は何かを探していた。
飛行機の雲、紅に染まる夕焼け、流れる星
少年の心の中に浮かんだ景色は、何ひとつ一致してはくれない。
視界一面に広がる雲は、まるで涙を限界まで吸った綿のように、今にも雫が零れ落ちそうだ。
雨に降られて風邪をひいてはたまらないと、さきほどよりも少しばかり歩調を急かしながら、ステラは再び崩れかけた高層ビルの谷間を歩いていた。
――この世界が終わってから、七年が経つ
だが、終わりというのは必ずしも突然やってくるものではない。
どこかで世界の終幕を告げるチャイムが鳴ったわけでもなければ、誰かが「この世界はたったいま終了しました」と宣告したわけでもない。
それでも世界はゆっくりと、そして確実に終焉へと向かっていった。
それはまるで、知らず知らずのうちに船底に穴の開いた客船のようだった。穴から海水がじわじわと入り込み、気づいたころにはもう遅く、足元が浸かり、体が冷え、そしてもう二度と浮かび上がることのない深みに静かに沈んでいく――。
その発端が「空蝕」と呼ばれる現象だった。
引き金と呼ぶには静かすぎる、ほんの小さなひずみが瞬く間にこの世界を丸ごと飲み込んだのだった。それはあまりに唐突で、理解することを拒んだほどに。
空蝕。それが最初に発生したのは、七年前の春の終わり。とある街の片隅で、夫を亡くした老婆が誰にも看取られず、ひっそりと崩れるように息を引き取った。しかし、その老婆が消えたことに気づかなかった。なぜなら、老婆の 死体はどこからも見つからず、まるで存在自体が消えたようにいなくなったからだ。
その翌日には、別の町で同じような事例が報告された。その次はさらに別の都市へ。
数日後には、海の向こうの大陸でも全く同じように人が消えていったのである。世界各地で、まるで示し合わせたように、ぽつり、ぽつりと。無音の爆弾のように、唐突に、同時多発的に消えた。
共通していたのはその死に方だった。誰も叫ばない。苦しまない。ただ一瞬、空を見上げたかと思ったら、その体が陽炎のように揺らぎ、淡く、空気に還っていく。まるで、誰かがそっとその人という存在だけを、空から切り取ったように。
それが『空蝕』と呼ばれるようになった理由だ。空に蝕まれる、呑まれる、ぼんやりと拡散し、消えていく。
世界各地で起こったその超常現象は、人の理解が追い付く前に猛威を存分に振るった。
感染症なのか、精神的な病なのか、それとももっと別の何かなのか、――。
感染者に触れたから?それとも見たから?言葉を交わしたから?潜伏期間はあるのか、それとも即座に発症するのか、それすらもわからなかった。
発症条件も、感染経路もすべて不明。誰が明日亡くなるのか、だれも予測できない。昨日まで笑っていた人が、今日にはもういない。気づけば、一人、また一人と減っていく。それでも世界は何も語ることはなかった。
人々は残された人類の叡智を集結させ、あらゆる対抗手段を講じた。けれど、誰一人としてそれを防ぐ術は見つけることができなかった。
人々は、畏れ、隔離し、逃げた。それでも空蝕からは逃れられなかった。都市機能は崩壊し、電気や水道はストップし、水や食料も底をついた。やがて人は人でなくなっていった。
空蝕による致死症状から逃れた人々の心も徐々に蝕まれ、争いの末にその数を減らしては、自ら命を絶つ者もいた。
奇妙だったのが、残された人類の多くは子供だったことである。しかし、そんな事実が空蝕を止める一助になるわけではない。
七年。あの終わりの始まりからこれだけの年月が経った。
今、世界の人口は崩壊前の全体の五%にも満たないのではないかとされている。それも確かな数字ではない。一、二年ほど前に出会った老人が根拠なく嘯いた話だ。通信も止まり、国家も都市機能を失い、誰がどこで生きているのか、もう誰にも把握することができない。
文明の息は絶たれた。食料はほとんどが備蓄の底を尽き、わずかに残る缶詰や保存食が、命のタイムリミットを示すようになって久しい。
ステラが旅を続ける理由の主な目的が、この食糧の調達だった。生きるために食べ、食べるために生きる。その繰り返しが、ステラの人生の大半を占めていた。
かつての文明の記憶が、過去の遺物となっていく。崩れたビル群、放置された自動車、誰もいない駅――。世界は まるで、誰かが唐突に舞台の照明を落とし、役者が消え去った後の劇場のようだった。
陽が重たい雲の向こう側に沈みかけている。ぼんやりとした鈍色の空の下、アスファルトの割れた歩道を歩いていた。
人影は未だ一つも見えず。無言で口を開けたガソリンスタンドの屋根が風に揺れ、ひゅうと乾いた音を運び、やがて遠ざかっていった。
ステラは、道路わきの古びたバス停で足を止めた。色褪せて読めない時刻表と、ところどころに穴が開いた雨除けの庇。ベンチの端に座り込み、肩から鞄を外す。
「ここでいいか…」
独り言のようにつぶやいて、背もたれに体を預ける。コンクリートで四面を覆われた建物の中よりも、こういう場所の方が落ち着くのだ。
バス停は風通しがいい。ステラは空が見える場所にいたかったのだ。 いつか来るはずの終わりを見逃さないために。
ステラは膝を抱え、ゆっくりと目を閉じた。聞こえるのは自分の呼吸音だけ。誰も迎えに来ない、停留所。それが今日の寝床だった。




