第1章 おかえりなさい異世界 1
「――おっとっとっと……」
もうこれで三度目か。
この闇から吐き出される感覚には、相変わらず戸惑う。
夢の中で階段を踏み外して、ビクッとするような気色の悪い感覚。
そして吐き出された途端に包まれたのは、猛烈な暑さだった。
前回ソーラス神社から日本へ旅立ったのが、ヒーズルの暦で五月十五日。
それから約一ヶ月半ぐらいを日本で過ごしたのだから、帰ってきた今は六月下旬から七月初旬ぐらいだろう。そして服装は厳冬用の防寒装備。くらくらするほどの暑さも当然だ。
日本の一月から、ヒーズルの七月へ。
業務用の冷蔵庫から、夏の炎天下に放り出されたようなものだ。冷房病にでもなりそうな気温差。
しかしそれが、またヒーズルへやって来たのだという実感でもある。
「ここはどこなんでしょう……」
「今回の出口は確か……ルース神社だったはずよ」
十二畳ほどの広さの木造の部屋。
部屋の最奥の床には、見慣れた魔法陣のような模様。
そして等間隔に、壁に備え付けられた照明器具が、優しく室内を照らす。
電気とも、ガスとも違う、独特の優しい灯り。このクロルツの明かりも、ヒーズルに帰ったことを実感させる。
必死で周囲を見る余裕もなかったソーラス神社も、今思えばこんな感じだった気がする。となると、ここはカズラの言うルース神社の本殿だろうか。
「マスターは、上手くやってくれてるみたいだね」
「あの人のことだから、まだわかんないわよ」
この部屋に人影はないし、物音も聞こえてこない。
人払いができているということは、作戦が順調な証だろう。
とはいえカズラも言うように、神社から逃げ延びるまでが作戦。まだ油断するには時期尚早。それにまだ国王派警護隊を突破して、反国王派がこちらにやって来る可能性だって残されている。
ポケットから携帯電話を取り出し、時計をじっと見つめる。
――5、4、3、2、1……。
「時間になったみたいね。もう界門は消えたかな? カズラ」
僕と一緒に携帯電話を覗き込んでいた、アザミが尋ねる。
界門の消滅はそこまで定刻通りかはわからないが、目安にはできるだろう。
「そうね、あと一、二分様子を見て、誰も現れなければ次の行動に移りましょう。それにしても、さすがにコート着たままだと暑いわね……」
そう言いながらコートを脱ぎ始めるカズラ。思わず見入る。
別に裸になったわけじゃない。Tシャツ姿になっただけだ。
それでもコートなんていう厚着から一転、開放的な服装になっただけで妙にドキドキしてしまうのはなぜだろう……。
カズラは突然振り返ると、呆けている僕の顔を怪訝な表情で見つめる。
「あんた、今いやらしい目で見てなかった? この、変態!」
「い、いや……気のせいでしょ。だって、普通の服装じゃない……ハハハ」
図星を突かれてドキリとする。
しかし突然振り返るなんて、そこまで強烈に視線を突き刺したのだろうか。
でもまあ、今回は何とか言い訳も通って一安心だ。
「確かにそうだけど……。まあいいわ、今何時?」
「零時三十二分だね。もう界門は消えたと思っていいよね?」
僕を含めた三人で、後ろを振り返る。
部屋の奥は魔法陣のみ。僕たち以外に界門を渡って来た人影はない。
だが界門も目にみえないから、既に消滅したかはわからない。マンガやアニメでよく見るように、黒いモヤモヤした入り口でも登場してくれれば一目瞭然なのに。
「どうやら警護隊長は、職務を全うしてくれたみたいね。それじゃ、あたしは周辺の様子を探って来るから、二人はここで待ってて」
そう言い残して重厚なドアを開き、静かにカズラは出て行った。
取り残された僕とアザミ。どうも二人きりになると、緊張感が先に立つ。
「兄さま、暑くないですか?」
カズラに見とれていたせいで、コートを脱ぐのを忘れていた。
アザミの言葉に慌ててリュックを足元におろし、着替え始める。とは言っても、元々こちらの服は中に着込んでおいたので、コートとセーターを脱いだだけで完了だ。
「いやあ、ほんと暑いね。こっちは夏だもんね」
「そうですね。まさか私も帰って来るとは思ってなかったんで、何の準備もしてきませんでした……」
アザミも既にコートは脱衣済み。上はTシャツ、下はスエットだ。
カズラもそうだったが、これは僕とマスターが家を出た時に着ていた部屋着。 そこにコートを羽織っただけで家を出て来たということは、どれだけ慌てて飛び出したのだろう。
向こうでは毎日見ていた普段着。なのに、照れ隠しなのか、胸元を隠すような素振りをするから変に意識してしまう。
「それにしても、さっきは本当に助かったよ。どうしてあんなに良いタイミングで助けにこれたの?」
「主任さんが突然行くわよって言い出して……。私たちもじっとしていられなかったんで、一緒についてきたんです」
ずっと疑問に思っていた。
やっと一息ついたので尋ねてはみたが、助けに来てくれた理由を知るのは主任だけか。アザミがわからないのなら、きっとカズラに尋ねても同じだろう。
「ごめんなさい、兄さま……。私まで来てしまったせいで、余計な面倒を掛けてしまって……」
「何言ってんだよ、さっきの駐車場の状況見たろ? みんなが来てくれなかったら、僕もマスターもきっと命はなかったよ、今頃」
「本当ですか? お役に立てたのなら嬉しいです、兄さま」
本当に嬉しそうな、ぱーっと周囲まで明るくするようなアザミの笑顔。
だが実際、役に立ったなんてもんじゃない。まさしく命の恩人だ。
目の前のアザミに感謝を込めて、頭をそっと撫でる。
「ありがとう、アザミ」
アザミは満足そうな笑顔で見つめている。
しかし和やかな時間もここまで。扉の外に人の気配を感じた。
周辺を見に行ったカズラかと思ったが、どうも雰囲気がおかしい。
――扉を開けた人物は、白い防魔服に身を包んでいた。