第12章 備えあれば憂いなし 4
「――いよいよか……」
もうすぐ、この世界ともお別れだ。
脳裏にこの世界の風景でも焼き付けようと、電車の窓をじっと見つめてみた。しかし、外はとっぷりと日が暮れているため、映ってるのは窓ガラスに反射している僕自身だ。窓に顔をくっつけて目を凝らそうかとも思ったが、さほど愛着もない景色に意味などないかと目を閉じた。
日本に帰ってくるなりマスターに呼ばれて、次回の界門の出現は一ヶ月半も先と告げられた。当時は、その期間をとても長く感じたことは記憶に新しい。それがドタバタとしている間に、もう当日となってしまった。
この世界に未練はない。
むしろ早く界門を渡り、ヒーズルへ行きたいぐらいだ。
……いや、それは正確ではない。主任に、何一つ恩を返せていないのは心残りだし、別れるのも辛い。そして、家を出る前にかかってきた電話のせいで、さらに心残りが増えてしまった……。
『ごめんなさい……。あなたが家を出る時刻までに帰れそうもなくなったの……。電話でお別れなんて辛いんだけど……元気でね。嫌になったらいつでも帰ってらっしゃいね、お土産待ってるからね。えっと、それから……、あ、呼ばれちゃったんで……。もし、またかけられそうだったらかけるわね。それじゃ』
取引先とのトラブルで、主任も借り出される破目になったらしい。
今日が金曜日だったのも不運だった。週明けの対応では遅すぎると、仕事始めの初日だというのに、当日対応を余儀なくされたという話だ。
声は鼻声、しばしば言葉を詰まらせての沈黙、気丈に明るく振る舞っていたが無理をしているのは明らか。なんとか最後は直接顔を合わせてお別れしたいと、三十分ほど出発を遅らせてみたが、時間内の帰宅は叶わなかった。
「主任様には申し訳ないことをしました。ですが、お時間も差し迫っていたので……」
「仕方ないです。こっちも遅刻できませんからね」
後でかけられたらかけると言っていた電話も、未だにかかってこない。こちらからかけようかとも考えたが、クレーム対応中だったらと思うと、それもためらわれた。
やはり、さっきの電話が主任との最後なのかもしれない……。
最寄り駅には到着したものの、まだ少し早い。
遅刻よりましなのは同意するがまだ午後十時半、仕方がないので手近なファミリーレストランで、ドリンクバーの注文をして時間潰しをする。あまりにも早く現地に到着してもやることはないし、反国王派に発見されれば逆にこちらの身が危うい。
「こんなことなら、もうちょっと主任を待ってあげても良かったですね」
「申し訳ございません。こんなに乗り継ぎが上手くいくとは、思わなかったものでございますから……」
結果論だから仕方がない。
逆に、予定外に遅れてしまっては取り返しのつかないことになっていた。
「何時頃ここを出ます? マスター」
「そうですね、十一時になったら向かおうかと考えております。王子」
返事をしておきながら、慌ててマスターが口を手で覆う。
ユウノスケの情報によれば、反国王派の人員は二十五人。それを信用するなら、当日のこんな場所にまで、反国王派が見張りを立てられるほどのゆとりはないだろう。それにしてもマスターは、思った以上のうっかり者だ。
マスター、王子と呼び合う、親子ほど年の離れた男性二人組。傍目からは、一体どう映っているのか。そう考えると存在自体が目立っているような気がして、ついシートに身を隠してみるが今さら手遅れだろう。
三十分も時間があるのならと、持ち物の最終確認を行う。
まずは服装。こちらでは外は凍えるほど冷え切っているが、向こうに着けば夏の暑さが出迎えるはず。それに、こっちの世界の服装でうろつけば、注目を集めること請け合いだ。
前回はそんな知識もないので恥ずかしい思いもしたが、今回は向こうの服をマスターに用意してもらった。それを一番下に着込んでいるので、界門を渡り次第、上着をどこかに脱ぎ捨てるだけで着替えは完了する手はずだ。
次はリュックの中身。もちろん、一つ一つ引っ張り出して確認するわけにはいかない。それでもざっと確認しておこうと、上部のファスナーを開く。
見慣れない袋、そして小箱。こんな物入れただろうかと取り出して確認すると、台所洗剤とマカロンが姿を現した。あの二人の仕業か……。しかし、こんな所に置いて行くわけにもいかない。昨夜荷造りした時には、既にパンパンに詰まっていたはずなのに、良くこんなものが入ったなと首を傾げながらも仕方なくしまい込む。
携帯電話を取り出し、時刻を確認する。
午後十一時、もうそろそろ現地へ向かい始めても良い頃合いだろうか。
ここを出発したら、そこから先は落ち着ける時間があるかはわからない。主任に挨拶ができるのは、今が最後のチャンスかもしれない。
『ただいま電話に出ることができません……』
何度か呼び出し音は鳴ったものの、留守番電話になってしまう。
まだ仕事から解放されないのか、それとも車の運転中なのか……。
最後に一言、主任に気合を入れてもらいたかった気もするが、出られないのなら仕方がない。さっき電話で別れの挨拶は済ませたし、また後でチャンスもあるかもしれない。
僕は携帯電話をポケットへとしまい込んだ。
「準備はよろしいですかな?」
「ええ、大丈夫です」
時間潰しと睡魔退散を兼ねた四杯目のコーヒーも飲み干し、登山にでも行きそうなリュックを背負う。ずしりと肩に食い込むリュックは、所持品の多さを後悔させるには充分すぎる。
潰した時間は約三十分。
目的の神社まではここからタクシーで十五分、到着するのは界門が出現する一時間ぐらい前の予定だ。
支払いはマスターが済ませ、僕たちは気を引き締めて店を後にした。
「――ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」