第12章 備えあれば憂いなし 3
「明日は、何時ごろここを出ますか? マスター」
『……ウィーン……』
「早く着きすぎる分には待てば済みますが、遅刻は取り返しがつきませんからね。どんな不測の事態にも対処できるように、三時間前にはここを出るとしましょうか。王子」
『……ウィーン、ウィ、ウィ……ウィーン』
「三時間前って言うと、九時頃ね。明日は仕事始めだから帰りも早いわ。山王子くんの最後のお見送りは、問題なくできそうね」
『……ウィーン……』
明日はいよいよ出発だというのに、主任の家ではプリンターがフル稼働中だ。
気が散って仕方がない……。
「あーもう、うるさい、うるさい。印刷なら別な部屋でやってくれよ」
「プリンターって奴が、ここにあるんだから仕方ないでしょ。そんなに言うなら、あんた達がよそ行きなさいよ」
「すみません、兄さま。もうちょっとで終わりますから」
「大体、何を印刷してるんだよ」
ちょうど刷り上がった印刷物を取り上げる。
これはクリスマスツリーか。どうやら、クリスマスと初詣の時に携帯電話で撮った写真を印刷していたようだ。
「二人の出発はまだ先なんだから、慌てて印刷しなくてもいいだろ」
「いいえ、これは兄さまの分です」
「カズラちゃんが、向こうへ行って携帯電話が使えなくなったら、中の写真が見られなくなっちゃうって嘆いてたんで、印刷すれば携帯電話がなくても見られるよって教えてあげたのよ」
「べ、別に……。あ、あんたのためにやってるんじゃないわよ。あんたの分は、あたし達のついでなだけだから……」
僕のためじゃないのなら、なおさら今日やる必要はないだろうと言いたい。
だが、確かに向こうの世界では携帯電話はいつか充電もできなくなり、中に詰まった思い出は取り出せなくなってしまう。ここは素直に感謝しておくべきか。
「ありがとう。明日持って行きたいから、写りの良いのを何枚か選んでおいてもらえるかな」
「わかりました、兄さま」
「仕方ないわね。でも、変なことに使わないでしょうね」
変なことってなんだ。逆に妄想してしまう。
しかし、こんな喜ばしい理由を聞かされては、プリンターの騒音はしばらく我慢せざるを得ない。
日本で過ごす最後の夜になるかもしれないというのに、思ったよりも時間は淡々と流れ、そして更けて行く。
もちろん多少の緊張はあるものの、まだどことなく実感が湧かないし、会話もいつもとさほど変わりはない。主任が景気付けにと、出前の寿司を取ってくれたので夕食は豪勢だったが、『こんなの初めて』というわけではない。よっぽど、会社を退社した日に主任に奢ってもらった、フルコースのディナーの方が特別だった。
夜も深まり、コタツを囲んでいたそれぞれが、そのまま寝る体勢に入る。
身体に良くないからと言いながらも、結局人数分の敷き布団もないので、これで押し通してしまった。そして、普段なら主任だけは自分の寝室で寝るのだが、今晩は主任もここで寝るつもりなのか、そのまま身体を横たえた。
「うーん……明日の夜は三人になるのかー。ちょっと寂しくなっちゃうわね」
「ですね。私は、兄さまに頼ってばっかりだったんで、ちょっと不安です」
「いいじゃない。部屋を広々と使えるってもんだわ」
女性陣は三者三葉、カズラに至っては言いたい放題だ。
さっきまではいつもの雰囲気で時が流れていたのに、消灯してこんな話題になると、やっぱり少しずつ実感が湧いてくる。
思えば一ヵ月半前にもこんなことがあった、あの時はケンゴに娘を自慢されたっけ……。そう思うと先日の心残りが胸を刺す。
「詩音さん、どうしてるだろう……」
「心配ですね……」
「あんな置き手紙まで残して、決意固そうだったじゃない。だったら、尊重してあげればいいのよ。それに、あたしの電話番号も伝えて来たんだから、何かあれば連絡あるわよ」
カズラの言う通りなのだが、やはりケンゴへの手土産が欲しかったのが本音だ。
考えすぎかもしれないが、僕の訪問が家出のきっかけになったのかもしれないと思うと、罪悪感さえ湧き起こる。だが出発まで時間もない今、後は二人に託すしかない。
こうして思い起こすと、頭に浮かぶのはこの世界への未練ばかりだ。
四年間暮らした部屋も襲撃されたままほったらかしだし、主任にも何一つ恩は返せていない。アザミとカズラにもこの世界のことはまだまだ教え足りないし、名所にも連れて行ってあげられなかった。でも、それは主任がきっとやってくれるんじゃないだろうか。いや、しかしそうすると更に主任への借りが増えてしまう……。
結局、考え事をしながら眠りについてしまったらしい。
目を開けると既に当日。実感も何もあったもんじゃない。
そして、今日は主任の仕事始めの日でもある。
彼女も今日は珍しく出社に気乗りがしないようで、いつも以上に支度に時間が掛かっている。それでもやはり休むわけにはいかないのが社会人、連休明けとなればなおさらだ。
出勤のために玄関に向かう主任。こうして四人で出勤を見送るのも今日が最後だ。
「別れの挨拶は仕事から帰ってきてから改めてするけど、とうとうお別れの日が来ちゃったのね、山王子くん。
はあ……。もう、とっとと異世界でもどこでも行っちゃいなさい。そして、王子じゃないって証明を済ませて、とっとと帰ってきなさい。ずっと待っててあげるから」
「王子じゃなくても多分戻ることはないんで、待たなくても大丈夫ですよ。主任」
主任は大きくため息をついて、天井を見上げた。
その目には、今にも零れ落ちそうに涙をたたえているようだ。
「あんたは一回、外界に飛ばされた方がいいわ」
「兄さまは、今まさにその真っ最中だよ」
「こっちの世界で言うなら、地獄に落ちろですな」
なぜにここまで言われるのか腑に落ちない。
だが、どうやらまたしてもひどいことを口走ったらしいので謝罪をするべきかと迷っていると、罵声を捨て台詞にして出勤のために主任は出て行った。
「――ほんとよね……。山王子くんのバーカ。あなたなんか地獄に落ちちゃえばいいのよ。そして、もう二度と戻ってくんな…………。さようなら」