第10章 主任の憂鬱 4
嵐が去り、静寂が訪れる。
アザミは後を追って居間を出て行ったが、主任の言葉に打ちのめされた僕は、とても立ち上がれる気分にはなれなかった。だが、あれほど僕の内面まで理解して見守り続けていてくれたのかと判り、いまさらながらに上司として尊敬の念を深める。
あの言葉で、僕の今後の生きざまが一気に変わるとは思わないが、少なくとも目先で鈍らせていた決断には踏ん切りがついた。
「そう言えば、次に界門が現れるのは一ヵ月半後って言ってましたけど、正確にはいつなんですか?」
「こちらの暦で言うと、一月六日になりますな」
「やれやれ、やっと目が覚めたようね。そのやる気が、また萎まないことを祈りたいわ」
一月六日か。
規則正しい生活とは程遠いせいで日付の感覚が鈍っているが、確か今日は十二月十三日。と、いうことはもう一ヵ月を切っている。あまり悠長に構えていると、あっという間に界門が出現してしまいそうだ。
「兄さま、兄さま」
居間の入り口に身体を半分隠したまま、アザミがコッソリと手招きをする。
何事かと立ち上がりアザミの所へ行くと、そっと耳元に口を寄せ、居間の二人に聞こえないように内緒話を始めた。
「……主任さんが話があるらしいです。行ってあげてください……」
「う、うん。わかった」
あんなことの後で話があると言われると、やはり緊張は隠せない。
しかし、なんでわざわざ耳打ちをしたのだろうと不思議に思いながら、アザミに言われた通りに隣の部屋のドアをノックする。
ドアを開くと、そこは常夜灯のオレンジの光に照らされた薄暗い部屋。そして、部屋の半分近くを占めるほど大きいベッド。そこに主任らしき人影が、俯きながら座っていた。
「さっきはすみませんでした。あの、なんか話があるとか……」
「…………」
主任が沈黙を続けるので、緊張がさらに高まる。
きっと、この薄暗さが緊張を深めているのだろう。かと言って、勝手に明るくするわけにもいくまい。
「どうして暗くしてるんですか? 電気点けていいですか?」
「点けないで。まだひどい顔してるから……」
そう言われては、照明はそのままにしておくしかない。
だが、早く話とやらを始めてくれないと、この緊張感はこれ以上持続できそうもない。この沈黙はどんな説教よりも辛い。
「あの……、それで話っていうのは……」
「山王子くん、ここに座って」
主任は、自分の座っているベッドのすぐ隣を二回ほど手のひらで叩き、場所を示す。妙な雰囲気ながらも、負い目がある立場上拒むこともできず、引き寄せられるようにすぐ隣に腰掛ける。
しばらくの沈黙の後、主任が意を決したように話し掛けてくる。
「あのね、山王子くん……」
「は、はい……」
「あの……、実はね……」
とてもじれったい。
大事な話をしようとしているのだろうが、緊張感も相まってとてもじゃないが耐え難い。だがここで席を立つわけにもいかず、ただひたすらに早く用件に入ってくれるようにと願う。
薄暗い上にこの状況では、首を横に向けるのも不自然すぎる。なので表情は読み取れないが、主任も相当に緊張が高まっているようで呼吸が荒い。
やがて、主任は深く息を吸い込んだかと思うと、大きなため息をつくように息を吐き出し、気合を入れるように両方の手のひらで自分の頬を軽くぴしゃりと叩いた。
「よし! ……やっぱり日本の冬と言えばコタツでしょ。異世界にもあるのかわからないけど、やっぱりこれがないと始まらないと思って」
「……そ、そうですね……」
主任は堰を切ったように話し始め、そのまま立ち上がって押入れを開ける。
そして、手前の小さな荷物をいくつか掻き出し、姿を現した大きな段ボール箱を指差しながら、改めて指示を出す。
「これ、隣の部屋に運んでくれる?」
「わ、わかりました」
緊張から突如解放されたように、雰囲気が変わった主任を不思議に思いつつ、言われるがままにコタツが入った段ボール箱を押入れから抜き出す。
さっきのは一体何だったのか……。
面と向かって聞くわけにもいかず、黙ってコタツを抱えて部屋を後にする。
居間へと戻ると、目を輝かせながらのアザミのお出迎えだ。
「兄さま、どうでしたか?」
「どうって……。これ、持って行けって」
アザミの抽象的過ぎる質問に率直に答えながら、さっそくコタツの組み立て作業に取り掛かる。マスターに手伝ってもらいながら作業を進めていると、アザミは納得がいかない様子で更に質問を重ねる。
「それだけですか? 他に何かなかったんですか?」
今度はコッソリと小声で尋ねてきたが、何もないものは答えようがない。
アザミは何かを期待しているようだが、残念ながらそれには応えられそうもない。
「うーん、やっぱり日本の冬はコタツでしょって言ってたよ」
「もう、自分の考えをはっきり伝えればいいのに!」
「え? あ、ああ、さっきはごめん」
「あ、ごめんなさい。兄さまに言ったわけじゃないんです」
アザミには珍しい、苛立ったような強い口調だったので反射的に謝ってしまった。
すると、突然マスターが微笑みを浮かべながら、少し楽しげに呟く。
「――まったく、若い者はじれったいですな」