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灰燼  作者: AFD
灰燼
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第五章 進化

 一月二十五日、木曜日

東京都目黒区祐天寺

 洋子は髪を束ねながら二階から階段を駆け降りてきた。部屋を出る前につけたエンジェルハートのフレグランスの甘い香りが微かに漂う。居間のソファーの上に置いてあった山吹色のダウンジャケットの裾に手を通しながら洋子は窓ガラスを鏡代(かがみが)わりに再び化粧をチェックした。頬が少しこけ、このニ日間の疲れを化粧でもごまかすことができない。それにしても目覚めてから少し熱っぽく頭痛がするのはこの疲れからきているのであろうか、それとも風邪でもひいてしまったか。昨夜はあのまま行きつけのスナックにも顔を出さず帰宅したのに・・・でも今日ばかりは我慢しよう、待ちに待った特別な日なのだから。洋子は気を取り直して玄関脇に予め用意していたナップサックを手に取り玄関のドアを開けた。

 外はまだ暗く静寂を(まと)っている。この間の大雨の水溜りが未だ乾いてないのか一歩前に踏み出すと(かす)かに細かい氷の粒を砕く音が聞こえた。もう約束の時間は過ぎてるはず。洋子は左手にした腕時計に目をやった。電話した方が良いかもしれない。ジャケットから携帯を取り出そうとしたときどこか遠くでバイクのマフラー音が聞こえた。その音は徐々にこちらに近づいてきている。洋子は(かじか)んだ手を口元にやりながらその方向をじっと見つめた。二百メートル先のT字路がパッと明るくなり一台のバイクが姿を現した。目を()らすとヘッドライトの向こうに黒のフルフェイスのヘルメットが見える。きっと(しげる)に違いない。バイクは家の前に立っている洋子を確認すると更にスピードを上げ、そして洋子の目の前で後輪を滑らせながら円を(えが)くようにして止まった。 洋子はその様子に驚く素振りもせず、むしろ約束どおり来てくれたという安堵(あんど)の表情を浮べている。黒のヘルメットとジャケットを(まと)ったライダーはまだ(くすぶ)っているエンジンを切り、洋子の前に降り立った。身長は洋子と同じくらいで百七十センチ程であろうか。洋子が躊躇(ちゅうちょ)することなくライダーのヘルメットを脱がした。そこには優しく微笑みかける(しげる)の顔があった。もし女に生まれてきたらどんなに可愛いかったであろう、そして目の前のベビーフェイスに何人の女がこれまで仕留められたのであろうか。(しげる)・・・その笑顔に胸が高鳴り、もう誰にも渡したくないという衝動(しょうどう)()られる。このまま二人でいられるのなら全てを投げ捨ててもいいとさえ思う。例えこれが彼の時間をお金を払うことによって得られたものだとしてもこの想いを抑えることができない。彼の代わりになる男はいない。どんなに寂しくとも他の誰かで満足することはできない。あのようなことはもう御免だ。

 「遅刻よ」洋子はゲンコツを握って繁の頭を叩くふりをした。(しげる)大袈裟(おおげさ)にそれをかわすといきなり洋子に抱きついた。

「さあ、どこに行こうか?」

(しげる)が耳元でそっと(ささや)いた。プンと酒の匂いが鼻につく。シャンパンの(にお)いだろうか。(およ)そホストクラブから真っ直ぐここに来ることは予想がついていたが。時計の針は朝の六時十五分を指していた。洋子が買った(しげる)の時間は六時間、一時間十万円、遠くに行こうとは思わなかった。直ぐにでも(しげる)に抱きしめて欲しい。

「運転手さん、五反田方面に向かって」

「了解!」

(しげる)はもう一つのヘルメットを洋子に渡すと再びバイクに(また)がり洋子が後ろから抱きつくのを待った。洋子はそれに応えるように(しげる)の背中に体を密着させた。二人を乗せたバイクが再び爆音を響かせながら元来た道を戻る頃には遠くの空が明るくなり始めていた。


 「すみません、洋子さんいらっしゃいますか?」

玄関のモニターに向かって大谷が言った。間口が狭い一軒家で長い間、()にさらされて壁が多少色焼けしている。築二十年といったところであろう。当時はバブルでニ億くらいしたかもしれないが今となってはそのような高級物件の影もない。こんな都心のど真中で親と過ごして生活費を浮かし自分は遊び狂っているということか。

 目黒署や渋谷署などにも今回の事件の一報が署長宛に流れてきているが、羽田空港で監視カメラに捕らえられた外国人の捜索に当たっているため、感染が疑わしい者の身柄確保まで手が回らない。麹町署と愛宕署が中心となって感染者探しに対応するしかない状況であった。山藤は病院送り、課長の辻村まで朝から署内での身柄確保に躍起(やっき)になっている。辻村の方は今頃衛視(えいし)の飯田をあたっているはずだ。今、麹町署の管轄で強盗事件が起きたとしても誰もそれに手が回らない危機的状況といえる。この事件については本庁の警視正が直々指揮をとっているが、外国人の捜索と感染が疑わしい者の身柄の確保並びに施設への移送ということ以外は情報が開示されず、警視正自身も事件を断片的に把握しているに過ぎないようだ。大谷はこのホスト狂いのお気楽な感染者探しに正直乗り気ではなかった。

「どちら様ですか?」

女性の声がスピーカーから聞こえた。

「麹町署の大谷と申しますが、洋子さんに二三お伺いしたいことがありまして。ご在宅でしょうか?」

「ちょっと待ってください」

家の中からパタパタとスリッパで廊下を走る音がし、初老の女性が不安げに玄関のドアを開いた。母親が姿を見せるまでに大谷は手に()めた白いゴム手袋をもう一度確認した。どれくらいの感染力かはわからないが用心し過ぎて困ることはない。

「娘が何かしたのでしょうか?」

「いいえ、ちょっとご参考までにお訊きしたいことがありまして。洋子さんが犯罪に絡んでいるということではありませんのでご安心下さい。」

 母親は安堵(あんど)の表情を浮かべたが、それは直ぐに娘への愚痴(ぐち)に変わった。

「洋子は朝早くどこかに出掛けてしまったようなんです。あの娘ったら、夕御飯を家で食べるとか明日は休みとか何にも言わないの。でも今日はいつも会社に行くときに持って行くハンドバッグが部屋に置いたままだからどこかに遊びに行ってると思うのですが。全く本当にどうしょうもない娘なんです」

大谷はちらりと腕時計を見た。時計の針は午前十時を指している。九時に洋子の勤務先に電話をして今日は休みということだったので真っ直ぐここに来たのだが間に合わなかったようだ。いつ帰って来るかもわからない者をここでじっと待つ訳にもいかず、また既に感染しているかもしれない母親とこのまま立ち話を続ける事も自らの寿命を縮めそうで嫌だった。大谷は先程までの不安がすっかり吹き飛ばされ、代わりに好奇心が沸き上がってきている母親の様子に気づくと直ぐに名刺を渡してその場を一旦離れることにした。大谷が車に戻りキーを差し込もうとした時、その前で立ち話をしている女性達が目に入った。刑事の勘というのだろうか、大谷は何気なく窓を全開にしてその会話に耳を傾けた。

「今朝のバイクの音、凄かったわね。あの音で飛び起きちゃったわよ」

「そうそう、確か六時頃だったわよね?私は子供と旦那のお弁当作ろうとして、いきなりあんな大きな音をたてるから危うく折角作ったお弁当をひっくり返すところだったわよ」

「あまりに腹立たしいんでカーテンを開けて見てみたの。そうしたらさ、向かいの家の洋子ちゃんが・・・」

「洋子」という言葉を耳にした大谷は車を降りて警察手帳を見せながらその会話に割って入った。

「そのバイクのこと、もうちょっと詳しく話して頂けますか?」


 男はここ二日ばかり自宅の地下室に入り浸りだった。半世紀前のウッドデスクの上にはノートパソコンがポツンと置いてあり、画面にはニュース番組が映し出されている。男はその様子を見ながらスナック菓子を(せわ)しなく頬張り、押し寄せる睡魔と戦っていた。目の下には深いくまができプックリと腫れ上がり口元には無精ひげが目につく。男が座るデスクの正面にはガラスでできた間仕切りがあり、その向こうには長さ二メートル程のアクリル性の検死台が見える。その中心には五十センチ平方の白い布が掛けられていた。その部屋に入るには側面に設置されたミストシャワールームを通らねばならない。

 腕時計のアラームが鳴ると男は重い腰を上げた。シャワールームの横に掛かっている感染防護服を手に取り、今着ている服のまま防護服の中に入る。袖部分をマジックテープでしっかりと止めてヘルメットを装着し電源を入れるとエアーが防護服内に流れ出した。ヘルメットの中は酸素を送り続けるプロペラが回る音で外部の音が完全に遮断され平衡感覚(へいこうかんかく)を保てず、宇宙飛行士のようにゆっくりとした動作にならざるを得ない。男は最後にゴアテックス製の手袋を装着しそのままシャワー室に入ると自動的にミスト状の消毒薬が全身に降り注ぎ、その後背部からの強いエアーがへばりつく水滴を吹き飛ばした。

 シャワー室を出ると男はすぐ横にあるアクリル製の業務用冷凍庫の前に立った。マイナス五十度でマグロの刺身も長期間保存が利く高性能型である。扉を開けるとシャーレーが一つポツンと顔を(のぞ)かしていた。シャーレーの中心部には白濁色(はくだくしょく)の物体が半凍結の状態で保存されている。内部層は赤みがかっており、イチゴシャーベットを練乳でコーティングした棒アイスの様子に似ている。男は慎重にシャーレーを冷凍庫から取り出すとそのまま検死台の上に置いた。検死台の上には液化窒素の入ったデュワー瓶ともう一つのシャーレー、そして水色のコンテイナーが並べられていた。こちらのシャーレーは上蓋(うわぶた)(かぶ)せられ、常温で(しばら)く放置されているためか解凍が進み、中心にある物質の真の姿が(あらわ)になっている。それは薄くスライスされた肉片であった。男は慎重に長めの綿棒で肉片の表面を(こす)った後、微量の水の入った試験管の中に入れて掻き混ぜた。そしてスポイトで注意深く吸引し、透過型電子顕微鏡のガラスに液摘(えきてき)した。男はその上にグリットを浮かばせて染料であるモリブデンを使ったネガティブ染色によりウィルスの増殖具合を確認している。

 通常、ウィルスは冷凍された場合でも生き続けるが、一度解凍するとその際にウィルスの蛋白(たんぱく)が破壊され、それを繰返すことにより不活性化し感染力はなくなると言われている。ただこのエボラウィルスを死滅させるには長時間の放射線の放射、数ヶ月のホルマリン漬けそして数十年の冷凍を要すといわれている。男はここ数日完全冷凍ととなる寸前の状態からの解凍、そして再び冷凍への作業を何度も繰返していた。肉片は病院で患者から切除した部位の一部を拝借したものだ。融解が進むにしたがってウィルスは活動を再開し、肉片の細胞に寄生し増殖を始める。これらの作業を繰返すことで平常時の増殖スピードを上げ、媒体とする肉片をヒトとすることによりヒトへの感染力を高めることが男の狙いだ。そして男はこのウィルスに更なる進化を求めている。それは危機的状況下における細胞壁の形成、つまり細胞壁を持たないウィルスが危険を察知した場合に自らの蛋白(たんぱく)質を使って外部からの危険を防ぐための細胞壁を形成するという変異である。

 男は電子顕微鏡でウィルスが増殖していることを確認すると青いコンテイナーの蓋を開けた。中には今朝採取した自身の血液が入っている血液バッグが保冷剤と共に入っている。男はその血液バッグから少量の血液を採取して試験管に移すと再び長い綿棒を突っ込み、血液を十分に吸収させた後、解凍されたシャーレーの肉片にそれを(こす)りつけ、再び冷凍庫の中に閉まった。自らのDNAをウィルスに付着させることにより、このDNAと接触した場合に冷凍され増殖活動が止まる事を覚えさせる。したがってもしこれが成功すれば、男はこのウィルスに感染することは不可能となる。なぜならば細胞壁を形成させた時点で接触した細胞への寄生が遮断されるからである。男が今創り出そうとする新種のエボラウィルスはヒトへの感染力を増し、厳しい環境に耐え抜く細胞壁を瞬時に創り出し、そして男には決して感染しないものであった。

 男は先に冷凍庫から出したシャーレーに上蓋(うわぶた)(かぶ)せると再びシャワー室の中に入って行った。


 五反田界隈(かいわい)のラブホテルから女性がホテルの一室で裸で血を流して死んでいるという一報が大崎警察署に入ったのは午後三時を回った頃であった。出血死による現場検証は全て感染防護服を(まと)った検視官が行なうよう通達が各警察署に対して事前に流れていた。二次的感染防ぐためである。そして死亡者の顔写真が感染被疑者リストに載っていたことから駆けつけた警察官はそのまま本庁に連絡し、感染の拡大を未然に防ぐことができた。

死亡した洋子の家族には、大谷が連絡を入れた。母親は泣きながら娘に会わせて欲しいと懇願したが、大谷はこれを拒否し、このまま警察側で火葬して家に届ける旨を説明した。

 「警察がそんなことを行なう権利なんてないに決まっているでしょ。何で親が最後に娘の顔を見ることができないの?ちゃんと説明してちょうだい、ちゃんと。それが出来ないのなら訴えてやるわ」

 母親の想いは悲しみを通り過ぎ、その矛先は警察組織そして大谷への怒りに変わった。

 「確か、貴方大谷さんと言ったわよね。もし警察がそんなことをしたら私達残された家族は絶対に貴方を許さない。どんな事があっても貴方に償ってもらいますから」母親は一方的に捲くし立てると受話器を切った。

 「課長、会話録音しましたので、本庁へこれのフォローをお願いしますね。おそらく弁護士やマスコミが動き始めると思うので。私は暫くこっちに来ませんので対応お願いします」

 「あぁ、任せろ。お前はこれからどうするんだ、洋子の当日の足取りを追うのか?」

 「えぇ、間に合うどうかわかりませんが、男の方を当たってみます。職場では洋子のホスト通いが噂になっていましたので、まずはその線から。携帯の履歴とバイク使用者という点と併せながら絞っていくつもりです」大谷は頭を掻きながら辻村に言った。これにより麹町警察署の捜査一課は山藤と大谷を欠いたことになる。辻村は苦渋(くじゅう)の表情を見せた。それと同時に辻村のデスクの電話が鳴り響いた。

 「はい、捜査一課、辻村ですが」

外線電話だった。辻村の顔がみるみる青くなっていく。三十秒間くらい一言も発することなく、受話器を置いた。辻村らしくない。

 「課長、どうかしましたか?」大谷が心配して尋ねた。

 「あぁ、本庁からだ。少し前に成田で隔離されている山藤が死んだそうだ。発症して三日も持たないなんて俺は聞いてないぞ。」

 辻村は目頭(めがしら)に手をやった。「あの馬鹿、爪を噛む癖さえ止めていれば、こんなことにならずにすんだんだ」

 大谷は呆然(ぼうぜん)と立ったまま辻村の頬から涙が伝うのを見ていた。

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