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灰燼  作者: AFD
灰燼
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第三章 発症

一月二十三日、火曜日

千葉県柏市 科学警察研究所


 科捜研に持ち込まれた眼球はその日の午後七時には科警研(かけいけん)に移送されていた。十文字に切られた瞳の奥の部分に形質の異なるたんぱく質でできた物質が発見されたためである。その残骸は薬に使用されるカプセルに類似していたが、念のためその物質の特定と眼球の汚染状況を電子顕微鏡でチェックするために法化学第一部生物第五研究室に運ばれた。第五研究室ではすぐさまその分析にかかり、そこから導かれた結論にその場にいた全員が驚愕(きょうがく)した。

 科学警察研究所長の大西は午前三時に第一部長の石川から携帯で呼び出された。大西は身支度(みじたく)を整える間もなく眠い眼を擦りながらアシックスのジャージ姿でタクシーに乗り込んだ。寝癖はジョギング用のキャップでごまかしている。今回の呼び出しの真意について石川からは大至急の相談事項ということしか聞いていないが、電話の様子からかなり深刻な緊急事態が生じていることは容易に想像できた。

 研究所に到着すると大西はそのまま大会議室に通された。大会議室には研究所内のほぼ全員が集まっていたが、分析にあたった第五研究室の研究員達の姿はそこにはなかった。

 関係者が全員集まったことを確認した第五研究室長の川田が壇上に登り、(ようや)く重い口を開いて説明をはじめた。石川は壇上前の席に着席しているがその表情は硬い。

 「昨日、国会議事堂正門前である事件がおこり、科捜研にその物の鑑定依頼がございました。事件といっても、麹町警察署では「悪質な悪戯」という事で処理を進めているため、本件については一切の報道などなされておりません。その物というのは獣、実際のところ大型犬の眼球です」

 大西は目を閉じてじっと川田の説明を聞いていた。「犬の眼球」という言葉に大半の者がざわめき、懸念と戸惑いの表情を浮べて川田を見つめた。

 「科捜研からのこちらに移された経緯はこの際省略しますが、その眼球の瞳部分は十文字に切られ、透明なセロファンテープのようなもので上から貼られていました。電子顕微鏡を使って部位を観察したところ、大きさからして五百ナノメーター程の無数のヒモ状のウィルスが検出されました。」

 周囲のざわめきはどよめきへと変わり、今まで目を閉じていた大西もいつの間にか壇上の川田に訝しげに視線を注いでいる。川田はそれを確認して後を続けた。

 「核酸の種類と発現様式から第五群のモノネガウィルス目と思われます。その特徴としましてはウィルスが眼球細胞を捕食しているということです」

 川田のこの言葉にノートをとり続けていた者は手を止め川田を見上げ、睡魔に屈し夢心地だった者達は一瞬にして現実の世界に引き戻された。大西は目を細めている。眼光鋭くそれはまるで獲物の動きを読みながら上空から狩りの瞬間を図る時の鷲の目のようであった。視線を反らしてしまいたくなる程威圧的な視線だが川田はそれに屈することなく最後まで一気に(まく)り上げた。

 「現在その映像をアトランタのCDCへ送ってウィルスの特定を急いでおりますが、状況が状況だけに可能な限り早くこのウィルスの特定を行なわなければなりません。この場でここにお集まりの皆さんにお願いしたいのは、本件を感染研(かんそうけん)戸山庁舎(とやまちょうしゃ)に移送し、一刻も早くウィルスの特定を行うことについての決議を行なって頂きたいということです」

 感染研の戸山庁舎は国内唯一のレベル4病原体の取扱いが認められている研究機関であるが、これを行なえばレベル4の疑いがあるウィルスが国内に発生した事を警視庁、防衛庁又はその他の関係省庁に正式に通達しなければならない。更に今回はウィルスの自然発生ではなく何者かが故意にこのウィルスを生物兵器として使用したという意味で、もしこれが真実であれば地下鉄サリン事件以上の無差別殺人へ発展する「有事」として取り扱われる可能性が高い。

 会議室内の空調機の低いうなり声だけがが静まりかえった室内に(とどろ)き、そこにいる全員がこれからこの身に降りかかるであろう先の読めないに恐怖に戸惑いを感じている。

 「ほ、捕食だと。そんな馬鹿な。エボラかマールブルグとでもいうのか?いったい外部からそのようなウイルスをどうやって持ち込み、どうやって犬の目玉なんかで増殖させたというんだ。そんな事ができる奴など世界中のどこにもいるはずがないだろう」

 それを認めたくない者の一人がついに沈黙を破り、顔を引き()らせながら川田を責め立てた。

 細胞への捕食行為はエボラウィルスの特徴の一つであり、ここにいる誰もがザイールで再発した時の状況が頭を過ぎった。エリア封鎖による絶対的隔離、それに従わない者への銃殺指令、そして隔離された者達の末期に訪れる壮絶な死に方も。

 「私はあくまで分析の結果を正直に申し上げたまでです。その背景にある客観的な推論は一切含んでおりません。そして私はエボラともマールブルグとも申しておりません。第三の新種ということも考えられます。だから早急な特定が必要だと申し上げているのです」

 川田は腕時計に目をやった。時計の針は午前五時を差していた。窓の外はまだ暗く朝というにはあまりにも早計だがそろそろ結論を出さなければならなかった。

 「今回の分析にあたった部下三名は、万一の場合に備えて隔離しています。電子顕微鏡での分析に際して十分な防護を施しましたが、彼らの報告によると科捜研からの受渡し状況は十分な管理を施した状況と言えなかったようです。もしこのウィルスが周知のレベル4ウィルスであったとすれば事件発生からここに至るまでの間に既に感染が広がっている可能性があります。また周知のレベル4ウィルスであった場合には空気感染はありえませんので、ここにいる方全員感染にさらされることはありません。もちろんそれが新種であった場合にはそう断言できませんが」

 「君はそれを承知でここに関係者全員集めたということか?」

大西が漸く口を開いた。川田は口を真一文字に締め直し(うなず)いた。その目から読み取れるのは「決意」ではなく「覚悟」であった。この情報をもし書簡やメールで通達したら、何とか自分だけでもと海外へ逃亡する輩がかならず出てくる。その結果、この状況を解決する可能性を有す唯一の国家機関であるこの科学警察研究所は組織的に崩壊してしまう。そうなればこの国は終わりだ。そうさせないためにも例え自分が恨まれようが、後に殺されようがここにいる全員を同じ船に乗せて解決に向けて全力を尽くさねばならない。それが川田の「覚悟」であった。

 ここにいる関係者の何人かは席を立ち非難と罵声を川田に浴びせた。手元の飲みかけのペットボトルや筆記用具を川田に投げつけた者もいた。その渦中で大西は川田が立つ壇上にむかってゆっくりと歩き出した。そこにいる全員が大西の動きに注目した。壇上で大西は川田と肩を並べるとその場にいる全員に向かって言い放った。

 「決議など行なう必要はない。これは決定である。早々に移送の手配を行なう。我々もここで隔離されることとなるであろう。もはや個人がどうのというレベルの問題ではない。この国、そして我々の家族を守るためにも君達の協力が必要不可欠となる」

 川田は大西に深々と頭を下げた。緊張の糸がプツンと切れて感情が抑えられなくなった。再び顔を上げたときには涙が止め処なく溢れ出していた。それは組織の崩壊を事前に阻止できたという喜びとこれから自分達に訪れるかもしれない壮絶な死の恐怖からくる涙であった。


 梶原は重い瞼をそっと開けてみた。天井がグルグルと揺らいでいる。そして徐々に意識が回復していく。新橋で飯田と焼肉屋で午後の七時から飲み始め、スナックを二件梯子したところまでは記憶にあった。どうやって家に帰ってきたのか記憶が全くない。再び睡魔が襲い、目覚めかけた意識を再び深い淵に引きずり込もうとする。瞼は徐々に閉ざされていく。完全に閉じるその瞬間に梶原は気付いた。こんな天井には見覚えがない。不安が梶原の意識を再び覚醒させた。ゆっくりと顔を横を向けると浅い寝息を立てている女の後ろ姿が見えた。背中は素肌を露にして何かを身にまとっているようには見えない。深酒で激しく押し寄せる頭痛に耐えながら上半身を起こしてみる。そこには生まれたままの自分と相手の姿があった。

 現実か夢かまだ確信が未だ持てない梶原はベッドを出てみた。まだ酩酊状態(めいていじょうたい)にあるためか体がやたらに重く感じた。お互いの服が真っ赤なカーペットの上に散乱している。部屋に不相応な大型テレビ、冷蔵庫、ゲーム機、そして透けガラスの向こうにある浴槽からここはラブホテルであると確信した。

 不意にスーッと鼻から水がたれてきた。ベッドの横にあるティッシュをニ、三度と摘み上げた。鼻をかもうと下を向いた時、胸に血がついているのが見えた。鼻水ではなく鼻血だった。

 「記憶はないんだけどね、何でだろう」梶原は心の中で呟いた。

鼻血を流してニヤついた顔を見られまいと女が起こさないようにそっとティッシュを鼻に当てる。鼻血はすぐにティッシュを真っ赤に染めた。それだけでなく行き場を失った血が喉へ流れ出した。()びた味に梶原は咽て咳き込んだ。その拍子にティッシュが鼻から外れて赤いカーペットに滴り落ちた。口からも流れ出た血が咳と一緒に飛散(ひさん)した。梶原は今度はタオルで鼻を押さえたが一向に止まる気配がない。顔や胸や足元など至るところに鼻血がこびりついてる。頭痛が更にひどくなった気がした。梶原はベッドにそのまま頭をかかえて倒れこんだ。鼻からタオルが外れ血が再び鼻から流れ出しているのがわかった。意識がなくなる前に女を起こそうと目の前にある女の脹脛(ふくらはぎ)を力強く握った。

 強烈な痛みで女が飛び起きた。女は夢から覚めて何が起こったかわからなかった。痛みが走った左の脹脛(ふくらはぎ)に目をやると血がベットリとついているのがわかった。「ひっ」と怯えた声を発した。それと同時にどこからか男の唸る声が聞こえた。女は声のする反対側ベッドの下を覗き込んだ。そこには裸で血だらけの男が頭を抱えて(もだ)え苦しんでいた。先程までこのベッドの上で愛し合っていた男だった。女は悲鳴を上げた。何をどうしたらようのかも分からなかった。この男の名前さえも今となっては思い出せない。今日始めてスナックで出合った客だった。女は泣きながらロビーに電話をした。

ホテルに救急車が到着したのはそれから二十分後であった。ベッドの側のデジタル時計は一月二十三日午前五時を表示していた。

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