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灰燼  作者: AFD
灰燼
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第二章 神

一月二十三日、火曜日

東京都大田区羽田空港


 第一ターミナル内は正月の混雑程ではないが団体ツアーの観光客やサラリーマンで溢れていた。搭乗までの時間潰しのために喫茶店で時間を潰す者もいれば、ユニクロでのウインドーショッピングを楽しむ者もいる。国際線とは違って手に溢れんばかりの土産物(みやげもの)を持ちながら、場所をわきまえず大きな馬鹿笑いをするどこかの外国人観光客の姿が疎らな事が有難い。

 男は一階のコンビニエンスストアーにいた。カウンター横に立てられた朝日新聞を慣れた手つきで引き抜き、内ポケットに用意していた小銭と共に店員に渡した。紺色のスーツ、ワインレッドの無地のネクタイに黒のアタッシュケース、そして細く銀色に縁どられた眼鏡という男の風貌はこれから出張するサラリーマンの群れにしっかり溶け込んでいた。男は店員から釣銭を受け取るとズボンのポケットにそのまま突っ込んだ。歩く度にジャラリと小銭がぶつかり合う音がする。そんな音を気にする気配もなく男は北側のカフェに向かって歩調を速めた。

 店に入ると小柄で笑顔が板についたウェイトレスが男を奥の席へと案内しようとした。男は動こうとはせず、振り向いたウェイトレスに入り口近くの窓側のテーブル席を指差し「ここでいいか?」と無言で尋ねた。そのジェスチャーと共に男は顔を少し斜めに傾けてみた。そうするだけでも相手の心証はガラリと変わる。横柄な態度には見えない。ウェイトレスは「どうぞ。大丈夫ですよ」と微笑みながらメニューを指定されたテーブルに置いた。

 昨日の夕方から食事らしい食事は摂っていない。冷蔵庫にあったピザの残りと気が抜けて甘くなったコカコーラゼロだけで十五時間以上もたせている。男は注文したモーニングセットがトレーに乗ってテーブルに置かれるまでの間、ゆっくりと新聞に目を通すことにした。

 まずは一面からだ。株価が上がろうが内閣の支持率が下がろうがどうでもよいである。しかし今日ばかりはあくまでサラリーマンに成りきらなければならない。この前スーツを着たのはいつであっただろうか。背広が胸板をピッタリと覆い息苦しさを感じる。久しぶりの嫌悪感だ。そう、遥か昔、まだ熱く夢を語っていたあの頃以来の感覚だ。男は逸る気持ちを抑えながら順番にページをめくっていった。そして最後の一枚を念入り隅々までに読み終えた後、男は目を閉ざし、微かにそして細く息を吐いた。思った通り、昨日の一件がまだ表沙汰にはなっていないようだ。

 テーブルの上の準備が全て整った時には午前十時を回っていた。今日のタイムリミットは二時間後である。男は厚めのトーストととろみがかったスクランブルエッグを味わいながらこまめに店の奥の掛時計に目をやった。その様子は傍から見れば飛行機の搭乗時間を気にするサラリーマンとしか見えず、怪しむ者など誰もいない。

 この店は獲物を見つけるには絶好の場所であった。そして今回の狩場も既に決めてある。窓ガラスの向こうに見えるトイレの中だ。唯一不安な点があるとしたらそのタイミングだけだ。決められた時間以内に捕食できなければこちらが危ない。トイレに向かう通路の右上には監視カメラがある。だから通路の右側から後姿で画面に入り、出る時は誰かの後ろに隠れて出るようにしなければならない。変装はしているがまだこの段階で顔を出す訳にはいかない。例えそれが変装した自分の顔であったとしてもだ。自分と似た風貌の男がトイレに入るのを待つ。そしてその後に自分もそれに続く。どちらか特定されないように、捜査を撹乱(かくらん)させるためだ。獲物を見つけて勘定を済まし、向かいのトイレに入るまで早くとも二分はかかる。そしてトイレの中は可能な限り少人数であることが絶対条件だ。

 男は何気なくガラスに映る自分の顔を見つめた。この似合わないカツラに眼鏡、髭、そして鼻の横に付け足したホクロも何もかも好きになれない。だから良いのだ。この格好をすることなどこれが最初で最後になるのだから。男はアタッシュケースからそっとオペ用の薄いゴム手袋を取り出し、背広の外ポケットに入れた。内ポケットには例のポーチを忍ばしてある。昨日使った物と同じ物であった。あとニ時間を過ぎると「あいつ」が目覚めてカプセル内で暴れ始める。結局今回も水風船に頼らざるを得ない。芸がないが、これが一番安全だ。今回は即効性を確かめるためのデータとして極めて重要だ。上手くいけば・・・・。

 ちょうどその光景を思い描いていた時、理想の獲物がトイレの中へ入って行った。背格好も持っているアタッシュケースも男のそれに近い。男は先程ポケットに突っ込んだ小銭を掬い上げ、テーブルの上に置かれた伝票を摘んでレジに向かった。幸いにもレジ待ちしている客はいない。男は直ぐに勘定を済ませて通路の右側から監視カメラをバックにトイレに入った。

 トイレには先に入った男以外誰もいなかった。「度重なるこの幸運は神からの贈り物か・・・」男はそう思いながら周りを再び見渡した。小便している獲物に向かいながらゴム手袋を()める。男はちょうど獲物の後ろを通過する時に素早く両側の頚動脈を押さえて気絶させ、洋式便座のある個室へなだれ込み、そして鍵を掛けた。素早くアタッシュケースを開けて数本のロープを取り出す。こいつで気絶している獲物の動きを完全に封じ込む。そして内ポケットから用意してあったポーチを取り出した。今回は仕掛け針はついていない。男はそっとジッパーを引いて水風船をゆっくり取り出す。中には昨日使った目玉の片方が漂っている。瞳部分には昨日と同様に十文字の切り目が入れられ、やはりテープで止められていた。男は今回この水風船を直接男の口元に押し当てガムテープで顔中グルグル巻きにした。わずかに呼吸が出来る程度に鼻の部分は残しておく。男は獲物を四つん這いにさせ、頭部を便器に突っ込ませた。両手は後ろで、両足も互いに密着した状態でロープで巻かれているので目覚めたとしても唸ることは出来るが動くことはできない状態となる。そう、後ろから見ると便器に嘔吐しているようにしか見えない。ロープに巻かれていることを覗いては。

 男は獲物の足がドアの開閉をブロックするようにしながら慎重に個室を出た。内開きのドアであることに感謝した。鍵が掛けられないので使用中のサインは外へ知らせしめることはできないが、例え第三者がそれに気付かずドアを内側に開こうとしても獲物の足が引っ掛かり開くことはできない。そして「嘔吐している」というカモフラージュはその場を目にしたくないという心理的作用を見る側の意識に描写させる。その結果、その第三者は碌にその状況を把握せず、その場を離れ別の個室を探すことになる。獲物の意識が回復するまでは五分程度はかかると男は考えていた。それまでの間にトイレから脱出する「壁」が入ってくるのを待つ。洗面所の鏡の前に立つ前に男は両手の手袋を外しアタッシュケースの中に放り込んだ。鏡の前で髪型を気にするようにしながら時を待つ。一分、二分、三分が経過した。

 用を足したばかりのガッチリとした白人が洗面台で男の隣に立った時にこいつを「壁」にすることに決めた。真冬というのにTシャツ姿で二の腕には十字架に尻尾を巻きつけた龍の刺青がノーカラーで彫られていた。余程寒さに強い龍なのだろうと男は鼻で笑った。トイレから出る「壁」の後ろから一メートルに張り付く。「壁」がトイレを出て右に行くか左に行くかを見極めることが重要だ。右に曲がるのであれば曲がる寸前に内側へもぐって「壁」の前に出ることで監視カメラの視界に入らない可能性が高い。ただもし左に曲がった場合には下手をすればカメラに顔が映ることになる。頭を下げ、状態を低くした格好で、しかもこの「壁」にもう少し近づいて通路の壁側を歩かなければならない。アタッシュケースで顔を隠そうとすれば周りから不審な目で見られてしまう。男の鼓動が高鳴る。サッカーのゴールキーパーの心境だった。早くどちらに曲がるか教えてくれ。

 「右だ。右に曲がれ!神よ、彼を右へ誘え!」と男は心の中で神に祈った。「壁」は男のその想いに操られるがごとくゆっくりと右に曲がった。男はその瞬間素早く内側に潜り込み、白人の前に出た。男は「壁」をちらっと見て「THANKS」と小声で礼を言った。「壁」は一瞬立ち止まり、不思議な表情を浮かべた。男の感謝の言葉は「壁」となった白人に対するものであると共に、男の行為を容認した「神」に対するものでもあった。カメラに写らなかったことを確信した男はそのまま京浜急行線のりばに向かい姿を消した。


 十分後、トイレには十数人の警察署員と救命士が殺到した。頭部がガムテープでグルグル巻きにされ、口元はビショビショに濡れていた。男は息遣いが荒く酸欠状態だったが意識は完全に回復していた。救命士達が慎重にガムテープを剥がしていく。髪の毛にしっかり粘着したため、毛ごとハサミで切っていく。それと同時に口元のガムテープも剥がしにかかる。救命士達のほとんどが口元のガムテープの形状がおかしい事に気付いていた。口の部分だけ不自然にポッコリと何か密着しているようであった。何重と巻きついていたガムテープが左耳下からハサミで切り離された。ゆっくりと右耳へ向かってそれらをめくり上げるように剥がしていく。丁度中心の口部分まで剥がした時、その救命士は小さな悲鳴を上げた。男の唇は何かを包んでいる。不自然なモノ、そのモノからは朱色の無数の小さな管が見える。一人の救命士がそっとそれを唇から摘み上げた。そのモノが男を睨んだ。十文字に切られた瞳が目先十センチの近距離から男を見下ろした。男の表情から一気に血の気が失せ、涙が滲み出る間もなくもんどり打って嘔吐した。吐きながら、やっとのことで男は口にした。

 「く、くるしかったんだ。何か、あるなってわかっていたけど・・・だ、だからそいつが邪魔で・・歯で噛んだ。そしたら破けて・・・水が出て・・・少し飲んじゃったよ・・・どうしよう」

 男は涙を流しながら呆然と彼を見つめる救命士や警官に訴えた。そして何度も指を喉に突っ込んで飲んでしまった水を吐こうとした。水は出ないが、流れ落ちる涙は徐々に床を濡らしていく。そんな彼を見て救命士の誰かが言った。

 「神でも誰でいいから、彼を救ってやってくれ。あまりにも(むご)すぎる」






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