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灰燼  作者: AFD
灰燼
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第一章 水風船

一月二十二日、月曜日

東京都千代田区国会議事堂前


 昨夜まで降り続いた季節外れの豪雨は乾いた枝葉を叩き落し、道端(みちばた)に足跡を残して去っていった。見上げると雲一つない澄み渡った青空が一面を覆いつくし、羽休(はねやす)みから解放されたムクドリ達が朝からエサを求めて忙しなく飛び回っている。視界に広がるその清清しさとは裏腹に肌寒さは一段と増し、誰もが背中を丸めながら暖かいオフィスに向かって交差点を足早に通り過ぎてゆく。その人ごみに紛れて男は(かじか)んだ両手で口元を覆いながら信号が変わるのを待っていた。吐息で曇った眼鏡の僅かな隙間を通して男の視線は通りの向こうに聳え立つ国会議事堂を捕らえている。正門付近には数名の衛視が立硝しているがここからは遠すぎて表情まではわからない。ただ男はここ数ヶ月間の下調べであの若者が今日どの位置に立つかの見当はついていた。信号が青に変わると男はヤンキースの帽子を目深く被り、ネイビーブルーのパイロットジャンパーの内ポケットから取り出した黒の皮手袋をはめながら議事堂正門まで続く長い歩道を歩き始めた。側面に広がる広葉樹は冬の寒さに朽ち果てることなく緑を彩り、男を正門までエスコートする。あと二十メートル程というところで男は立ち止まり、一人の若い衛視のいる方を向いた。何かを話しかける素振りもなく、またそれ以上近づく気配もない。ただその場に静かに立ち竦んでいる。

 男の異様な動きに気付いた衛視は(いぶか)しげに男に歩み寄ってきた。

「どうかされましたか?」

「すみません。この辺りにメキシコ大使館があるはずなのですが」

 男は肩をすぼめて衛視に尋ねた。声は小さく聞き取りづらい。

「メキシコ大使館ですか。それだったらこの道の突き当たりを左に曲がって、この国会議事堂の真後ろの道を通ると参議院会館がありましてね、その建物の後が日比谷高校でして、その付近にありますよ」

 衛視はここから幾分距離があったため要所を伝えるだけの分かりづらい説明となってしまった事に対して心の中で自らを戒めた。しかし男は感謝の意を表すこともなく、また更なる説明を求める訳でもなくただ彼の前で先程と同じように黙って立ち去る素振りはない。

 何なんだこいつは?衛視はゴクリと唾を飲み込み、男の表情をそっと覗き込んだ。目元が帽子の(つば)に隠れてよくわからない。この薄気味悪い男の前から一刻も早く離れたいと思ったその若い衛視は、気まずい雰囲気を残しながらも持ち場に戻るべく男に背を向けた。

「あぁ、そういえばこんなものが表通りの交差点のところに落ちていましたよ」

 男はそう言って背後から衛視の手を掴み、ジャンバーの裏からドット柄のポーチを取り出して手に握らせると参議院会館へ向かう道へと走り去った。

 突然の出来事で不意をつかれた衛視は、手渡されたポーチと去り行く男の後姿を交互に目をやりながら立ち竦むしかなかった。衛視の名前は梶原祐樹、一昨年度に衆議院衛視の国家試験をパスして今年から正門の警備の配属となったばかりであった。管轄外で受け渡された女性用のポーチ。ドットは若い女性が好みそうなピンク色である。梶原は後で班長に相談して必要であれば交番でも警察署でも届ければよいと自分に言い聞かせて辺りを見渡した。幸いにも五十メートルほど先に班長の飯田の姿が見える。後ろに手を組んで正面を向いたままの状態なので自分と男のやり取りには気づいた様子ではない。彼はポーチを利き手の右手に持ち替えて、飯田のもとへと歩き始めた。

 ポーチの握る掌から伝わる感触に違和感を覚えるまでそれほど時間が経たなかった。中に入っている物は表面が硬いガラスやプラスチックでできた化粧品のコンテイナーでもハンカチやティッシュといった柔らかい素材のものでもない。触った感じはボールのようであった。内側にやさしく力をかけてみると反発させる力が働き、それと共ににビニールの(こす)れる音が聞こえた。いつしか彼の歩調はゆっくりとなり、飯田の十メートル程前で足を止めた。彼はあの男がこれを自分に握らせた時の言葉を思い返していた。表通りの交差点で拾ったといった。男が言った交差点がもし「国会前」の交差点であれば、直ぐ後ろには警視庁がある。気さくに入れる門構えではないが、拾得物の情報手配は警察本部が行なっているから仮にあの男が警視庁に赴いたとして、そこで落し主を探してくれといえば対応した警察官はそれを拒むことはできないはず。そしてその時にメキシコ大使館への行き方を聞けば良いではないか、警察官は地図を見せながらメキシコ大使館までの道のりを説明することだってできる。それが何故自分に渡されたのであろうか。梶原はしばらくの間手の中のポーチを見つめていた。相変わらず右手の感覚は何らかの危険を察知しシグナルを中枢神経に送り続けている。あの薄気味悪い男のせいであろう。ただこのまま班長や警察に渡してしまえば一生このポーチの中身を知ることはできない。見た目では自分と同世代の女性が好んで使っていそうな真新しいポーチである。中身はボールのようだし、その中に想像を絶するものなど入っているわけがないではないか、サスペンス映画ではあるまいし。梶原は深くため息をついた後、銀色のジッパーを摘みゆっくりと開き始めた。半分まで開いたところで半透明のビニールに包まれている球体が見えた。はっきりとは見えないがその模様には見覚えがあった。小さい頃によく縁日で買った水風船だ。その安堵から梶原は最後まで一気にジッパーを開いた。


 麹町警察署に一報が入ったのは午前十時を少し回ったところであった。国会議事堂の衛視が落し物として受け渡されたポーチの中に眼球らしきものが入っていたとの連絡が入り、それは既に鑑識に回されている。議事堂内で一課の山藤がその時の状況を衛視から聴取したが、ポーチを預けた男の容姿については帽子やジャンパーの色、背は一七〇センチくらいでおそらく日本人ということ以外はわからないとのことであった。ただ気になるのはその眼球はビニールで包まれた水風船の中に入っていて、ポーチの裏側に仕込まれた短い針がジッパーを最後まで引くとビニールと水風船を突き破るといった手の込んだ仕掛けとなっていた点である。衛視は水風船が割れた際に手の裾が濡れる程度で済んだが、悪戯(いたずら)にしては性質が悪く、課長の辻村は鑑識の結果を手薬煉(てぐすね)引いて待っていた。

「山藤、男の目撃証言はどうなってる。参議院会館の方に走って行ったんだろ?」

 辻村は禁煙中のパイポを前歯で噛みしめながら苛立たしげに山藤にいった。山藤は別の事件の調査書の作成のため事情聴取から戻った後ずっとパソコンに噛りついている。画面を見ながら親指の爪を噛む姿が辻村の苛立ちに拍車をかけたことは山藤にはわかるはずもない。

「今、大谷さんが聞き込みしていますが、まだ報告は入っていません」

「目玉が人様のもんだったら本庁と合同捜査になる可能性がある。場所が場所だからな。お前もぼさっとしてないで聞き込みにあたれ。鑑識からの結果は俺が直接受ける」

 山藤の動きが一瞬止まったが「了解」と返事をすると椅子にかけていた紺色の背広を掴み、辻村を一瞥し一課を後にした。昨今のピリッとしない部下の行動が目下、辻村の頭痛の種である。もはや咥えたパイポの先は前歯で押し固められ吸う役目を果たしていない。()らず手元のマグカップに残ったぬるいコーヒーを一気に飲み干した時、内線の着信ランプが赤く光った。鑑識課の谷田部の文字がディスプレイに表示されている。


「どうだった?結果は」受話器を取るなり辻村はいきなり本題に入った。朝の挨拶などもう何年もしていない。口にするのは帰りの「お疲れさん」の一言だけだ。

「結論から言うとヒトの眼球ではありませんでした。多分イヌか何かだと思います。大きさからして大型犬と推定されますが」

「なんだ、イヌか。そりゃよかった。こっちも色々とヤマを抱えちまって、こんな時にまたわけの分からんもんを抱えたらみんなパンクしちまうところだ」辻村は目尻を緩ませた。

「ただ一応その眼球を科捜研でも調べてもらうことにしました。眼球は人間の眼球ではありませんでしたが」谷田部は一呼吸おいて説明を加えた。

「丁度瞳の部分に十文字にニセンチくらいの切り目が入れられていました。そしてその切り目を覆う形でセロハンテープのようなものが貼られていました。悪戯なのか何なのかわかりませんが、ここではそれ以上の分析はできないので」

「ポーチから指紋は男の指紋は出たのか?」

「いいえ残念ながら指紋は検出できませんでした」

「そうか、ご苦労。まぁ人間の目玉ではなかったんだから取りあえずは一安心だな。結果が分かり次第また連絡頼む」

 辻村は受話器を置くと飲み干したはずのマグカップを再び口にして悪態をついた。それは空になっていたマグカップに対してではなく、十文字の切れ目という意味不明な行為への苛立ちからくるものであった。


 事情聴取を終えた梶原は濡れた袖口を気にしながら事務室を出た。足取りは重く、わざわざ着替える程でもないが素肌に濡れたシャツが纏わりつく感触が気になり何度もハンカチで袖口を(ぬぐ)う。警察が完全に引き上げるまで残っていたために時間は既に正午を回っていた。その不快感は未だ消え失せないでいる。梶原は持ち場に戻る途中で内ポケットから一枚の名刺を取り出した。現場に最初に到着した刑事と名刺交換をした際に受け取ったものである。名刺には麹町警察署 捜査第一課 山藤健太と記されていた。男の特徴について何度も同じ事を聞くこの刑事の顔が目に浮かんだ。自分とあまり変わらない年格好だが、最後の方はまるで自分を犯人と見立てて尋問しているような口ぶりであった。こちらがよくわからないと返事をする度に苛立って人前で平気で爪を噛む。その姿を思い出して梶原は心の中で何度もその男の顔面にパンチを繰り出した。自分も院内警察権を有す身であることは最初に渡した時に見ればわかる事であろう。そんなことも知らない無知な刑事の名刺などには用はない。梶原はそれをぐしゃりと握りつぶすと自動販売機横の空き缶入れにそっと捨てた。

「やっと戻ってきたか。災難だったな」

班長の飯田が声をかけて歩み寄ってきた。労いの言葉とは裏腹に梶原を見る目は好奇心で満ち溢れている。今直ぐにでも詳細を聞きたいという気持ちをぐっとこらえているようだ。

「本当に最悪の日ですよ、こんなことになるなんで。おまけに昼飯を食う時間もなくなりましたし」

梶原は肩をすぼめた。ただ本当の災難はポーチの中に入っていた目玉でもまた無知な刑事に聴取を受けたことでもなく、むしろこの後に自分に降り掛かる事態である。あの時に自分を抑えられなかった事、その情けなさが梶原の後悔の念に拍車をかける。落し物、しかも女性が使うポーチの中身をこっそり見ようとしたことはあと数日もすればここで働く皆の耳に入るであろう。「エロ衛視」、「変態衛視」、「変質者」といったレッテルを貼られ噂が広まることは時間の問題である。ここにいる限りその噂は後々になっても忘れ去られることはないであろう。そう思うと梶原は昼飯など食べる気にはなれず、このまま逃げ出したかった。そしてここに戻りたくはなかった。戻るぐらいならまだ山藤の不愉快な事情聴取につき合った方がましだった。時間が遅くなったのもそのためである。

「梶原、今日一杯付き合えよ。奢ってやるから」

飯田はタバコのヤニで汚れた八重歯を見せニヤリとしながら梶原に言った。はじめからそれを伝えるために飯田は近づいてきたのだろうか。梶原は一瞬表情を曇らしたが、それを拒む気力さえも残っていなかった。「6時半に四ツ谷の改札口」という言葉を残して去っていった飯田の後姿を見ながら、やはり他人の災いをつまみに酒を飲もうとするこの男にに開けさせるべきであったと梶原は天を仰いだ。未だ上空では風が強く吹いている。視界に飛び込んできた白雲があっという間に消え去り、また新しい雲がどこからかやってくる。梶原は今日という日がこの雲のように早く過ぎ去って欲しいと願うばかりであった。


 山藤は日比谷高校前に立つ大谷の横にシルバーのクラウンを止めるとドアのロックを解除した。

「お疲れ様です」車に乗り込む大谷に労いの言葉をかけながら出発前に署内の自動販売機で買っておいた缶コーヒーを背広のポケットから取り出して大谷に手渡す。

「今日も寒いね。こんな日に出かけたいと思う奴はそんなにいやしないよ」

コートを着たまま助手席に転がり込んできた大谷は受け取った缶コーヒーの蓋をすぐには開けず、両手で包んで(かじか)んだ指先を温めながら(つぶや)いた。

「メキシコ大使館の周りを中心に男の風貌の聞き込みをしたがそれらしい人物を目撃したという証言はひとつもなかった。おそらくそのまま溜池山王駅に向かって逃げたんだと思う。そうなると男の目的はあのポーチをあの場所で誰にか渡すってことになるかな。目玉が人のものじゃなかったんだから、単なる悪質な悪戯だとは思うが。まぁあの若い衛視への嫌がらせが目的だったという線も捨て切れないけどね。現に彼は水風船を割って濡れちゃったわけだから」

 大谷は訝しそうに通りを横切る通行人の容姿を見ながらこれまでの聞き込みの結果と自論を山藤に伝えた。

「そうですね。でも彼への怨恨(えんこん)が目的だったら普通はビショビショになる瞬間を見たいんじゃないですかね。大谷さんが言うようにそのまま地下鉄に駆け込んでしまったら、折角の楽しみを逸してしまいますよ」

 山藤はそう言っていつものように前歯で親指の爪を噛みながら大谷の反応を待った。我慢ならない後輩の態度に憤慨することもなく大谷は缶の蓋を開けてやっとコーヒーに口をつけた。目を閉じて頭の中を整理する。山藤の言ったことは最もである。しかし目撃者はいない。だから走り去った後、地下鉄かどこかに逃げ込んだと考えるべきであろう。そこで着替えた可能性は高い。ただその場合、あの衛視がポーチを開けるタイミングがわからない以上、着替えから戻ってきて高みの見物というわけにはいかなくなる。怨恨であれば尚更その瞬間を見逃さないような方法を採るはずだ。やはり無差別と考えるべきなのだろうか。では何で水風船なんてものにイヌの目玉なんてものを入れたんだ。そのまま目玉をビニールに包んでポーチに入れればそれだけでも驚くことは目に見えている。ボールみたいな違和感はその状態でも十分感じられるであろう、わざわざポーチに仕掛けをしてまで水風船を割らせて目玉を見せたかった理由がわからない。そしてあの十文字の意味も。

山藤への応えを見つけられないまま大谷は一気にコーヒーを飲み干した。

「そうだなぁ、俺は引き続き目撃証言を探すから、お前はあの梶原とかいう衛視の身辺をあたってくれ。今のところは俺達が遮二無二なって追う案件でもなさそうだが一応頼む」

 大谷はそう言うや否や車から降りてコートの襟を立てながら駅に向かう道を歩き始めた。

「だから怨恨じゃないって」

残された山藤は大谷の後ろ姿が小さくなるのを見ながらかぶりを振った。




 


 

 



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