その後②
婚姻の儀式の夜――綾羅は黄龍の通り名を貰う。
余りにも幸せな出来事の連続に、喜びと愛溢れる日々が始まる——かと思われたが、現実はそうではなかった。
黄龍妃として学ばねばならない事が目の前に山と積まれ、父に似て勉学嫌いな綾羅は相当な努力を強いられる事となる。その上、婚儀を終えると黄龍は政務の為、ほとんど姿を見せなくなった。
寂しがる程の余裕も無い程に忙しく、余計な事など考える隙も無いままに、日々が過ぎてゆく。
それでも、何とか雲上宮での日常にも慣れて来たある日、〝少しの間、独りにして欲しい〟とお付きの女官に懇願し、解放された綾羅は久々に寛いだ心持ちで散歩をしていた。
〝琅玕の森〟と言う名に相応しく、陽の光が翡翠を透かして降り注ぐように、美しく碧い光を帯びた空間をそぞろ歩く内に、ふと……気付いてしまった。
黄龍の通り名の、一字――〝華〟。
双子の兄、王華と共通する。
兄妹に名付けたのは母で、父は黄龍の通り名を知らないと言う。
黄龍と父は、かつて母を巡って凄まじい争いをしたという噂。
ただの噂だと思っていたけれど、やはり本当だった。
かつて父の館へ訪れた時の、黄龍の、母を見る目。
黄龍が母を特別に想っている事には気付いていた――だからこそ勝算がある、とも、思っていた。
黄龍が自分を選んだのは、母をまだ想っているから――直接聞いた訳ではないし、この先聞くつもりもない。
それでも良い。
黄龍が真に想っているのは母かもしれない。
それでも、愛しい黄龍の隣に居るのは自分だけ。
だから、〝華〟の字の事も考えない。
男神に付ける、良くある字の一つに過ぎない。
綾羅は知らぬ振りをする。
黄龍の愛が得られればそれで良い……例え真実ではなくても。
色々と一気に考え過ぎたせいか、豪奢な髪飾りが、衣が重い気がして、綾羅は泉の畔に蹲った。
これが心への負荷、というものかしら。
心の病、と言うものを、母から聞いて知ってはいた。
何だか体が熱くて、どこかが痛い……ような気がする。どこかは分からないけれど……心かしら?
こんな時、綾羅は目を閉じ心の糸を辿る……双子の兄に繋がる糸を。
何を考えているか、までは分からないが、遠く離れた兄の神気は元気そうで、綾羅は少し眉間の皺を緩めた。すうっと息を吸うと、記憶の中の狼の匂いが本当に香るようで心が落ち着く。
「綾羅?」
突然、そう、声を掛けられ、綾羅はゆっくりと顔を上げた。
お付きの男を伴った黄龍が、心配そうにこちらを窺っている。
が、その顔を見た途端、綾羅の心には喜びが満ちた。
「大事ないか?」
はぁい、と返事をして、綾羅はすっくと立ち上がった。しかし、その途端、目眩に襲われ、ふらついてしまう。
黄龍は素早い歩運びで綾羅の体に腕を伸ばし、しっかりと抱き留めた。
少し恥ずかしそうに、えへへ、と笑うその顔を眺めて、眉を顰める。
「顔色が……良くないな」
「綾羅はだいじょ……ん……」
突然、唇を塞がれ、綾羅は思わず小さく声を漏らした。何の躊躇いもない口付けに驚きながらも、目を閉じる。
二神きりの時でないとこんな事はしないのに、と、不思議に思う綾羅であったが、黄龍の身から直接、神力が潤沢に注ぎ込まれ、ああ、そうか、と腑に落ちる。
口付けと言うより、これは治療ね。
身の内に心地よい力の流れを感じ、綾羅の体から自然と力が抜けた。やはり疲れていたようで、重苦しかった体が軽くなってゆくのを感じる。
黄龍の神力がすっかり身の内を満たした筈……なのに、まだ足りないような気がして、綾羅は目を開けた。
同時に黄龍は顔を離し、口を開けたまま、少し驚いたような表情で、綾羅の顔を見詰めている。
ああ、この表情……何だか見た事あるなぁ。
既視感に、記憶の糸を辿る……
そうだ。いつか王華と行った草原。
百年に一度、花が咲くと言う木を二神で見に行った時の事を思い出す。
いつまで経っても木に花は咲かず、余りに長い時間、上を見上げ過ぎて疲れてしまい、諦めて帰ろうとした時……地が淡い光を帯びた。
しゃがんだ王華の足元に、ぽん、と、仄かな光を宿して小さな花が咲く。
それを皮切りに、見る間に、緑だけであった筈の草原一面に輝く花が咲き乱れる——それは、草原いっぱいに伸びた木の根から咲く花。
その時の王華の、最初の一輪を見つけた時の、表情。
黄龍が今、どうしてこんな表情をしているのか分からずに居ると、突然、声が放たれた。
「玄武を……すぐに召喚せよ」
珍しく慌てた黄龍の声に、側仕えの男は、しかし、と何か言おうとする。
「次の予定があるのは分かっている。だから、今すぐ、呼べ。内密にな」
有無を言わさぬ命令に、男は、は、と答え、すぐに姿を消す。
「玄武先生?」
四聖獣が一、玄武は、綾羅と王華が幼い頃より勉学を教わった師であり、黄龍御用達の御医でもある。
「黄龍様、綾羅は大丈夫です。少し立ちくらみがしただけで……」
「大丈夫だとはっきりさせて、安心させてくれないか」
はぁい、と言う返事を聞くと、黄龍は綾羅を抱き上げ、近くの御殿へと向かう。
案外、過保護な程には愛されてるのかなぁ、と、少し心が軽くなり、綾羅は嬉しくなって黄龍の胸に頭を預ける。
その何時になく早い鼓動を聞きながら、綾羅はゆるゆると眠りに落ちていった。




