①綾羅は空をゆく
穹蓋の底を蹴り狼は駆け降る――天から地へと降り注ぐ光芒の中、銀鼠色の毛皮が輝く。
その大きな口に横様に銜えられた影――長い銀の乱れ髪から泣き濡れた瞳を覗かせ、綾羅は初めて地神界を見た。神気溢れる天神界とは全く違う――神気は薄く代わりにヒトの想いが大気の中に溶け、一呼吸ごとに身体が重くなる。
狼の口中に抱かれたまま綾羅は降下し続ける……眼下には広い森が迫り来る。
腕に絡む細く長い薄衣の帯――帔巾が外れて空へと舞う……それを追って綾羅は後方へと琥珀色の瞳を動かした。
きらきらとした光屑――狼の身の内から僅かに漏れ出る闇の神気が黒曜石の欠片のような煌めきを放っている。
その陰惨な美しさにぼんやりと見惚れながらも心は黄金色の光を想い、綾羅の瞼は重く沈んだ。
「ねぇ王華。あれは龍跡かしら?」
屋敷の庭園に設えられた凉亭の長椅子に座したまま上半身を大きく仰け反らせ、首を真上に向けたままで綾羅は問うた。
身に着けているのは白い衣――襟や袖はごく淡い紅色に染められ、胸の下に飾り紐で留められた裳裾は足の先まで覆い隠してひらひらとひらめく。細い肩に纏った広袖の上衣の細長い紅紐は、胸元で蝶の形に結ばれており、美しく纏め上げられた銀の髪には菊花の簪が揺れている。
んー? と向かいから軽く応えながら、双子の兄、王華も柱の間からひょいと首を突き出して空を仰ぐ。
その細身でしなやかな身体には黒の長衣――肩口に黒糸で飛雲の刺繍が成された袍の軍衣を身に着け、腰には真鍮の飾り付きの腰帯、銀の髪は頭頂部に銀の冠で纏められている。
妹と揃いの琥珀色の瞳に空を映して鼻を小さく動かすと、王華は、そうだね、と言った。一面灰色の雲を切り抜いたようにくっきりと、龍の軌跡が青い切り絵のように浮かんで伸びる。
「黄龍様が御通りになられたのかしら?」
空に顔を向けたままきらきらした声で問う綾羅の方を向いて、違うよ、と王華は返す。
「黒龍様だよ、この匂いは。主神様が空を舞われたのは僕らがうんと子どもだった昔……〝黄龍〟の御力を継承された時だけだった、って。綾羅も解ってるだろ?」
「わかってるけどぉ」
綾羅は可愛らしく頬を膨らませながら姿勢を正し、王華に向き直る。衣の上からでも見て取れる形良い胸がたゆんと揺れた。生まれ持つ性格そのままに、くりくりとした綺麗な目には素直に感情の色が浮かんでいる。
「一目でいいから、も一度見てみたい。あの背に乗って空を飛びたいなぁ」
王華は呆れた視線を向けながら、〝それを他所で言っちゃいけないよ〟の一言を飲み込んだ。幾度となく繰り返されるお約束にも飽き飽きしている。
「はいはい。綾羅の夢は分かったから。ほら、狼の背に乗って、行くよ」
立ち上がり、涼亭を出た瞬間……王華の姿は狼と化した。美しい銀色の毛皮は曇天の下でも輝きを放ち、如何にも若者らしく澄み切った神気に溢れている。
足元に伏せる狼の頭を一撫ですると、綾羅は屈み込む。狼が首を擡げると、その口元に口付け、それから何の遠慮も無くその背に跨った。
「我が眷属よ、いざ雲上宮へ行かん~~~!」
芝居の一幕を真似て声を上げる綾羅に、はいはい、と、再度呆れた様子の返事を返すと、〝行ってきます〟の挨拶代わりに一声、甲高い遠吠えを響かせて狼は空へと飛び立った。
双子の父は狼神であり、神名を〝オオノ神〟、通り名を〝王海〟と言う。かつては地上世界――地神界の神境を守護する土地神の一柱にすぎなかったが、今や天上世界――天神界の〝天狼将軍〟として名を馳せる存在である。
母は治癒神であり、神名は〝サクヤ神〟、通り名は明かされていない。
兄の王華は長子らしく父の名と力を受け継ぎ、狼へと変化する事が出来るが、妹の綾羅にはその力は受け継がれなかった。それどころか、綾羅に有るのは神性のみで空も飛べず、特別な力を持つ訳でも無い。
だが父も母もそんな事は全く意に介さず……たっぷりと、過剰な程に愛情をかけて育てられた綾羅はおっとりとした娘になった。同い年とは言え、王華は兄として何の力も持たぬか弱い妹を守る事を厭わず、今日もいつも通り背に乗せて空を往く。
やがて双子の眼前に煌びやかな城が現れた。
このおはなしに目を留めていただき、ありがとうございます!
【大きな籠は多くの鳥を放つ】の続編となります。
少し間が開いてしまいましたが、引き続き、とある世界の神々のおはなしをご覧ください。
毎日AM8:00過ぎ公開となっております。




