観測された記憶
根脈浅層から戻ったとき、フェネキアの空は昼に近づいていた。
地下にあるはずの都市の上で、青い空が広がっている。雲が流れ、風があり、水路の白砂がきらきらと光を返している。
人工の空だと頭では分かっている。
分かっているのに、根脈の暗がりを歩いたあとだと、その青さがやけに眩しかった。
空がある。
風がある。
水路の音がする。
それだけで、ずいぶんまともな場所へ帰ってきた気がする。
もっとも、まともな場所の住人が狐耳と九尾で、地下に空を作っていて、さっきまで俺たちは根の血管みたいな場所で黒い蛇に追われていたわけだが。
比較対象が壊れていると、正常の基準もだいぶ壊れる。
外縁の沈殿槽から上がると、セレンが待っていた。
黄金の九尾は静かに揺れている。表情は穏やかだったが、目だけはすでに状況を知っているように鋭かった。
白狐は彼女の足元へ歩み寄り、尾を一度だけ振る。
すると、セレンの瞳がわずかに細くなった。
「淀みは、蛇となったか」
「ああ。未成熟体だが、核を形成していた」
俺は視界に残るログを開きながら答えた。
《根脈浅層:第二流路》
《淀みの魔蛇:未成熟体》
《淀み核:浅層形成中》
《流路侵食率:25%》
《状態:警戒》
《追跡性:高》
「最初に見た時点では侵食率二七%。浄砂で一度核に干渉して、二五%まで下げた」
イリスが補足する。
「第二流路の奥に淀み核を確認しました。魔蛇は流路を飲み、模倣体を生成。白尾さまの光、アイズドの護域、ルナの白銀、こちらの浄砂に反応しています」
ルナは少し疲れた顔で立っていたが、自分の名前を出されると背筋を伸ばした。
「私の動きも、少し真似されました」
「回避先を先に潰すような動きだったな」
「はい。気持ち悪かったです」
その表現は、今日何度目か分からない。
だが、正しい。
淀みの魔蛇は、強いというより気持ち悪い。
力で押し潰すボスとは種類が違う。こちらを見て、覚えて、真似て、揺さぶる。攻撃してくるのではなく、入り込んでくる。
しかも、奴は俺の奥に残っていたものまで引っ掛けた。
声。
影。
助けを求めるような形。
それは本物ではない。
少なくとも、あの場で見えたものや聞こえたものは偽物だ。淀みが作った疑似音声。俺の記憶と感情の隙間から拾い上げた、都合のいい針。
だが、偽物だから効かない、というほど人間の中身は単純ではない。
むしろ偽物の方が効くこともある。
本物なら相手の事情を考えられる。文脈もある。言った側の迷いもある。だが、偽物は一番刺さる形だけを持ってくる。余計なノイズを削った、悪意の最適化。
ゲームの敵として最低である。
ただし、ボス設計としてはかなりよくできている。
そこが余計に腹立たしい。
ーーーーーー
セレンは俺たちを根の間へ案内した。
外縁の通路から都市の中央へ向かう。
水路のそばでは、フェネキア族の住人たちがいつも通りに生活していた。子供たちは白狐の後ろ姿を見て手を振り、老人は根の方へ静かに頭を下げる。
誰も慌てていない。
だが、イリスの表情を見る限り、状況は軽くない。
都市の血流に淀みが生まれ、未成熟とはいえ魔蛇の形を取った。
それはフェネキアにとって、見過ごせない異常なのだろう。
根の間に入ると、中央の水盤が淡く光っていた。
セレンが手をかざす。
水盤の表面に、青白い線が走った。
それは根脈浅層の簡易図のようだった。外縁の沈殿槽、第一流路、偽装分岐、第二流路。そして、奥に黒く濁った一点。
淀み核。
水盤上の黒い点は、ゆっくり脈打っていた。
同時に、俺の視界にも同じ情報が重なる。
《根脈浅層:状態表示》
《第一流路:回復傾向》
《流路偽装:解除済み》
《第二流路:侵食継続》
《淀み核:浅層形成中》
《流路侵食率:25%》
《魔蛇状態:警戒》
「二五%か」
セレンは低く呟いた。
「まだ浅層に留まっている。だが、早い」
「淀みが魔蛇になるのは、そんなにまずいのか」
「淀みは本来、沈むものだ。根の底に澱み、浄砂と白尾の光で少しずつ薄める。だが、蛇となった淀みは違う。流れを辿り、根脈を飲み、己の道を作る」
セレンは水盤の黒い点を見つめたまま続けた。
「淀みは、ただの汚れではない。根に溜まった痛み、外から流れ込んだ歪み、言葉にならぬ恐れ、捨てられた願い。そうしたものが、黒く沈んだものだ」
「記憶を読むのか」
俺が聞くと、セレンは首を横に振った。
「読んでいるのではない。淀みは賢者ではない。人の心を紐解き、名を知り、過去を語るものではない」
「なら、なぜ見知った形を取る」
「脆いところへ寄るからだ」
セレンの声は静かだった。
「淀みは、傷の名を知らぬ。だが、傷口の匂いを嗅ぎ分ける。恐れ、未練、怒り、負い目、返せなかった言葉。そうしたものは、根の暗がりでは光よりも強く揺れる。淀みはその揺れへ寄り、そこに外界の影を被せる」
ルナが小さく眉を寄せた。
「つまり、心を読まれてるわけじゃなくて……痛いところを狙ってくる、ってことですか」
「そうだ。白銀の娘よ。汝の言い方が近い」
セレンは頷いた。
「淀みは、本物を知らぬ。だが、汝らが本物のように揺れる形を作る。だからこそ厄介なのだ」
なるほど。
心を読んでいるわけではない。
名前を知っているわけでもない。
あの影のことを、淀みが理解していたわけではない。
ただ、俺の中に残っていた脆い部分に、外の影を被せた。
それが俺に効く形だと、淀みは反応から学んだ。
こちらが足を止めれば、その形は強くなる。
こちらが声を返せば、さらに深く食い込む。
そういうことか。
《認識干渉:解析済み》
《分類:記憶ノイズ誘導》
《心的情報の直接読取:未確認》
《反応学習:確認》
《推奨:応答しないでください》
「だから、返すなと言ったのか」
「そうだ」
セレンは俺を見る。
「声に返せば、淀みはその声の道を辿る。影を追えば、淀みはその足跡を覚える。心を読まれたのではない。だが、汝が己から道を渡せば、淀みはそこを通る」
「ひどい仕組みだな」
「淀みとは、そういうものだ。隙間に入る。ひびに染みる。脆いところから崩す」
ルナは黙って聞いていた。
表情は少し硬い。
たぶん、自分にもそういうものがあると考えているのだろう。
恐れ。
未練。
返せなかった言葉。
誰にでもある。
ないと言い切れる人間は、たぶん自分の足元を見ていないだけだ。
「私にも、出ますか」
ルナが言った。
セレンはすぐには答えなかった。
それから、穏やかに言う。
「出るだろう」
ルナの肩がわずかに揺れた。
「汝が脆いからではない。生きている者には、必ず揺れる場所がある。大切なものを持つ者ほど、そこは強く揺れる」
「大切なもの……」
「道場、家族、友、己が届きたい剣。何であれ、淀みはそこへ似た影を被せるかもしれぬ」
ルナは剣の柄を握った。
怖いのだろう。
当然だ。
自分の知らないところから、自分の大切なものに似た影を出される。しかも、それは本物ではない。本物ではないのに、感情だけは揺れる。
魔蛇は、そういう攻撃をしてくる。
ゲームの敵としてはかなり嫌な部類だ。
回避不能の精神デバフ。
しかもプレイヤーの情緒を燃料にしてくる。
開発者の性格を疑う。いや、疑うまでもなくこのゲームは性格が悪い。
「アイズド」
ルナが慎重に呼んだ。
「さっきの影って、昔の知り合いに似てたんですか」
来た。
当然の問いだ。
俺は少しだけ考えた。
ここで嘘をつく必要はない。
だが、全部話す必要もない。
「似ていた」
それだけ答えた。
ルナは、さらに聞きたそうにした。
だが、口を閉じる。
こいつは、こういうところで踏みとどまる。
妙にありがたい。
「淀みが、勝手にそれっぽく作っただけだ」
「でも、アイズドには効いたんですよね」
「少しな」
「じゃあ、次はもっと使ってくるかもしれない」
「ああ」
「対策しないとですね」
また、それだ。
ルナの言葉は単純だが、正しい。
怖かった。
嫌だった。
不快だった。
そこで終わらせるのではなく、対策へ持っていく。
攻略の基本だ。
俺は頷いた。
「対策する」
ーーーーーー
セレンは水盤に映る黒い核へ視線を落とした。
「淀みの魔蛇を祓うには、核へ浄砂を届かせる必要がある。だが、次は同じ道を塞がれる。汝らの動きも、より深く真似てくる」
「つまり、見られた手を捨てる必要がある」
「あるいは、見せた手を囮にする」
セレンがそう言った瞬間、俺の頭の中でいくつかの線が繋がった。
見せた手を囮にする。
魔蛇は俺の護域を見た。
ルナの白銀を見た。
白狐の光を見た。
イリスの浄砂を見た。
なら、次はそれを警戒する。
護域で流路を守れば、迂回する。
白銀の光を帯びた剣で糸を逸らせば、回避先を先読みする。
白狐が光れば、そこへ寄る。
浄砂を投げれば、核の手前で落とそうとする。
だったら、警戒させればいい。
こちらが本当に通したいものとは別の線を見せる。
魔蛇が塞ぎに来た瞬間、本命を通す。
「浄砂以外に、核へ干渉できるものはあるか」
俺が聞くと、イリスが答えた。
「通常は浄砂だ。強い白尾の光でも焼けるが、今は白尾さまを前に出すべきではない」
「ルナの剣は?」
セレンがルナを見る。
「白銀の光を帯びた刃は、淀みの線を焼ける。だが、核そのものを斬るには足りぬ。今の白銀の娘は、まだ剣の名へ届く途中だ」
ルナの前にログが浮く。
《白銀系統:未確定》
《白銀出力:一時再現》
《核干渉能力:不足》
《有効処理:淀み糸の進路補正/模倣体の線切断》
《注意:長時間展開は追跡性を上げる可能性があります》
「つまり、核への本命は浄砂」
「そうだ」
「なら、浄砂を二段で入れる」
水盤の根脈図を見ながら、俺は指で線を引いた。
「魔蛇は前回、浄砂の投擲線を見た。次はイリスの動きに反応するはずだ。だから一発目は見せる。あえて分かりやすく投げる。それを魔蛇に止めさせる」
「囮か」
「ああ。本命は二発目。白砂の流れに乗せて低く通す」
俺は水盤上の第二流路を指でなぞる。
「俺が護域で流路を守るのは前回と同じに見せる。ただし、今回は守る範囲を途中で切り替える」
「切り替える?」
ルナが聞く。
「魔蛇は俺が流路を守ると思っている。だから、流路の外側を狙う。お前の白銀は、今のところ火力スキルじゃない。黒糸の線に干渉できるのが強みだ。真正面から斬る必要はない。黒糸の進路を少し逸らして、こっちが用意した場所へ誘導する」
「誘導……」
「お前の動きも見られている。なら、いつもの避け方を見せて、魔蛇に先読みさせる。先読みさせた場所へ黒糸を出させる。その黒糸を、お前の剣先でわずかにずらす。そこで俺が護域を張り、本命の浄砂が通る道を守る」
俺の視界に作戦メモ用のウィンドウが立ち上がる。
《第二流路再侵入:暫定作戦》
《目的:淀み核への浄砂二段干渉》
《囮:浄砂一投目/通常投擲線》
《本命:浄砂二投目/白砂流路低軌道》
《アイズド:護域展開パターンを途中切替》
《ルナ:白銀断続展開で黒糸の進路補正》
《白尾:道標光を最小限に制限》
《注意:同一手順の反復は非推奨》
「私が囮ですか?」
ルナが聞いた。
「危険な囮だ。やめてもいい」
ルナは少しだけ黙った。
その顔には、怖さがあった。
当然だ。
魔蛇は彼女の回避先を学習している。
囮になれば、黒糸に触れる危険がある。触れれば、彼女の脆いところにも淀みが寄るかもしれない。道場の記憶か、現実の誰かか、まだ俺が知らない何かか。
それは軽く言えることではない。
ルナは器用に笑って誤魔化すタイプではない。
だから、しばらく本気で考えた。
やがて、剣の柄に手を置き、頷く。
「やります」
「理由は」
「怖いです。でも、私の動きを見てくるなら、逆に見せられるってことですよね」
「そうだ」
「だったら、見せる動きも練習します。避けるだけじゃなくて、見せて、誘って、刃で少しだけずらす」
いい。
かなりいい。
剣の環で白銀に届いたときとは違う強さだ。
あの時は身体が先に答えへ触れていた。
今は、自分で考えて選んでいる。
白銀は脆い。
だが、今の理解はその脆さを少しだけ補強する。
「分かった。無理はさせるが、無茶はさせない」
「はい」
「危ないと思ったら下がれ」
「はい」
「出口確認も忘れるな」
「それもですか」
「それもだ」
ルナは少しだけ口を尖らせたが、すぐに頷いた。
イリスが浄砂袋を水盤の縁に置く。
「浄砂は残りが少ない。強いものを用意するには、根の間の奥で調整が必要だ」
「時間は?」
「半日ほど」
「その間にこっちは訓練する。ルナの囮動作と、俺の護域切り替え。白狐の光は最小限。イリスは一発目と二発目の投げ分け」
「了解した」
白狐が尾を揺らす。
自分にも役割がある、と言いたそうだった。
「お前は道標だ。ただし、光りすぎるな」
白狐は不満そうに目を細めた。
「分かってる。もっと活躍したいんだろうが、今はお前の光が目印にもなる。必要な時だけ頼む」
白狐はしばらく俺を見上げたあと、ふいと顔を逸らした。
納得というより、渋々の了承。
感情表現が細かい聖獣である。
ーーーーーー
セレンが静かに頷いた。
「もう一つ、覚えておけ」
「何だ」
「魔蛇は次に、より深い影を被せてくる。先ほどは汝の脆いところを撫でただけだ。次は、白銀の娘にも触れようとするかもしれぬ」
ルナの肩がわずかに強張る。
セレンは彼女へ優しく視線を向けた。
「声が聞こえても、返すな。見覚えのある影が出ても、追うな。淀みは本物ではない。だが、本物に似せる」
「はい」
「本物かどうか迷ったら、白尾さまを見るがよい」
白狐が、尾を一振りした。
任せろ、という顔だ。
さっき無理をするなと言われて不満そうだったくせに、こういう時は得意げである。聖獣、感情表現がわりと細かい。
俺は水盤の黒い点を見る。
淀み核。
流路侵食率二五%。
魔蛇は警戒状態。
こちらの動きも、心の揺れも、少しずつ拾われている。
つまり、次はもっと正確に刺してくる。
なら、こちらも準備する。
見られる前提で動く。
見せる前提で罠を張る。
敵の行動を読む。
敵にこちらを読ませる。
読ませた上で、別の盤面へ落とす。
昔、そういうことばかり考えていた時期があった。
名前はもう出さない。
場所も、今は関係ない。
今ここにいるのはアイズドだ。
だが、過去に積んだ技術まで捨てる必要はない。
必要なら壊せ。
そう言ったのは俺だ。
なら、俺自身のマニュアルも壊して使う。
「アイズド」
ルナがこちらを見た。
「顔、怖いです」
「楽しい顔じゃないのか」
「今日は、ちょっと違います」
「そうか」
「でも、悪い顔でもないです」
「評価が難しいな」
「考えてる顔です」
「なら合ってる」
俺は左腕の機装を握った。
護域の感覚を思い出す。
守るための形。
次は、それを囮にも使う。
魔蛇は脆いところを狙う。
なら、こちらは見せてもいい脆さを用意する。
それが第二戦の方針だ。
視界に機装ログが浮かぶ。
《古代変形機装:状態確認》
《補助系統:60%》
《守護系統:15%》
《射出系統:21%》
《淀み汚染蓄積:2%》
《注意:護域展開パターンが学習されています》
《推奨:展開範囲/展開タイミングの変更》
「ログにも言われた」
「何をですか?」
「同じ手は使うな、だと」
「じゃあ、変えましょう」
「簡単に言うな」
「でも、変えるんですよね」
「変える」
ルナは少しだけ笑った。
怖がっている。
それでも、逃げてはいない。
セレンが水盤の光を閉じる。
黒い点は消えたが、その位置は頭に残っている。
「半日後、再び第二流路へ向かう」
セレンは告げた。
「淀みの魔蛇が成熟する前に、核を祓う」
誰も異論は言わなかった。
根の間の外では、フェネキアの空が穏やかに青かった。
その青さの下で、都市の血管には黒い蛇が潜んでいる。
人の脆いところを嗅ぎ分け、守る形を真似て、白銀の剣筋を読もうとする敵。
最高のクソゲーは、またずいぶん面倒な問いを出してきた。
だが、問いが見えたなら、解く準備はできる。
俺はルナを見る。
彼女も、少しだけ怖そうに、けれど逃げない目でこちらを見返していた。
「訓練するぞ」
「はい」
「まずは、わざと見せる回避からだ」
「難しそうです」
「難しい。だからやる」
ルナは小さく笑った。
「アイズドらしいです」
「そうか?」
「はい」
俺らしい。
その言葉は、少し不思議だった。
昔の役割でもなく。
過去の呼び名でもなく。
今の俺を指す言葉として、少しずつ形を持ち始めている。
なら、悪くない。
半日後、魔蛇はまたこちらを見返してくる。
その時までに、こちらも見せるべき嘘を用意しておく必要があった。




