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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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ルーティン



 朝は、目覚ましが鳴る前に起きる。


 それはもう、習慣というより条件反射に近かった。


 スマホのアラームが鳴る七分前。中途半端な数字だが、だいたいそのあたりで意識が浮上する。目を開ける。天井を見る。昨日の睡眠時間と、起きた瞬間の頭の重さを確認する。


 六時間二十一分。


 やや短い。


 だが、集中を削るほどではない。


 そう判断して、俺はベッドから起き上がった。


 神代冬司、三十歳。


 元プロゲーマー。


 現在、無職。


 肩書きだけ並べると、朝からかなり胃に悪い。朝食前に摂取するには刺激が強すぎる。健康志向の人間ならオーガニックな白湯でも飲む時間に、俺は自分の社会的状態という劇物を嚥下している。


 とはいえ、不思議と気分は悪くなかった。


 部屋は相変わらず散らかっている。


 机の上には空のペットボトル。充電ケーブルは絡まっている。椅子の背には昨日脱いだ上着。床にはVR用の補助マット。壁際には、仕事道具だった完全没入用のヘッドセット。


 かつては、この部屋が職場だった。


 ここでログを読み、作戦を組み、配信の裏で指示を出し、勝つための盤面を作っていた。


 今は、ただの部屋だ。


 その違いが、少しだけ軽かった。


 俺はスマホのアラームを止め、画面を確認する。


 通知はない。


 いや、正確にはある。天気、ニュース、どうでもいい広告、昔のメールアプリからの自動整理通知。だが、昨日まで残っていた古い連絡用アドレスの通知は切ってある。


 SOSは、もう届かない。


 届いても、即座に俺を引き戻すことはない。


 それだけで、朝の空気が少し違って感じられた。


 俺は床に膝をつき、腕立て伏せの姿勢を取った。


 一。


 二。


 三。


 身体を動かす。


 昔から続けているルーティンだ。


 プロゲーマーに筋トレが必要か、と聞かれたことがある。


 必要だ。


 少なくとも、俺はそう考えていた。


 もちろん、ベンチプレスの重量が上がったところで、ゲーム内のダメージが増えるわけではない。腹筋を割ってもボスのギミックは解けない。筋肉でヘイト管理はできない。できたら世の中のタンク職はジム通いで環境が変わっている。筋トレでメタが動くゲーム、かなり嫌だ。


 だが、完全没入型VRは、意識だけで遊ぶものではない。


 姿勢。


 呼吸。


 集中の持続。


 長時間接続に耐える身体。


 現実の身体の状態は、思った以上にアバターの操作へ影響する。


 特に俺のようなタイプはそうだ。


 三十本のクールタイムを同時に見て、変形硬直を数え、視野の端のログを拾いながら、敵と味方と地形を並列で処理する。頭だけでやっているように見えて、実際には身体の安定が土台になる。


 見えない土台。


 またそれか、と少しだけ思う。


 だが、土台というものは、見えないから土台なのだ。


 腕立て。


 スクワット。


 プランク。


 肩甲骨を動かすストレッチ。


 首回りの軽い可動域確認。


 プロ時代から、朝のメニューはほとんど変えていない。


 変わったのは、目的だ。


 昔は、勝つためだった。


 チームの穴を埋めるため。


 レオンの火力が安全に通る盤面を作るため。


 ミレイの回復が遅れないよう、全体のタイミングを支えるため。


 神崎の作った配信スケジュールを破綻させないため。


 俺が壊れれば、全体が傾く。


 そう思っていた。


 今は違う。


 俺が壊れても、白騎士団は白騎士団として勝手に困る。実際、少し困ったらしい。だが、昨日のメールで少なくとも最初の柱は自分たちで立て始めた。


 なら、もう俺が支える必要はない。


 このルーティンは、誰かの勝利のためではない。


 俺が、俺の遊びを続けるためのものだ。


「……だいぶ贅沢な使い道だな」


 プランクの姿勢のまま、俺は呟いた。


 誰も返事はしない。


 当然だ。現実の六畳間で床に向かって話しかける三十歳男性に返事があったら、それはそれで困る。ホラーか、疲労か、あるいは隣人の善意だ。どれも歓迎しない。


 時間を測る。


 終了。


 軽く息を吐き、立ち上がった。


ーーーーーー


 次は、脳の準備だった。


 机に座り、タブレットを立ち上げる。


 画面には、昔から使っている認知トレーニングのアプリが並んでいる。反応速度測定。短期記憶。視野内数字探索。多重タスク処理。音声指示と視覚情報の同時処理。


 この手のトレーニングに、どれだけ直接的な効果があるかは分からない。


 だが、少なくとも朝の頭を起こすには役に立つ。


 俺はまず、視野探索から始めた。


 画面に一瞬だけ表示される数字列を覚え、消えた後に順番を入力する。


 次に、二重課題。


 中央の図形の色を判断しながら、端に流れる文字列の中から特定単語だけを拾う。


 それが終わると、反応速度。


 ランダムに光る点を押す。


 単純。


 だからこそ、誤魔化しが利かない。


 結果は、平均より少し悪い。


 睡眠時間の短さが出ている。


 俺は記録を眺め、眉を寄せた。


 プロ時代なら、ここで今日の接続時間と集中を使う作業量を調整した。重要な攻略がある日は、休憩タイミングを増やし、重い検証作業は夜に回す。レオンの反応に合わせるため、自分の指示速度が落ちる日は、発話を短くする。


 今も、やることは変わらない。


 ただ、予定表の中身が違う。


 今日のメニュー。


 一つ。


 フェネキアの外縁訓練環で、ルナの基礎回避と剣の接触精度を確認する。


 二つ。


 《古代変形機装》の守護系統と補助系統の反応を再検証する。


 三つ。


 根の間で、セレンから機装のルーツについて聞く。


 四つ。


 白狐の羅針盤に関わる次の導線を探る。


 五つ。


 ルナに地図を覚えさせる。


 最後が一番難敵かもしれない。


 俺はメモアプリに今日の予定を打ち込む。


 昔は、この予定表がチーム全体の作戦表だった。誰が何時にログインし、誰が素材を買い、誰が配信枠に入り、誰がログを整理するか。俺の朝は、他人の行動予定を組むところから始まっていた。


 今は、二人分でいい。


 俺と、ルナ。


 それでも、意外と余白はない。


 彼女の才能は本物だ。


 だが、足りないものが多すぎる。


 知識。


 スキル。


 レベル。


 地図。


 情報リテラシー。


 あと、尻尾に対する自制心。


 リストに書くべきか迷ったが、やめた。文字にすると妙に馬鹿っぽい。いや、実際馬鹿っぽいのだが、訓練項目として「尻尾を触らない」と書いてある予定表は、いくらなんでも人として終わっている。


 とはいえ、必要ではある。


 俺はタブレットを閉じ、台所へ向かった。


ーーーーーー


 朝食は、特別なものではない。


 米。


 味噌汁。


 卵。


 焼いた魚。


 納豆。


 以上。


 昔から同じだ。


 プロゲーマー時代、食事管理は地味に重要だった。


 大会前や大型攻略前に、胃に重いものを食べると集中が鈍る。カフェインの入れ方を間違えると、後半で落ちる。糖分を雑に摂ると、血糖の波で眠くなる。徹夜明けに油ものを入れると、脳より胃がレイドボスになる。


 攻略前の朝食は、できるだけ変えない。


 体調の乱れを、食事の乱れにしたくないからだ。


 味噌汁を飲む。


 薄い。


 昨日、味噌をケチったらしい。節約ではない。単に寝ぼけて分量を間違えた。元プロゲーマー、味噌汁のヘイト管理に失敗。支援が足りない。


 くだらないことを考えながら、米を食べる。


 ニュースを流し見する。


 EHO関連の記事がいくつか上がっていた。


 探求期初日。


 主要ギルド苦戦。


 灰冠の巨兵に関する検証配信が注目。


 白騎士団、新方針で視聴者評価が二分。


 俺は箸を止めた。


 白騎士団。


 見出しを開くか、少しだけ迷った。


 開かない。


 見る必要がない。


 ミレイは、自分たちで組むと言った。


 俺も、もう大丈夫だと返した。


 なら、それ以上は向こうの盤面だ。


 俺のマニュアルは、必要なら壊せ。


 そう書いた。


 壊すかどうかも、もう彼らが決めることだ。


 俺はニュースアプリを閉じた。


 食事を終え、食器を洗う。


 洗い終わった皿を水切りに置いたところで、少しだけ手が止まった。


 昔なら、この後はすぐに資料確認だった。


 配信スケジュール。


 ボスログ。


 メンバーの状態。


 スポンサー提出用の進捗メモ。


 誰かのための準備が、朝のほとんどを埋めていた。


 今は、俺自身のためにログインする。


 その事実が、まだ少しだけ慣れない。


 だが、悪くない。


「さて」


 俺はタオルで手を拭き、ヘッドセットの前に座った。


 接続前に、もう一度だけ身体の状態を確認する。


 頭は起きている。


 反応速度はやや鈍い。


 睡眠は少し不足。


 だが、致命的ではない。


 今日やるべきことは重い。


 ルナの白銀。


 機装の検証。


 フェネキアの根。


 どれも、片手間では扱えない。


 俺はヘッドセットを装着する。


 視界が暗くなる。


 ログイン画面。


 アカウント選択。


 アイズド。


 その名前を見る。


 まだ、少しだけ新しい名前。


 だが、昨日より馴染んでいる。


 ジンではない。


 神代冬司でもない。


 誰かの土台として組み込まれる名前ではなく、自分で歩くためにつけた名前。


 俺は決定キーを押した。


 光が、意識を縫い上げていく。


ーーーーーー


 目を開けると、地下都市の朝だった。


 フェネキアの外縁の庵。


 白い石の壁。


 青い光を宿す照明。


 窓の外には、人工の空。


 現実の朝食から戻ってきたばかりだというのに、こちらでも朝が続いている。身体が二重に朝を浴びているようで、少しだけ妙な気分だった。


 外では、水路の音がしている。


 白狐は庵の前で丸まっていた。


 ルナは、まだいない。


 珍しい。


 俺より先にログインしていることも多い彼女が、まだ来ていない。現実側で寝坊しているのかもしれない。あるいは、古流の道場の用事でもあるのか。


 そういえば、彼女の現実の事情も、まだほとんど知らない。


 女子大生。


 古流武術の経験者。


 ネットリテラシーが壊滅的。


 分かっていることは、そのくらいだ。


 あとは、白銀へ届く身体を持っていること。


 それだけで十分な気もするが、十分ではない気もする。


 俺は庵の外へ出た。


 朝のフェネキアは、静かに動き始めていた。


 水路のそばで桶を運ぶ住人。


 光草の手入れをする老人。


 根の方へ祈るように頭を下げる女性。


 尾を揺らしながら走る子供たち。


 生活の音がある。


 この都市の朝にも、ルーティンがあるのだろう。


 水を運ぶ。


 根を見回る。


 光草を整える。


 白狐へ供え物を置く。


 子供を起こす。


 食事を作る。


 空を維持する。


 それらは攻略には関係ない。


 経験値にもならない。


 だが、この都市を保っている。


 見えない土台。


 俺は少しだけ苦笑した。


 結局、どこへ行ってもそこへ目がいく。


「朝から難しい顔をしているな」


 声をかけてきたのは、イリスだった。


 白い外套。青黒い腕輪。腰の短剣。今日も隙のない立ち姿だ。


「元からだ」


「ルナも同じことを言っていた」


「余計なところで共有されている」


 イリスの耳がわずかに動く。


 笑ったのかもしれない。分かりにくい。


「長が、朝の訓練環を使う許可を出した。白銀の娘が戻り次第、外縁の環へ案内する」


「助かる」


「ただし、根を乱すな。機装を無闇に展開するな。子らの遊び場に射撃を向けるな」


「最後はしない」


「外界の者は、時に信じがたいことをする」


「否定しきれないのが嫌だな」


 イリスは庵の前に座る白狐へ視線を向けた。


「白尾さまも見ている。下手をすれば、尾で叩かれる」


「物理的にか?」


「精神的にも」


「どっちも嫌だ」


 白狐が、目を閉じたまま尾を一度振った。


 聞こえている。


 絶対に聞こえている。


「ところで」


 イリスが言った。


「汝は朝から身体を整えてきたようだな」


「分かるのか」


「動きが昨日より軽い。だが、頭の反応は少し鈍い」


「そこまで分かるのか」


「守り手は見るのが仕事だ」


 なるほど。


 俺が盤面を見るように、彼女たちも外界の者を見ている。


 身体の重心。


 視線。


 呼吸。


 機装の反応。


 そのすべてを観察しているのだろう。


「睡眠が少し足りない」


 俺は正直に言った。


「現実の器の話だ」


「なら、無理はするな。根は急がぬ」


「外界は急ぐ」


「だから外界はよく壊れる」


 なかなか辛辣だ。


 だが、否定できない。


「今日は機装について聞く予定だったな」


「そう聞いている」


「長は根の間で待つ。その前に、汝自身のルーティンをこちらでも作れと言っていた」


「こちらでも?」


「そうだ。外界の器を整えるように、この世界の身体も整えよ。アバターは魂の影。影もまた、習慣によって形を持つ」


 また詩のようなことを言う。


 だが、意味は分かる。


 現実で筋トレや脳トレをするように、ゲーム内でもアバター操作の基礎を整えろということだ。


 特に今の俺には必要だ。


 《古代変形機装》は複雑すぎる。


 実戦だけで検証すると、毎回脳が焼ける。日々の基礎動作として、変形、硬直、クールタイム確認、形態ごとの重心を身体に馴染ませる必要がある。


 ルーティン。


 現実だけではない。


 EHO内にも、俺たちの朝の型がいる。


「分かった」


 俺は頷いた。


「アイズドさん!」


 そのとき、遠くから声がした。


 ルナだった。


 白銀の髪を揺らしながら、外縁の道をこちらへ走ってくる。手には何か包みを持っている。走るなと言おうとしたが、彼女はちゃんと人の少ない道を選び、住人の邪魔にならないように速度を落としていた。


 地味に成長している。


 いいことだ。


 ルナは庵の前で止まり、少し息を弾ませた。


「おはようございます」


「遅かったな」


「現実で道場の朝稽古がありました」


「なるほど」


 古流武術の道場。


 彼女の白銀の根っこ。


 朝から身体を動かしてきたなら、今日の訓練にはちょうどいいかもしれない。


「その包みは?」


「朝ごはん、もらいました。フェネキアの人が、外界の人にも食べられるって」


 包みを開くと、小さな丸いパンのようなものと、干した果物、白いチーズに似た食材が入っていた。


 ゲーム内の食事だ。


 満腹度や一時バフに関わる可能性がある。


 説明文を確認する。


 《根麦の丸パン》


 フェネキア族が日々の朝に食べる素朴なパン。根系環境で育つ麦に似た穀物を使っている。食べると一定時間、環境酔いへの耐性がわずかに上昇する。


 環境酔い。


 地下都市特有の状態異常か。


 ルナはすでに一つ食べたらしく、少し嬉しそうだった。


「おいしいです」


「薬草茶よりは?」


「比べるのが失礼なくらい」


「薬草茶に謝れ」


「薬草茶も、身体には良さそうです」


「褒め方が固定化している」


 イリスが静かにこちらを見ていた。


「食べておけ。外縁訓練環は、見た目より揺れる」


「揺れる?」


「環境制御の乱れを、訓練用に再現する。足場、風、視界、重力の偏り。外界の探求期に近い揺らぎも含む」


 なるほど。


 かなり実用的だ。


 現実で朝食を済ませたばかりだが、ゲーム内の環境耐性バフは別腹である。栄養学的には意味不明だが、システム的には重要だ。俺は根麦の丸パンを一つ食べた。


 ほんのり甘い。


 悪くない。


 ルナがこちらを見て、にこっと笑った。


「おいしいですよね」


「ああ」


「薬草茶より」


「だから薬草茶を比較対象にするな」


 白狐が尾を揺らした。


 フェネキアの朝。


 現実の朝。


 筋トレ。


 脳トレ。


 朝食。


 ログイン。


 そして、地下都市での訓練。


 俺のルーティンは、少しずつ形を変えていた。


ーーーーーー


 外縁訓練環は、都市の端にあった。


 昨日の根守りの環や剣の環よりも実用的な場所だ。白い石床の円形広場。周囲には高さの違う石柱と、動く足場、風を生む細い塔、水路に似た流砂の溝がある。


 いかにも訓練施設。


 ただし、フェネキア風の。


 イリスが説明する。


「ここは守り手の基礎訓練に使う。外界の者用に、殺傷設定は切ってある」


「殺傷設定があるのか」


「守り手は甘やかさぬ」


「いい教育方針だな。生徒は嫌がりそうだが」


「嫌がる者ほど伸びる」


「それは教育者が言うと危ない台詞だ」


 ルナが少し不安そうな顔をする。


「殺傷設定、切ってあるんですよね?」


「切ってある」


 イリスは淡々と答えた。


「痛覚補正も抑えてある。ただし、落ちれば恥はかく」


「恥」


「水路に落ちると、全身が光る」


「どうしてですか」


「反省しやすい」


「嫌です」


 ルナの顔が真剣になった。


 命の危険より、全身が光る恥のほうが効く場合もあるらしい。


 覚えておこう。


「まず、各自のルーティンを作る」


 俺は言った。


「ルーティン?」


 ルナが首を傾げる。


「毎回同じ順番で身体と頭を起こす手順だ。現実でもやってるだろ。道場の準備運動みたいなものだ」


「ああ、あります。足運びとか、素振りとか、呼吸とか」


「それをEHO用に作る」


「ゲームでも?」


「ゲームだからこそだ」


 俺は左腕の機装を軽く叩く。


「俺の場合、変形硬直と形態ごとの重心確認。盾装で受ける角度。射装の照準。剣装の踏み込み。補助系統の反応も見たい。これを毎回いきなり実戦でやると、脳が焦げる」


「焦げるんですか」


「比喩だ。たぶん」


「たぶん」


「お前の場合は、回避の初動、接触剣、足場の悪い場所での重心、そして地図確認」


「地図、入ります?」


「入る」


「やっぱり」


「迷子になる剣士は、だいたい物語序盤で面倒なイベントを拾う」


「それ、悪いことですか?」


「今回は俺たちがそれで地下都市に来たから、完全には否定できない」


 言ってから、少し黙る。


 そうだ。


 ルナの寄り道が、俺たちをここへ連れてきた。


 効率的なルートだけを通っていれば、空を抱く地下都市には辿り着かなかった。


 迷うことにも、価値がある。


 ただし、毎回迷われると困る。


「意図して迷うのと、勝手に迷子になるのは違う」


「難しいです」


「今日の名言だ。覚えろ」


 ルナは真面目に頷いた。


 たぶん、半分くらいしか分かっていない。


 俺は訓練環の中央へ立った。


「まず俺からやる。見ていろ」


 左腕の機装を起動。


 剣装。


 片手剣型。


 踏み込み。


 斬撃。


 停止。


 盾装。


 展開硬直。


 受けの角度。


 半歩後退。


 防壁の出力確認。


 射装。


 照準。


 単発。


 三連。


 反動制御。


 再び剣装。


 硬直の終わりと次の初動を繋ぐ。


 派手な動きではない。


 むしろ地味だ。


 だが、こういう地味な動作を毎朝確認しないと、実戦で一拍ずれる。


 一拍のずれは、探求期では死ぬ。


 いや、死ななくても、全身が光るかもしれない。


 それは嫌だ。


 数分間、同じ動作を繰り返す。


 機装の三十本のクールタイムのうち、今使えるものは限られている。だが、待機時間の走り方、硬直の体感、形態ごとの視野の変化は確認できる。


 途中、盾装を展開した瞬間、昨日の守護系統の片鱗が微かに反応した。


 半透明の鱗状防壁。


 まだ安定しない。


 出そうとしても出ない。


 ただ、守る対象があるときだけ反応するのかもしれない。


 後で検証だ。


「次、ルナ」


「はい」


 ルナが訓練環へ入る。


 表情は真剣だ。


「まず走るな」


「はい」


「剣を振る前に足を置け」


「はい」


「避ける方向は俺が言う。だが、途中で違うと思ったら、自分の身体を優先しろ」


「分かりました」


「それから、三回に一回、周囲を見る」


「周囲?」


「地図の代わりだ。自分が今どこにいて、出口がどっちか、障害物がどこか、敵が増えたらどこへ逃げるか。避けるのに夢中になると、お前はそれを忘れる」


「忘れます」


「即答するな」


「でも、本当なので」


「正直でよろしい」


 俺は訓練環の制御石へ触れた。


 イリスに教わった通り、軽度の揺らぎを起動する。


 石床の一部がゆっくり動き始めた。


 風が吹く。


 水路の砂が光る。


 訓練用の白い影が一体、ルナの前に現れた。


 剣の環ほど強くはない。


 だが、基礎訓練には十分だ。


「始め」


 白い影が動く。


 ルナは、一瞬だけ型で避けようとした。


 遅い。


 だが、すぐに身体が別の答えを選ぶ。


 半歩ではなく、足首一つ分だけ横へ抜けた。


 影の剣が空を切る。


 ルナの剣が影の腕へ触れる。


 悪くない。


「止まるな。周囲」


「あ、はい!」


 ルナが慌てて周囲を見る。


 その瞬間、影の二撃目が来る。


 彼女はかろうじて避ける。


「見るタイミングが遅い。避けた直後に見ろ。安全な瞬間を作れ」


「はい!」


 何度も繰り返す。


 避ける。


 触れる。


 周囲を見る。


 足場を確認する。


 出口を確認する。


 また避ける。


 ルナの才能は、相変わらず異常だ。


 攻撃を避ける動きだけなら、何度見ても当たる気がしない。だが、周囲確認が入ると途端にぎこちなくなる。自分と相手の一対一に意識が入りすぎるのだ。


 《絶剣》としては、それでいい場面もある。


 だが、パーティでは危ない。


 守る対象があるときも危ない。


 昨日の剣の環で、灯への反応が一瞬遅れた理由もそこだ。


 白銀へ届くためには、目の前の刃だけでなく、盤面を見る必要がある。


 そこは俺が教えられる。


 たぶん、俺が教えるべき場所だ。


「もう一回」


「はい!」


「今度は、避けた後に出口を言え」


「出口?」


「どっちへ逃げれば庵に戻れるか」


「えっと……あっち!」


「逆だ」


「えっ」


「お前は今、地下都市の中心へ逃げようとしている。迷子の才能が高すぎる」


「そんな才能いらないです!」


 イリスが横で微かに目を細めた。


 笑った。


 たぶん笑った。


ーーーーーー


 一時間ほど訓練を続けたところで、休憩を入れた。


 ルナは訓練環の端に座り込み、肩で息をしている。ゲーム内の疲労再現は抑えめだが、集中は削れる。特に今日は、避けるだけでなく周囲を見る訓練を入れたせいで、いつもより頭を使ったはずだ。


「難しいです」


「何が」


「見ることが多いです。相手も見て、足場も見て、出口も見て、アイズドの声も聞いて」


「それが戦闘だ」


「アイズドは、いつもこれをやってるんですか」


「もっと見てる」


 ルナは少しだけ目を丸くした。


「大変ですね」


「慣れだ」


「慣れで三十本の時計を見るんですか」


「慣れと、諦めと、多少の狂気だ」


「最後が一番大きそうです」


「否定しない」


 俺は隣に腰を下ろした。


 訓練環の床は少し冷たい。人工の空から降る朝の光が、白い石に淡く反射している。


 ルーティン。


 同じことを繰り返す。


 身体を整える。


 頭を起こす。


 昨日のズレを確認する。


 今日の自分を知る。


 それは派手ではない。


 配信映えもしない。


 だが、強さの土台になる。


「プロ……じゃなくて」


 ルナが何か言いかけて、言葉を止めた。


 俺は視線だけ向ける。


「何だ」


「いえ。アイズドって、こういうの、すごく慣れてるなって思って」


「長くやってるからな」


「昔から?」


「ああ」


「昔の仲間とも、こういう練習してたんですか」


 踏み込んできた。


 だが、まだ核心ではない。


 俺は少しだけ間を置いて答えた。


「練習というより、準備だな。誰が何を見て、どこで崩れるかを確認する。そういうことを、よくやっていた」


「だから、昨日のメールにも答えられたんですね」


「そうだな」


 ルナはそれ以上聞かなかった。


 聞きたいことはあるのだろう。


 だが、今は飲み込んだ。


 その判断が、少しありがたかった。


「いつか、話しますか」


 ルナが小さく言った。


 問いというより、確認だった。


「いつかな」


「はい」


 ルナは頷き、訓練環の中央を見た。


「じゃあ、今は練習ですね」


「ああ」


「次は出口、間違えません」


「期待している」


「ちょっとだけ疑ってます?」


「かなり」


「そこは嘘でも信じてください」


「根拠のない安心は毒だ」


「またそれです」


 ルナは笑った。


 その笑顔を見て、俺は少しだけ思う。


 昔のルーティンは、壊れないためのものだった。


 勝つため。


 支えるため。


 誰かの穴を埋めるため。


 今のルーティンは、進むためのものだ。


 ルナが白銀へ届くため。


 俺が機装を扱い切るため。


 フェネキアの根の奥へ進むため。


 そして、この最高のクソゲーを、もう少し長く楽しむため。


 同じ朝。


 同じ準備。


 同じ反復。


 だが、意味は変わった。


「休憩終わりだ」


 俺は立ち上がる。


「次は、揺れる足場で地図確認」


「地図確認、逃げられないんですね」


「逃げる方向が分からない奴が、地図から逃げるな」


「正論が痛いです」


 ルナが立ち上がる。


 白狐が訓練環の端で、尾をゆっくり揺らしていた。


 イリスは腕を組み、静かに見ている。


 フェネキアの朝は、まだ始まったばかりだ。


 俺たちの新しいルーティンも、たぶん、今日ここから始まる。

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