ルーティン
翌朝、午前七時。
俺――神代 冬司は、目覚まし時計が鳴るよりも早く、正確な体内時計によって目を覚ました。
プロチーム『白騎士団』を追放され、自由な身になったとはいえ、長年染み付いた生活習慣はそう簡単に抜けるものではない。
キッチンに立ち、鶏胸肉とブロッコリーを茹で、プロテインを牛乳で割る。味気ないが、必要な栄養素を最も効率よく摂取できる完全食だ。
食事を終えると、ヨガマットを敷いて過酷な筋力トレーニングを開始する。
プッシュアップ、腹筋ローラー、スクワット、体幹を鍛えるプランク。額から汗が滴り落ち、筋肉が悲鳴を上げるまで自身を徹底的に追い込んでいく。
完全没入型VRゲームは、現実の肉体を動かさないため運動不足になると世間では思われている。だが、それは素人の浅はかな認識だ。
脳から発せられる電気信号をシステムが読み取り、極限の操作精度でアバターを動かし続けるためには、現実の肉体の『体幹』や『心肺機能』が脳の処理速度に直結してくる。
プロゲーマーが大会で数十分、数時間の激戦を戦い抜くための集中力を維持するには、強靭なフィジカルが絶対に不可欠なのだ。俺の百七十二センチの身体がバキバキに鍛え上げられているのは、すべてゲームのパフォーマンスを最大化するためである。
「……ふぅ。こんなもんか」
一時間ほどのトレーニングを終え、シャワーで汗を流した俺は、よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルを片手に、バルコニーへと出た。
時刻は午前八時半を回ったところ。
俺が住んでいる高層マンションの下層階からは、近くにある私立大学のキャンパスへと向かう、大勢の大学生たちの姿が見下ろせた。
平和で、活気に満ちた現実世界の朝の風景。
俺はペットボトルの水を煽りながら、ぼんやりとその学生の群れを眺めていた。
――その時。
「…………んんん?」
俺の視線が、人混みの中を歩く『一人の女子大生』にピタリと釘付けになった。
陽光を反射してキラキラと輝く、見事なプラチナブロンドのストレートロングヘア。
遠目からでもわかる、スレンダーでありながら女性らしい起伏を持った完璧なプロポーション。
隣を歩く友人と楽しそうに笑い合っているその横顔は、昨日、EHOの仮想世界で俺の後ろをトテトテとついてきた白銀の少女――ルナの顔と、完全に一致していた。
「……いや、まさかな」
俺は目を擦り、もう一度見下ろしたが、やはりどう見てもルナ本人にしか見えない。
EHOのキャラクタークリエイトは、初回ダイブ時にプレイヤーの現実の肉体をスキャンし、それをベースにしてアバターを生成する。性別の詐称はシステム的に不可能だが、課金アイテムを使えば、髪色や目の色、顔の造形はある程度自由にいじることができる。
現実世界での身バレ(特定)やストーカー被害を防ぐため、元の容姿からかけ離れたアバターを作成するのは、VRMMOにおける基本中の基本だ。
だが。
もし、昨日初めてVR機器を買ってダイブしたばかりの、右も左もわからない完全な初心者だったとしたら?
「……あいつ、まさか『リアルアバター』のまま、何の偽装もせずにダイブしてんのか?」
俺の背筋に、嫌な汗が伝った。
あんな圧倒的な美貌と無駄に目立つ白銀の髪(おそらくハーフか何かの地毛だろう)で、一切の偽装なしにオンラインゲームの街を歩き回るなど、全身に最高級霜降り肉を巻きつけてサバンナを歩くようなものだ。
昨日、初心者狩りの詐欺師どもに真っ先に目をつけられたのも当然である。
「アホかあいつは……。今夜ログインしたら、情報漏洩の危険性と合わせて、ネトゲの危機管理についてみっちり説教してやらねえと」
俺は呆れ半分、心配半分の溜め息を吐きながら、バルコニーから室内に戻った。
今日の午後には、いよいよEHOの大型アップデートが明け、地獄の『探求期』が始まる。
説教の準備と、俺自身の戦闘コンボの再確認。やるべきことは山積みだ。
◆ ◇ ◆
「ねえねえ、瑠奈! 昨日貸したEHOのソフト、ダイブしてみた!?」
大学のキャンパスへと続く並木道。
天沢 瑠奈は、隣を歩く親友の美咲から、興奮気味に肩を揺さぶられた。
「うん! ダイブしたよ! すっごく綺麗で、風の匂いもして……屋台で食べた串焼きなんて、現実のご飯より美味しくて感動しちゃった!」
瑠奈が花が咲いたような笑顔で答えると、美咲は「でしょー!?」と得意げに胸を張った。
北欧系の血を引く祖父から受け継いだ、生まれつきのプラチナブロンドの髪。
すれ違う男子学生たちが思わず振り返るほどの美貌を持つ瑠奈だが、彼女自身はそういった周囲の視線には無頓着で、今はただ、昨日体験した圧倒的な仮想世界の余韻に浸っていた。
「でも、瑠奈みたいな可愛い子が一人で初期の街を歩いてたら、絶対に目立つから気をつけてね。悪い人に騙されたり、初心者狩りに遭ったりするから」
美咲が釘を刺すように言うと、瑠奈は「あはは……」と苦笑いをした。
「実は、さっそく怪しい男の人たち三人組に囲まれちゃって……。よくわからないアイテムを、一万ゴルドで売りつけられそうになったの」
「ええっ!? ちょっと、大丈夫だったの!?」
「うん。危ないところだったんだけど……すごく強いプレイヤーの人が通りかかって、助けてくれたんだ!」
瑠奈の脳裏に、漆黒の長髪と鋭い三白眼を持った、無愛想な青年の顔が浮かぶ。
「その人、レベル一の初期装備だったのに、三人組の攻撃を全部ミリ単位で避けて……魔法使いが撃ってきた大きな炎の魔法も、剣で真っ二つに斬り裂いちゃったんだよ! もう、魔法みたいにすごくて!」
「……剣で魔法を? なにそれ、聞いたことないテクニックなんだけど」
美咲は怪訝そうに首を傾げた後、ジト目で瑠奈を見た。
「瑠奈。あんた、絶対その人に下心持たれてるよ。レベル一のふりをした上級者のサブ垢か何かでしょ? 可愛い初心者の女の子を助けて、優しくして取り入ろうとする『姫プ狙い』の痛いゲーマーだよ、それ」
「ち、違うよ! 全然そんなんじゃないから!」
瑠奈は慌てて両手を振り、顔を赤くして反論した。
「だってその人、助けてくれた後に私のこと『バカ』とか『無駄に目立つカモ』とか言って、すっごく口が悪かったんだから! 足手まといになったらモンスターの餌にするぞ、って本気で脅してきたし!」
「うわぁ……何その人、性格悪っ」
「でもね」
美咲がドン引きする横で、瑠奈はサファイアブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
「その人、誰よりもゲームを楽しんでたの。効率とかお金とかじゃなくて、未知のものを探して、強敵と戦うことを心の底から面白がってて……その姿が、すごくかっこよかったんだ」
――『誰も見向きもしない無駄なクエストの果てに、とんでもない隠しボスや未知の財宝が眠っているかもしれない。無駄を楽しむことこそが、最高に贅沢なゲームの遊び方だからな』
彼――アイズドの言葉を思い出し、瑠奈の胸の奥がトクンと鳴る。
砂漠の地下で見つけた、広大な都市とフェネキアの老人。そして、二人で挑戦したユニークシナリオのことは、彼との『秘密の約束』だから絶対に美咲にも言えない。
(早く夜にならないかな……)
大学の講義のことなどすっかり頭から抜け落ち、瑠奈の心はすでに、EHOの果てしない荒野へと飛んでいっていた。
「まあ、瑠奈が楽しんでるならいいけどさ。危ないことには巻き込まれないようにね?」
「うん! 大丈夫、アイズドさんが……あ、ええと、師匠がいるから!」
「師匠って呼んでんの!? 完全に手懐けられてるじゃん!」
美咲の呆れたような笑い声が、朝のキャンパスに響く。
アイズドと瑠奈。
現実世界ではただすれ違うだけの二人の運命は、電子の海で強固に結びつき、やがて世界の常識をひっくり返す大きな嵐へと成長していくのだった。




