軍師の幕引き
『ジンさん、突然ごめんなさい。夜分遅くに本当にごめんなさい。でも、どうしても……どうしてもジンさんに相談したいことがあって……』
シャワールームから上がり、首にタオルをかけたままの俺――神代 冬司は、スマートフォンに表示されたメッセージのプレビュー画面を見つめ、小さく息を吐いた。
水瀬 美怜。
俺が昨日まで所属していたプロeスポーツチーム『白騎士団』の専属ヒーラーであり、エルフのアバターを操る気弱な少女。
彼女は、チームの中で唯一、俺の地味な『見えざる知的労働』の価値を正しく理解し、慕ってくれていたメンバーだった。
「……相談、ね」
メッセージの詳細を開こうと画面に指を伸ばした瞬間。
唐突に、スマートフォンの画面が着信を知らせるコール画面へと切り替わった。
ディスプレイに表示されているのは、やはり『水瀬 美怜』の名前。
(こんな夜中に直接電話か。よっぽど切羽詰まってるな)
俺は少しだけ躊躇した後、通話ボタンをタップしてスマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
『あっ、ジンさん……!』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな、震える少女の声だった。
『ご、ごめんなさい! クビになったばかりのジンさんに、こんな夜遅くに電話なんかして……! 迷惑だって分かってるんですけど、でも、私、もうどうしたらいいか分からなくて……っ!』
「落ち着け、ミレイ。どうした」
俺がプロ時代と同じ、感情を抑えた低いトーンで促すと、ミレイは鼻をすすりながら、せきを切ったように喋り始めた。
『あ、明日の大型アップデートのことなんです……! ジンさんがいなくなってから、レオン君も神崎マネージャーも、誰も新ギミックの対策や情報収集をしようとしないんです。ただ明日の配信の見栄えのことばかり話してて……私が危ないって言っても、自分の反射神経なら全部避けられるからって、全く聞く耳を持ってくれなくて……!』
彼女の必死の訴えを聞きながら、俺は天井を仰ぎ見た。
(要するに――『いまのチームまじやばい。後先考えずに自分たちの力過信しすぎって感じ〜?』ってことか)
脳内でギャル風に要約してツッコミを入れると、深刻なはずの状況がなんだか酷く滑稽なものに思えてきた。
新しいアップデートが適用された直後のEHOは、すべての最適解がリセットされる地獄の『探求期』に突入する。
理不尽な即死ギミックと未知のタイムラインが牙を剥くその期間において、「反射神経だけでどうにかなる」などという考えは、傲慢を通り越してただの自殺志願だ。
「……ミレイ」
俺は、すっかり冷え切ってしまったコーヒーを思い出すような気分で、静かに言葉を紡いだ。
「落ち着いてよく聞け。あいつらも、遊びでやってるわけじゃない。企業を背負ったプロであり、いい大人だ。……今は調子に乗っていても、明日、実際に探求期の地獄を目の当たりにすれば、嫌でも本腰を入れて対策を練り始めるはずだ」
それは、俺なりの精一杯の慰めであり、鼓舞だった。
(……まあ、正直な本音を言えば、あの利益至上主義の神崎と、己のセンスしか信じていないレオンのコンビだ。本当に何のプランも用意していない可能性の方が高いがな)
心の中ではそう冷酷に分析しつつも。
何百時間、何千時間と苦楽を共にしてきた元チームメンバーとしての情が、俺の言葉を僅かに鈍らせていた。
彼らにも、腐ってもトッププロとしての意地と生存本能があるはずだ。窮地に立たされれば、必ず自分たちで新しい『最適解』を模索し始める。そう信じたい部分が、ゼロではなかったのだ。
『で、でも……! ジンさんの緻密なタイムライン管理がないまま未知のボスに挑むなんて、絶対に全滅します! お願いです、ジンさん! 明日だけでもいいから、外部アドバイザーみたいな形で、私たちのレイドを裏から指揮してくれませんか……!?』
すがるようなミレイの提案。
だが、俺は一切の感情を交えずに、ピシャリとそれを切り捨てた。
「断る。俺はもう、白騎士団とは何の契約もない一般人だ」
『ジンさん……っ』
「それに、だ」
俺は濡れた髪をタオルで拭きながら、あえて冷徹な響きになるように声を一段階低くした。
「ミレイ。お前、自分がEHO界隈でどれだけ人気のある『女性プロゲーマー』なのか、自覚してるか?」
『え……? な、なんですか、急に……』
「清楚で健気なエルフのヒーラー。お前の配信には、いつも数万人の男性ファンが張り付いて、高額の投げ銭が飛び交っている。お前はチームにとって、立派な『アイドル』であり『商品』なんだよ」
『そ、そんなこと……! 私はただ、皆の役に立ちたくて回復を……!』
「そのお前が、深夜にこっそり、チームを不祥事みたいにクビになった三十歳のおっさんと裏で連絡を取り合っている。……もしこの通話履歴がどこかに漏れたら、どうなると思う?」
電話の向こうで、ミレイがハッと息を呑む気配がした。
「『ミレイが元メンバーの男と裏で繋がっている』。そんな噂が立てば、お前の清純なイメージは地に落ち、ファンは暴動を起こし、スポンサーはお前を見放す。お前自身のプロ生命が終わるんだぞ」
『わ、私は……プロ生命なんてどうなってもいい! ジンさんがいないチームなんて、ちっとも楽しくない……!』
「子供みたいなことを言うな!」
俺の強い語気に、ミレイがビクッと肩を震わせたのが分かった。
「……いいか、ミレイ。俺は俺のやり方で、新しい場所を見つけた。だからお前も、プロとして自分の足で立て。俺という補助輪なしで、地獄を乗り越えてみせろ。お前の回復魔法のタイミング(ヒールワーク)のセンスは、俺が保証してやる」
『ジン、さん……』
「もう俺には関わるな。今後、俺宛ての電話やメールは一切控えるようにしろ。……じゃあな」
『あっ、待っ――』
俺は、彼女の悲痛な声を断ち切るように、通話終了の赤いボタンをタップした。
画面が暗転し、自室に重い静寂が降りてくる。
「……ふぅ」
スマートフォンをデスクに放り投げ、俺はベッドにどさりと仰向けに倒れ込んだ。
冷たい言い方だったかもしれない。
だが、これが彼女のためだ。彼女は俺のような裏方ではなく、表舞台で輝くべき才能と華を持っている。俺という過去の亡霊に縋っていては、彼女はいつまでも成長できない。
(それに……俺はもう、『軍師・ジン』じゃないからな)
目を閉じれば、数時間前に体験した、あの胸が焦げるような熱狂が鮮明に蘇ってくる。
理不尽な弾幕。ギリギリの死闘。
そして、俺の変形コンボの隙間を縫って、白銀の髪を揺らしながら美しい剣舞を舞った、あの生意気で負けず嫌いな少女の笑顔。
『私、決めました! 絶対にアイズドさんの背中を追いかけます!』
「……ククッ」
俺の口から、自然と笑みがこぼれた。
プロ時代の効率や数字の鎖は、もう完全に断ち切った。
明日からは、地獄の『探求期』。
世界中のプロたちが未知のギミックに阿鼻叫喚の悲鳴を上げる中、俺はあの規格外の初心者と二人で、誰も知らない地下都市のユニークシナリオをしゃぶり尽くす。
「待ってろよ、EHO(神ゲー)。明日はもっと、俺を楽しませてくれよ」
俺は天井に向かって右腕を伸ばし、仮想のガントレットを握りしめるように、強く拳を握った。
過去への未練は、もう一ミリもない。
ただ純粋なゲーム狂としての本能だけを胸に抱き、俺は深い眠りへと落ちていった。




