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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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失業した軍師


「レオン、三秒後にヘイトが剥がれる。そこで前に出るな」


 俺の声は、ひどく平坦だった。焦りもなければ、怒鳴るほどの熱もない。ただ、盤面の上に存在する数字を読み上げただけの声。


 けれど、画面の向こうの男――白騎士団の若きエース、レオンは、舌打ちひとつでそれに応えた。


「またかよ、ジンさん。今なら押し切れるだろ」


「押し切れない。次の乱数行動でタンクの挑発が一枚腐る。お前が前に出れば、ボスの向きが三十度ずれて後衛が死ぬ」


「細けぇな……!」


 細かい。たしかにそうだろう。


 視聴者から見れば、レオンが巨大な剣を振り下ろし、ボスのHPバーを大きく削る瞬間こそが戦闘の華だ。燃え盛る剣閃。弾けるエフェクト。跳ね上がるダメージ表示。配信画面のコメント欄が沸騰するのは、いつだってそういう瞬間だった。


 だが、俺が見ているものはそこではない。


 ボスの右肩が沈む。次に来るのは、前方百八十度を薙ぎ払う広域攻撃。床に赤い予兆円が走るより、半拍早く分かる。腕の角度、踏み込みの深さ、モーション開始時の硬直時間。そこから導き出される攻撃範囲は、すでに頭の中に重なっていた。


 前衛三人の位置。後衛二人の詠唱残り秒数。ヒーラーの保有している即時回復の枚数。タンクの防御バフの残り時間。レオンが今ここで欲を出した場合に発生する、最悪の分岐。


 それらが、青白い線となって視界の奥に浮かんでいる。ゲーム画面の中に見えているわけではない。長くやりすぎた人間の頭が、勝手に描いてしまう幻のようなものだ。


「ミレイ、軽減を後ろ三人に。レオンには回さなくていい」


「えっ、で、でも、レオンさんのHPが……!」


「死なない。死ぬように見えるだけだ」


 ミレイの声が震えた。彼女は白騎士団の中では珍しい、真面目で気弱なヒーラーだった。判断は遅い。反応も速いとは言えない。だが、こちらの指示に対する実行精度だけは高い。


 だから俺は、彼女に細かな判断を求めない。判断はこちらで済ませる。彼女は、必要なタイミングで、必要なスキルを押せばいい。


「二秒後に《セイクリッド・ヴェール》。そのあと通常回復を捨てて、蘇生詠唱の準備」


「蘇生、ですか?」


「ああ。死ぬのはレオンじゃない」


 次の瞬間、ボスの巨腕が床を薙いだ。


 赤い予兆円の外にいたはずの若手アタッカーが、半歩だけ反応を遅らせる。直撃。HPバーが一瞬で消し飛び、アバターが光の粒になって崩れた。配信画面の向こうで、誰かが短く悲鳴を上げる。


 だが、戦線は崩れない。


 ミレイの蘇生詠唱は、すでに始まっていた。ボスのヘイトは、俺が十秒前から仕込ませていた挑発の重ね順どおり、重装騎士のバルドへ滑るように移る。


 レオンのHPは残り七パーセント。赤く点滅する瀕死表示。視聴者から見れば、紙一重の危機。実際には、まだ二枚余裕がある。


「レオン、《乱れ雪月花》無理やり三段目で止めろ」


「止める? 四段目まで入る!」


「四段目を入れたら、硬直中に死ぬ」


「っ……!」


「三段目で止めろ。次の十秒でお前に最大火力を出させる」


 一拍だけ沈黙があった。


 レオンは不満を押し殺すように息を吐き、剣を振るった。一段。二段。三段。そこで、彼は踏み込みを止める。


 直後、ボスの足元から黒い杭が噴き上がった。四段目を振っていれば、硬直中のレオンを串刺しにしていただろう。


「……マジかよ」


「マジだ。バルド、防御を捨てろ。ヘイト維持だけでいい。ミレイ、レオンに単体強化。カイル、デバフ更新。残り二十秒で削り切る」


 指示が声になって流れ出す。


 俺のアバター――軍師ジンは、後衛のさらに後ろ、戦場全体を見渡せる位置に立っていた。手元に派手な武器はない。火力を出すスキルもない。巨大な盾で仲間を守るわけでもなければ、瀕死の仲間を光で包むわけでもない。


 ただ、次に何が起こるかを読む。


 誰がどこでミスをするかを予測する。そのミスが致命傷になる前に、別の誰かの行動で穴を塞ぐ。


 ヘイト。軽減。クールタイム。薬品在庫。詠唱硬直。敵の乱数行動。味方の癖。配信映えのために、レオンが本来より一歩前に出たがること。緊張すると、ミレイが全体回復を早押ししすぎること。バルドが仲間を守ろうとして、防御バフを抱え落ちしがちなこと。


 そういう、画面のどこにも数値として出ない情報を、俺は全部拾っていた。


 そして、組み直す。勝てる盤面に。崩れない形に。誰かのファインプレーに見える結末に。


「今だ、レオン」


「おおおおおおおおおっ!」


 レオンの剣が、白金の光を纏った。


 必殺スキル《天下五剣》。彼の代名詞とも言える大技が、レイドボスの胸部装甲を真っ二つに裂く。遅れて、爆発的なエフェクトが画面いっぱいに広がった。


 ボスのHPバーが、最後の一ドットまで削り取られる。


 討伐完了。


 システムメッセージが表示されるのと同時に、ボイスチャットが歓声で埋まった。


「っしゃああああああ!」


「レオンさん、ラストかっこよすぎ!」


「今の完全に神クリップでしょ!」


「コメントやばいです! 同接、今日最高値です!」


 若手たちの声が弾む。レオンは荒い息を吐きながら、笑っていた。配信画面のコメント欄には、彼を称える言葉が滝のように流れていく。


 ――レオン最強。


 ――最後の一撃えぐすぎ。


 ――白騎士団の王子、やっぱ華あるな。


 ――ジンさんもいた?


 最後のコメントだけが、妙に目に残った。


 ジンさんもいた?


 いた。


 ずっといた。最初から最後まで、俺はそこにいた。


 レオンが死なない位置に立たせた。ミレイの回復を腐らせないようにした。バルドの挑発を十秒前から積ませた。若手のミスを予測して、蘇生を先に置いた。レオンが最後の一撃を撃てるように、二分前から火力配分を調整していた。


 だが、それは画面には映らない。


 映ったとしても、見えない。


 見えない仕事とは、そういうものだ。


 誰かが失敗する前に消してしまえば、それは最初から何も起きなかったのと同じになる。壊れる前に支えた土台は、支えたことさえ気づかれない。


 俺はログを開き、討伐時間、被弾回数、支援の重複、回復の過剰量を確認した。ミレイの全体軽減が一回、〇・八秒早い。レオンの三段止めは成功。バルドの挑発は一枚余り。若手アタッカーの死亡は、立ち位置の癖を修正すれば次回防げる。


 次に直す。


 いつもの作業だ。


 勝った。


 今日も、勝った。


 だからその夜に呼び出されたとき、俺は当然、次の探求期に向けた打ち合わせだと思っていた。


ーーーーー


「ジンさんには、来期からトップパーティを外れてもらおうと思っています」


 会議用のプライベートチャンネルで、神崎マネージャーはそう言った。


 声は穏やかだった。申し訳なさそうで、けれど決定事項を読み上げる人間特有の硬さがあった。


 俺は一拍、言葉の意味を測りかねた。


「外れる、というのは」


「攻略一軍から、です」


 モニターに並んだ参加者アイコンの中で、レオンだけがわずかに目を伏せた。他の若手二人は無言だった。ミレイはいない。


 この場に呼ばれているのは、俺とレオンと、神崎マネージャーと、運営側の数名だけ。つまりこれは相談ではなく、通告なのだろう。


「理由を聞いても?」


「もちろんです」


 神崎は、あらかじめ用意していたらしい資料を共有した。画面に折れ線グラフが表示される。配信同時接続数。切り抜き動画の再生数。スポンサー広告のクリック率。グッズ販売の推移。攻略配信における視聴者維持率。


 数字は正直だった。


 レオンが前面に出ている動画は伸びる。若手が派手なスキルを撃つ場面は、切り抜きとして回る。俺が作戦説明をしている時間は、視聴者が離れる。


 俺の声だけが淡々と響き、画面の中で誰も派手なことをしていない数十秒。そこに、数字は残酷なほど分かりやすく谷を作っていた。


「ジンさんの貢献を否定するつもりはありません」


 神崎は言った。


 その言葉が、本心からのものだということは分かった。分かってしまった。


「ですが、プロチームとして活動を続ける以上、勝利だけではなく、見せ方も必要です。スポンサーからも、より分かりやすいスター性のある構成を求められています。レオンを中心にした新体制を作りたいんです」


「それで、俺は邪魔になると」


「邪魔、ではありません。ただ……」


 神崎は、そこで初めて言葉に詰まった。


 数秒の沈黙。やがて彼は、覚悟を決めたように続けた。


「ジンさんの仕事は、視聴者に伝わりにくいんです」


 画面越しに、部屋の空気が冷えた気がした。


「ヘイト管理。軽減回し。薬品相場の管理。攻略マニュアルの更新。メンバーごとの癖の修正。もちろん、どれも重要です。ですが、それは配信で見ても、何がすごいのか分かりにくい。レオンの一撃は、誰が見ても分かります。ミレイの大回復も分かりやすい。でも、ジンさんの仕事は……すみません。地味なんです」


 地味。


 その二文字は、驚くほど正確に俺を刺した。


 罵倒ではない。悪意でもない。だからこそ、避けようがなかった。


 たぶん俺は、もっと理不尽な言葉なら怒れたのだと思う。お前はもう必要ない。若いやつの邪魔だ。指示がうるさい。そんなふうに言われたなら、こちらもいくらでも反論できただろう。


 だが、地味。


 それは、ある意味で正しい。


 俺の仕事は、派手であってはならない。問題が起きる前に消す。失敗が表に出る前に別の手で受ける。誰かのミスがミスとして観測されないように、戦場全体の形を整える。目立った時点で、それはすでに失敗の後なのだ。


「今日の討伐ログを出せば、俺の必要性は説明できる」


 俺は言った。言いながら、その言葉に意味がないことも分かっていた。


「レオンの被弾予測、ヘイト移動、蘇生予約、軽減の最適化。数字なら出せる」


「はい。出せると思います」


 神崎は頷いた。


「でも、それをスポンサーに説明して、視聴者に理解してもらって、チームの魅力として売るには時間がかかります。今の市場では、そこまで待てないんです」


 市場。


 その単語が、奇妙に遠く聞こえた。


 ゲームの話をしているはずなのに、いつの間にか俺たちは市場の話をしていた。勝つために必要なもの。売れるために必要なもの。その二つが、必ずしも同じではないことを、俺はとっくに知っていたはずだった。


 それでも、どこかで勘違いしていたのかもしれない。


 勝てばいい。勝ち続ければ、必要とされる。そう思っていた。いや、思いたかった。


「レオンはどう思ってる」


 俺は、画面の端に表示された彼のアイコンを見た。


 レオンはしばらく黙っていた。いつものような強気な笑いはない。彼はたぶん、悪いやつではない。若くて、才能があって、派手で、勝ち気で、そして自分がチームの顔であることを理解している。


 だからこそ、言葉を選んでいた。


「……ジンさんには感謝してる」


 やがて、彼は言った。


「本当に。今日だって、俺が最後まで立っていられたのはジンさんの指示のおかげだって分かってる。でも、俺たちはもっと上に行かなきゃいけない。白騎士団を、もっと大きくしなきゃいけないんだ」


「そのために、俺はいないほうがいい」


「そういう言い方は……」


「違うのか」


 レオンは答えなかった。


 沈黙は、たいていの言葉より正確だ。


 反論の材料なら、いくらでもあった。


 今日の討伐で、レオンが何度死にかけたか。俺がいなければ、白騎士団の遠征コストがどれだけ膨れ上がるか。探求期が来たとき、固定化されたマニュアルだけでどこまで戦えるのか。若手たちが、まだ自分の失敗の理由さえ理解できていないこと。白騎士団という名前の下に積み上がっている見えない土台の大半を、誰が毎晩更新してきたのか。


 全部、言える。


 言えてしまう。


 けれど、言ったところで届かないことも、見れば分かった。


 彼らは無能ではない。神崎マネージャーは、プロチームを維持するために必要な判断をしている。レオンは、チームの顔として数字を背負っている。スポンサーは、金を出した分だけ分かりやすい成果を求めている。視聴者は、数秒で伝わる熱狂を欲しがっている。


 その世界で、俺の仕事は遅すぎる。


 見えなさすぎる。


 地味すぎる。


 つまり、俺は最適化の結果、切り捨てられる側に回っただけだ。


 笑えるほど、よくできた話だった。


「分かった」


 ようやく出た声は、自分でも少し驚くほど平坦だった。


「来期から外れる。マニュアルとログ解析の引き継ぎは、明日までにまとめておく」


「ジンさん」


「問題ない。世話になった」


 神崎が何かを言いかけた。


 レオンも、たぶん何かを言おうとした。


 だが、俺はそれを待たずに通話を切った。


 誰も、引き止めなかった。


ーーーーー


 ヘッドセットを外すと、現実の部屋が戻ってきた。


 モニターの光だけが、暗い部屋の中で薄く揺れている。机の上には、冷めきった缶コーヒー。食べかけの栄養バー。書きかけの攻略メモ。白騎士団のロゴが入ったマグカップ。


 それらは昨日まで、仕事道具だった。


 今はもう、ただの残骸に見えた。


 神代冬司、三十歳。職業、プロゲーマー。だった男。今日付けで、無職。


 怒りが来ると思っていた。屈辱も、悔しさも、もっと分かりやすい形で胸を焼くものだと思っていた。


 けれど、最初に来たのは何もなかった。


 何もない、という感覚だけがあった。


 広い空白。音の消えた部屋。自分の中に何かが抜け落ちたようで、けれど同時に、肩からひどく重いものが外れたようでもあった。


 俺は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。


 勝つための手順なら、いくらでも組めた。誰が何秒後にスキルを吐き、どのタイミングでヘイトが剥がれ、どの回復が腐り、どの火力が通るか。そんなものは、見れば分かる。分かってしまう。


 ボスのモーションを見れば、次の攻撃が分かる。味方の声色を聞けば、次のミスが分かる。ログを眺めれば、チームの限界が分かる。


 分かるから、塞いだ。塞げるから、任された。任されたから、勝たせた。勝たせ続けた。


 気づけば、俺にとってゲームは盤面になっていた。


 敵も味方も、スキルも装備も、相場も配信も、全部が勝つための変数だった。勝利条件を満たすために、不要なものを削り、必要なものを積み上げる。そうして残った最短経路を、ただなぞる。


 それは仕事だった。


 たぶん、とてもよくできた仕事だった。


 だが。


 最後に、勝ち負けと関係なく笑ったのはいつだっただろう。


 記憶の中を探しても、出てこない。


 初めてVRの草原に立った日。意味もなく空を見上げたこと。低レベルのスライムに追いかけられて、友人と笑ったこと。名前も知らないNPCの話を最後まで聞いて、何の得にもならない花を貰ったこと。


 そういう、攻略チャートには載らない記憶が、どれも古いフィルムみたいに色褪せていた。


 いつからだ。


 俺はいつから、ゲームを遊ばなくなった。


 冷蔵庫を開ける。中には昨日買ったコンビニ弁当が一つと、安い炭酸水が二本。弁当を電子レンジに入れ、温まるまでの時間をぼんやり待つ。


 普段なら、この三分の間に次回レイドのログを確認していた。


 今夜は、何もしなくていい。


 誰の装備更新も見なくていい。ミレイの回復タイミングを修正しなくていい。レオンが配信で映えるように、危険すぎず簡単すぎない攻略手順を組まなくていい。スポンサーに提出する遠征費の試算もいらない。


 白騎士団の勝利は、もう俺の仕事ではない。


 電子レンジが鳴った。


 俺は弁当を取り出し、蓋を開け、箸を割る。味は、よく分からなかった。ただ、食べた。腹を満たすという行為だけが、やけに現実的だった。


 モニターには、まだエターナル・ホライゾン・オンラインのランチャーが表示されている。


 世界で数千万人が接続する完全没入型VRMMO。攻略情報が金になり、レア素材が現実の口座残高に変わり、トッププレイヤーの一挙手一投足が切り抜かれて消費される巨大な箱庭。


 俺が、ずっと仕事場にしてきた世界。


 そこには今も、いつもの効率と競争と数字の海が広がっている。


 ログインすれば、たぶん誰かから連絡が来ているだろう。ミレイあたりは、事情を知らずに心配しているかもしれない。レオンは、何も送ってこないかもしれない。神崎は、引き継ぎ資料の件で丁寧なメッセージを寄越すだろう。


 どれも、想像できた。


 想像できるものは、ひどく退屈だった。


 俺は食べ終えた弁当の容器を片付け、もう一度椅子に座った。


 ヘッドセットが、机の端に置かれている。黒いバイザーの表面に、疲れた男の顔が映っていた。


 少し伸びた無精髭。目つきの悪い三白眼。年齢より少しだけ乾いた顔。


 プロゲーマー、神代冬司。


 その肩書きが、今日剥がれた。


 なら。


 その下には、何が残っているのだろう。


ーーーーー


 眠れないまま、俺はヘッドセットに手を伸ばした。


 深夜の部屋に、起動音が小さく響く。バイザーを装着すると、視界が暗転した。


 次に現れたのは、見慣れたログイン空間。


 黒い水面のような床。星の粒を散らしたような仮想の夜空。中央に浮かぶ、EHOのロゴ。


 エターナル・ホライゾン・オンライン。


 永遠の地平線。


 よくできた名前だと思う。


 誰もが同じ地平線を目指しているようで、その実、走る方向は金と効率と承認によって細かく仕切られている。


 攻略組は最速を求める。企業勢は安定収益を求める。配信者は視聴者の熱狂を求める。生産職は相場の隙間を求める。情報屋は、誰かがまだ知らない事実を求める。


 そして俺は、ずっと勝利を求めてきた。


 いや。


 求めていたことに、していた。


 ログイン画面には、いつものアカウントが表示されている。


 軍師ジン。白騎士団所属。レベル八十。実績、称号、フレンドリスト、保有資産、過去の攻略ログ。


 そこには、俺が仕事として積み上げてきたものが詰まっていた。


 だからこそ、指は止まった。


 この名前でログインすれば、俺はまたジンになる。白騎士団を外れたとしても、誰かのログを読み、誰かの失敗を予測し、誰かの勝利のために盤面を組む人間に戻る。


 それは楽だ。慣れている。勝ち方なら、知っている。知りすぎている。


 だが、俺が今知りたいのは、勝ち方ではなかった。


 少しだけ迷って、俺はメニューを開いた。


 新規アバター作成。


 その項目を選んだ瞬間、目の前の空間が静かにほどけた。白い光が集まり、人型の輪郭を作る。


 性別。体格。髪型。顔立ち。初期装備。どれも、見慣れた設定項目だった。


 プロ時代なら、まず初期ステータスの成長補正を確認しただろう。種族特性の期待値を計算し、環境上位職への派生ルートを洗い出し、最短でレベルキャップに到達するための狩場を組む。


 それが正しい。


 それが効率的だ。


 それが、勝つための作り方だ。


 俺は、何も考えずに設定を進めた。


 身長は少し高め。髪は黒。目つきは現実より少しだけ鋭く。派手な装飾はない。誰かの記憶に残る必要もない。配信映えする必要もない。スポンサーに説明しやすい必要もない。


 ただ、自分がこの世界を歩くための入れ物であればいい。


 最後に、名前の入力欄が現れた。白い枠の中で、カーソルが点滅している。


 ジン。


 その名を入力しようとして、指が止まった。


 違う。


 あれは仕事の名前だ。誰かの勝利を支えるために、見えない土台であり続けた男の名前だ。


 なら、新しい名前は何にする。


 強そうな名前。覚えやすい名前。検索に引っかかりやすい名前。いくつかの候補が浮かんでは消える。


 どれも違った。


 今の俺に必要なのは、誰かに見つけてもらうための名前ではない。誰かに意味を説明するための名前でもない。


 ただ、自分がこの世界で、もう一度何かを見るための名前。


 凍りついた地平線の向こう。誰も読まなかった仕様の余白。攻略サイトが価値なしと切り捨てた場所。マニュアルに書かれていない道。


 そういうものを、もう一度、自分の目で見に行くための名前。


 俺は、ゆっくりと文字を打った。


 アイズド。


 意味は、まだ分からない。


 語感だけで決めたと言えば、それまでだ。けれど、その不確かさが妙に心地よかった。


 効率的ではない。説明もしづらい。検索性も悪い。だから、今の俺にはちょうどよかった。


 決定キーに指を置く。


 その瞬間、わずかに胸の奥が鳴った。


 期待、というには小さい。不安、というには軽い。たぶんそれは、ずっと前に置き忘れてきた感覚だった。


 ゲームを始める前の、あの意味のない高揚。


 勝てるかどうかも分からない。何が待っているかも分からない。けれど、知らない場所へ行けるというだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


 俺は決定キーを押した。


 白い光が、視界いっぱいに広がる。


 ログイン処理が走る。


 新規アバター、アイズド。


 所属ギルド、なし。


 職業、未定。


 実績、なし。


 称号、なし。


 フレンド、なし。


 背負うものも、守るべき看板も、勝たなければならない理由もない。


 何もない。


 それが、こんなにも軽い。


 勝ち方なら、全部知っている。


 だが、遊び方は忘れていた。


 たぶん、ずいぶん長いあいだ。


 だから俺は、失業した日に、ようやくゲーマーへ戻った。

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