【12】指定忘却
(あれが……ミレーヌのお兄さん!)
ミレーヌの兄シモンが、フラフラとこちらに近づいてくる。
その顔は左半分が赤黒く染まっていた。虚ろな表情、淀んだ目、半開きになった口からは舌がダラリと垂れて、涎を垂らしている。
「ああああああああ!」
シモンが頭をガクガクと震わせ、血を吐くような声で叫びながら、ミレーヌに手を伸ばした。
ミレーヌがヒィッと息を呑んで、その場にへたり込む。
テオは咄嗟に前に飛び出し、己の心臓に手を当てた。意識を集中。
「『呪装顕現──汝、騎士たれ』」
心臓がカッと熱くなる。そこから呪いが血潮のように溢れ出し、テオが望むように形を変えた。片手剣、盾、マント、ブーツ──テオは握った剣の側面で、シモンの手を叩く。
シモンは怯むことも、悲鳴をあげることもなく、ミレーヌに迫ってきた。
(まずい)
シモンを切り捨てるわけにはいかない。なのにシモンは痛みを感じていないかのように、怯まず襲いかかってくるのだ。
その時、シモンの背後に回り込んだオズワルドが、腰の剣を抜いてシモンの背中に剣を振り下ろした。
「ふんっ!」
「グレゴリー隊長っ!?」
シモンが痙攣しながら地面に倒れる。
テオはギョッとした。ミレーヌの前で、兄を斬り捨てるなんて……!
非難の目を向けるテオに、オズワルドは冷静な声で告げる。
「よく見ろ」
地面に倒れるシモンの横に、赤黒い塊が落ちている。人の頭より一回りか二回り小さい球体だ。その表面には血管に似た管が浮かび上がっている。
「この球体が、背中に張りついていたから、切り落としたんだ」
球体は既に硬化が始まっていた。ということは、これは球体型の呪魔なのだろうか?
(……違う)
シモンの全身の呪斑はまだ消えていない。シモンを呪った呪魔は、まだ生きている。
(シモンさんは、呪われているのに動き回っていた……まるで、歩く呪いみたいに)
だが、おそらくシモンは歩く呪いではないのだろう。全身の呪斑は明らかに呪印とは別物だし、背中の球体を切り落とされた今は、グッタリとして動かない。
オズワルドがシモンの脈を確認しながら言う。
「この青年は、歩く呪いではなく、通常の呪い憑きだ。そこにこの球体を取り付けることで、呪い憑きを操る能力があるのかもしれない」
その時、テオの背後で悲鳴が響いた。ミレーヌがワァワァと大泣きしているのだ。
テオはミレーヌを安心させようと振り返った。
「ミレーヌ、大丈夫だよ。お兄さんはまだ……」
「こないで! 黒い人、こわい! こわい! こわい!」
黒い人──それが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
ミレーヌの視線の先にいるのは、テオだ。
黒い剣、盾、マント、ブーツ──呪いの力で身を固めた、異形の騎士だ。
「黒い人が、お兄ちゃんを叩いたぁ!」
テオは今更思い出した。そうだ、呪装で身を固めた灰色騎士は、得体のしれない不気味な存在だ。怖がられるに決まっているではないか。
火がついたように大泣きしている幼い少女に、テオは何と声をかけて良いか分からなかった。
(そうだ、呪装を解除して……)
「駄目」
テオの心を読んだかのように、カルラが囁く。
彼女の背中から赤黒い羽が飛び出した。小さな手には同色の大鎌が握られている。彼女の呪装だ。
「まだ、いる」
そう言ってカルラは地面を蹴り、木々の奥に向かって飛んだ。そこから人影が飛び出してくる。シモンと同じように、全身が呪斑で赤黒く斑らに染まった人間だ。
カルラは器用に男の背後に回ると、大鎌で背中の球体を切り離す。それだけで、男はシモンの時と同じように地面に倒れた。
「あと、三人」
カルラの言葉通り、木々の間からユラユラと村人らしき人間が姿を見せる。いずれも体に呪斑が浮かび、背中に球体を貼りつけている。
オズワルドが剣を構えて声をあげた。
「役立たずは健常者の保護、ニコラは呪い憑きの保護! 他の者は球体の切断をしろ!」
健常者とは呪われていない一般人──この場合はミレーヌのことだ。
戦闘に参加していないヒューゴが、ミレーヌに声をかけた。
「ほら、逃げようぜ。フワフワちゃんも一緒に、なっ?」
「やだぁぁぁぁ、お兄ちゃんが良いぃ!」
ミレーヌは、地面に倒れるシモンに駆け寄ろうとする。それをヒューゴが慌てて押し留めた。
一方、呪い憑き──地面に倒れたミレーヌの兄シモンのそばには、聖騎士のニコラが寄り添い、症状の確認をしている。
残るテオ、カルラはオズワルドとともに、襲いかかってくる村人の対応だ。
テオは一番近くにいる村人と対峙した。体格の良い中年の男で、手には鍬を握りしめている。
初めて呪装顕現をして、呪魔と対峙した時のように、〈忘我〉の呪いを使えば、一時的に自分が何者かを忘れさせることもできる。
だが、発動に数秒かかるので、この状況には適していない。それより球体を切断した方が早いだろう。
「やぁっ!」
テオは剣を構え、黒いブーツで地面を蹴った。
呪装顕現の力で強化されているテオは、足が速い。普段以上に速く動くので、最初の内は慣れずに何度かすっ転んだが、ベリルとの訓練で実戦で使える程度には慣れた。
(僕の足が速く動くんじゃなくて、すごく速く走るブーツを履いていると思えばいい)
そのブーツのリズムに意識を合わせるイメージで地を蹴り、男の背後に回る。
(距離感を、見誤るな)
アレンとの剣の訓練で何度も言われたことだ。テオの腕は短いんだよ──アレンの辛辣な言葉を思い出しつつ、男の背中と球体の間に、慎重に剣を振り下ろす。
スパッ、と軽い手応えが剣越しに伝わってきた。球体が地面に落ち、硬化を始める。
同時に村人が地面に倒れた。倒れた時に鍬が頭に刺さったら大変だ。テオは咄嗟に村人の体を支えた。
(残る二人は……)
振り向くと、既にオズワルドは一人無力化していた。少し遅れてカルラがもう一人も無力化する。それを確認して、オズワルドはカルラに命じた。
「この場はもういい。羽持ちは空から呪魔を探せ。他の聖騎士がいたら召集と伝えろ」
「……了解」
カルラは小さく頷き、一瞬だけテオを見た。そうして無言で地面を蹴り、飛び上がる。
オズワルドはテオのそばにやって来ると、足下に倒れている男を調べた。
「こちらも同じだな。背中の球体を切り捨てても、呪斑は残っている。呪いを植え付けた呪魔本体はどこかにいるはずだ」
「……はい」
「三等級以上の呪魔の中には、自身の分身体を放つ者もいる。そういうタイプは分身体とあまり距離を空けられないケースが多い。本体は近くにいると見て良いだろう」
オズワルドは慎重に当たりを見回してから、剣をおさめる。
「遠くに逃げられる前に仕留めるぞ。絶対だ」
ミレーヌの兄シモン達が呪い憑き化している以上、残された時間は少ない。一刻も早く、呪魔本体を叩かないと、シモン達が呪魔化してしまう。
そうなったら……呪魔になる前に、殺すしかないのだ。
テオ達の焦燥を煽るように、ミレーヌの泣き声が響く。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! やぁぁああああ! わぁぁああああ!」
ヒューゴがミレーヌを後ろから抑え、ニコラが「近づいちゃ駄目だよー」と宥めているが、ミレーヌはバタバタと手足を振り回して暴れている。
足下に落ちたレニーは、コロンコロンと転がって無力に「めう」と鳴いていた。
「おい、テオ!」
ミレーヌを抑え込んでいるヒューゴが、テオを呼ぶ。
ミレーヌを宥めるのを手伝えということだろう。呪装顕現を解除して駆け寄るテオに、ヒューゴは言った。
「お前、忘却できんだろ?」
「…………」
「だったら、今の光景忘れさせてやれよ。変貌した兄貴に襲われたなんて、トラウマもんだろ」
半身が赤黒く染まった体、理性と正気を失くし、襲いかかってくる親しい人間。確かにそれは、幼い少女の心を抉る光景だろう。
ヒューゴの提案は、幼い少女に対する当たり前の優しさだ。
「……そう、だな」
答える口元が、皮肉気に歪んだ。
ミレーヌはワァワァと泣き叫んでいる。こんな恐ろしい光景、幼い少女に背負わせるべきじゃない。そんなこと分かっている。
(分かっている、のに……)
テオは葛藤を腹の奥に押し込み、ミレーヌの額に指先で触れた。
〈指定忘却〉は、心の中にある日記帳のページを破る行為に似ている。ただし、その日記帳はページ数が膨大で、特定の記憶を探し出すのが難しい。だから、まずはその記憶について思い浮かべてもらう必要があった。
ミレーヌの場合、「一番辛い記憶を思い浮かべて」なんて言う必要はない。今彼女の頭を占めているのは、まさにその辛い記憶そのものなのだから。
消したい記憶を確認し、日記帳の該当ページに指先で触れる。ミレーヌの額に触れるテオの指先から、白い霧が流れ出す。
「『忘却よ、在れ』」
日記帳のページを破りとるイメージ。破られたページは、テオの手の中で崩れ落ち、消えていく。
(この記憶は、もうどこにもない)
泣き叫んでいたミレーヌは呆けたような顔でぼうっとしていたが、カクンと前のめりに倒れ込んだ。その体をテオは正面から支えてやる。
「……次に起きたら、怖い思い出は忘れていると思う」
「へぇ、やっぱ便利じゃん」
テオは、ヒューゴに対する反論を飲み込んだ。
自分の忌まわしい呪いで、誰かを救うことできたなら、それはきっと良いことだ。
(だけど……この子は……)
込み上げてくる自分勝手な叫びを押し殺し、テオはミレーヌを背中に背負う。
少女の寝顔は安らかで、それだけが救いだった。




