118.火熊と母子
「火熊が出たぞー!」
誰かが叫び、村はパニックになった。
火熊とは強力な魔物である。
普通の剣や弓矢をはじく硬い毛皮、巨大な岩を一撃で砕く剛腕を持ち、さらに火を吐いて村を火の海にする恐ろしい存在だ。
「逃げろ! とにかく逃げろ!」
「村長から馬を借りて、街に走らせろ! 冒険者を呼ぶんだ!」
自警団など小さな村にはない。
一部の男たちが桑や鎌、棒を持って火熊を足止めするために立ち向かう。
火熊は後ろ脚のみで立ち上がり、火を吐いた。
「うわあああああ」
村人たちになすすべはない。
彼らは徴兵されて戦闘訓練を受けていると言っても、戦士としての適性が低かった者たちだ。
適性が高い者は騎士になったり国軍に入ったり、冒険者になったり、領主の私兵になっている。
帝国がいくら屈指の国力と軍事力を誇ると言っても、さすがに戦闘員になれなかった者たちまで精鋭というわけにはいかなかった。
火熊はあざ笑うように人々を鋭利な爪で切り裂き、剛腕で吹き飛ばす。
そして逃げる人々を追いかけた。
火熊の走る速さは馬に匹敵し、普通の人ではまず逃げ切れない。
小さい女の子を左腕に抱え、右手で男の子の手を引いて必死に逃げていた母親の前に火熊は回り込む。
後ろから襲えたのにわざわざ回り込んだのは、火熊は襲う相手の恐怖心を楽しみたいという残酷な欲望を持っているからだ。
「ひっ……」
母親は真っ青になってその場にへたりこんでしまう。
夫は運悪く村の外に仕事で出かけていて、頼りにはならない。
「このー、あっちいけー!」
男の子が近くに転がっていた小石を拾って火熊に投げつける。
もちろんそんなものが通じるはずがなかった。
「グガアアアアッ!」
火熊はわざとらしく吠えた。
「ヒッ!」
母親はおびえ、少女は泣き出し、少年はビクッと震えながらももう一度石を手に取って投げる。
彼を動かすのは「父親がいない以上、自分が母と妹を守る」という使命感だった。
そんな小さな勇気を蹂躙しようと、火熊はゆっくりと近づく。
母親はとっさに息子を手を引いて抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
火熊は標的を母親に変え、右腕を振り上げた瞬間、その側頭部を強烈な衝撃が襲った。
二階建ての建物より高い身長と、それに見合った体重を誇るはずの火熊の巨体が浮き上がり、一回転して地面に激突する。
「何となく寄ってみる気になって正解だった」
と言ったのは火熊を蹴り飛ばした本人で、黒いフードにマント、そして白い仮面をかぶっている怪しい風体の男だった。
母子にしてみれば危ないところを助けてくれた恩人である。
しかし、火熊はまだ死んでおらず怒りの咆哮をあげながら、立ち上がった。
惰弱な人間をたっぷりおびえさせてからじっくり嬲り殺すという、火熊にとって楽しい時間を邪魔されたのである。
火熊なりの怒りを抱く理由はあったが、仮面をかぶった男は冷ややかに笑う。
「逃げ帰って二度と人間を襲わないのであれば、見逃すことも検討したのだが」
男の言葉に対して火熊は火を吐くことで応えた。
母親と男の子から悲鳴があがるが、すぐに消える。
男の体を包む金色の光が壁となって火を跳ね返していることに気づいたからだ。
「エルブス」
男がそう言うと光の矢がたくさん出現し、火熊へ飛んでいく。
鉄の武器を簡単にはじくはずの毛皮や筋肉を、やすやすと貫いて無数の血しぶきが舞った。
「わが光、災厄の闇を切り裂き、人々に希望を示さん……」
男は小声でつぶやく。
火熊が倒されるところを離れたところから見ていた村人たちが一斉に歓声をあげた。
「あ、危ないところをどうもありがとうございました」
母親はようやく立ち上がり、礼を言う。
「これも私の役目のひとつだ」
「あの、お名前は?」
「バルトロメウス」
バルは名乗ると彼女たちに背を向ける。
「あ、あなたがバルトロメウス様!?」
さすがにバルトロメウスの名前は地方の小さな村でも知られているようだった。
立ち去ろうとする彼を、少年が呼び止め話しかける。
「俺、もっと強くなりたい! 母ちゃんと妹を守れるくらいに! どうすればいいんだ!?」
「強さとは優しさだ。優しさとは弱さを知ることだ。弱くて悔しい気持ちを忘れるな。弱い人に優しくなれ。それが強さへの一歩だ」
足を止めたバルは振り向いて少年に優しく答えた。
「弱い人に優しく……?」
「母と妹を守ろうとする君は強かったぞ。君のように誰かを守ろうと頑張れる子は、きっと立派な大人になれる」
「で、できるかな?」
少年は不安そうだった。
「できるさ」
「う、うん! 頑張る!」
少年は袖で涙をぬぐい、笑顔で去り行く男の背中に手を振った。




