傷跡
今日の事は誰にも言えない。
祥太は家に帰るなり、部屋に閉じこもった。
誰にも言っちゃいけないのだ。あれは夢なのだ。
イスに座ってぼうっとしていると、部屋をノックする音がした。
「祥太、風呂沸いたぞ。入れ」
兄の裕一である。
「うん……」
祥太はのろのろと立ち上がった。背中が痛い。
いたるところにできたかすり傷は、血は止まったが洋服が擦れるたびに痛かった。そして、痛むたびに宏人の顔が思い浮かんだ。
祥太はパジャマを持って階段を下りた。脱衣所に入り、傷に触れないように洋服を脱ぐ。
バスルームに入ると、当たり前のように後から兄が入って来た。兄弟で入る事は珍しくない。
六歳違いの裕一は大学三年生で、年の離れた祥太を何かと構いたがった。
背が高く賢い兄は祥太の憧れでもあった。
父親似の兄は引き締まった顔をしているので、母親似の自分は、どう足掻いても変えられないが、せめて身長は兄と同じくらいになりたい。
浴室に入り、兄に背中を向けてから、しまったと思った。
「何だお前、転んだのか?」
案の定、背中の青痣と擦り傷を見て兄が驚いたように言った。今さら隠す事はできない。
「うん……。帰りに転んだ」
「ドジだな」
その言葉にむっとする。
「ふんっ」
顔を背け、浴槽のお湯をざばーっと浴びた。
「痛いっ」
傷が沁みる。裕一はその様子を見ながら呆れたように言った。
「機嫌悪いな。宏人が合格したのがそんなにうらやましいのか?」
ぎくりとして体が震えた。
そういえば、宏人が合格してあんなに嬉しかったのに、すっかり忘れてしまっていた。
「そ、そんなんじゃないよ」
「お前にはあの高校は無理だよ」
兄がさりげなく言う。
「兄ちゃんまでそんな事言うのか?」
振り向くと裕一が苦笑していた。
「当たり前だろ? お前の成績表を見た時、目を疑ったぞ」
「むかつく」
ふんっと顔を背けると、裕一が背後でくぐもった声を出した。
「本当にこの背中どうしたんだ? ひどい痣ができているぞ」
「転んだんだっ。もう、ケガの事はいいよっ」
忘れなきゃ。あれはなかった事なんだ。
「何を苛々してんのか知らないけど、早めに宏人に言っておけよ」
「な、何をだよっ」
「一緒の高校には行けないって、明日言え」
「明日? やだよ……」
もごもごする祥太の言葉に、裕一は眉をひそめた。
「ケンカしたのか?」
「そうじゃないけど……」
歯切れの悪い言葉に、裕一は息をついた。
「宏人から電話があったぞ」
「え? 何か言ってた?」
祥太は急に不安になって兄を見上げた。
「受験に合格したって報告だった」
「他には?」
「何も」
首を振ると、祥太は唇を噛んだ。
「先に謝った方がいいぞ」
「ひっ、宏人が謝るまで、絶対に口きかないから」
祥太はそう言うなり、ざばっとお湯を浴びてから浴槽に浸かった。
「何を子どもみたいな事言っているんだよ」
「子どもだからいいだろ?」
つんと顔を背ける姿はまだ幼い。
「宏人に合格祝いをしてやらないといけないな」
「え……。う、うん……」
「もうすぐ高校に行くんだ。それまでに仲直りしろよな」
祥太は何も答えられない。
「あいつ一人っ子でさみしいんだよ。祥太の事が大好きだからさ。可愛いじゃないか」
祥太は何も言えず、ぶくぶくとお湯の中に顔をつけた。
「祥太」
「何っ?」
ふてくされた声が返ってくる。裕一は苦笑しながら、
「サッカーが好きなんだろう。星陵高校はサッカーに力を入れているからお前に合っていると思うよ。目
標をちゃんと持って、楽しんだらいい。宏人と同じ高校に行くだけが人生じゃないんだ」
と語りかけるように言った。
「無理しなくていいんだよ」
と、弟の小さな頭を撫でた。祥太は戸惑いながら小さく頷いた。
「兄ちゃん、後で湿布貼ってくれる?」
祥太が小さく言った。
「ああ、いいよ」
裕一は笑った。