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魔法ギルドの書記官、好きな受付嬢への告白タイミングを三ヶ月計算し続けた結果、とっくに全部バレていた

作者: 鳩羽ぐれ
掲載日:2026/05/19

 俺は三ヶ月間、告白に適した条件を記録していた。


 手帳の最終ページ。ほかの業務記録と混ざらないよう、わざわざ後ろから使っているページに、箇条書きで。


 一、周囲に人がいないこと。

 二、セレナさんの機嫌が、いつも通りかそれ以上であること。

 三、俺の声が裏返らないこと。


 夜番の組み合わせ、受付の混雑度、セレナさんがハーブティーを淹れる頻度。それらを勝手に数値化した結果、この三つの条件が揃う確率は、およそ六十二パーセント。


 問題は、そこに「俺の勇気」を計算に入れ忘れていたことだった。


---


 気づいたのは、三ヶ月前の朝だった。


 セレナ・アルバ。王都魔法ギルドの一番窓口の受付担当。


 彼女が仕事をしているところを、俺は何度も見てきた。依頼変更で怒鳴り込んでくる冒険者にも、声を荒げない。相手が納得するまで話をし、最後にはなぜか相手の方が礼を言って帰っていく。


 古代語の翻訳が趣味で、昼休みには分厚い専門書を静かに読んでいる。


 そういう人だった。


 それがある朝、「おはようございます、ベルツさん。今日も書類の山ですね」と言いながら、差し入れのパンを俺のデスクの隣に置いていった。


 それだけのことだった。


 なのに俺は、彼女が受付カウンターに戻るまで、ずっと手元の羽根ペンを止めていた。


 書記官になって三年間、俺——アルノ・ベルツ——は感情に仕事を乱された記憶がない。なのに、あの朝から、セレナが視界を横切るたびに、俺の手がわずかに止まるようになった。


 好きなんだと気づいたのは、その夜、一人で帰り道を歩いているときだった。答えが出た。自分でも驚くくらい、簡単に。


 それ以来、俺は条件を記録し始めた。最適な日を割り出して、準備を整えれば、きっと言える。そう思っていた。


 三ヶ月経った今も、言えていないけれど。


---


 十一月の夜番は、静かだ。


 魔法灯が橙色に灯り始めると、ギルドから職員が一人ずつ帰っていく。最後に残るのは夜間受付の二名だけ。今夜はちょうど、俺とセレナだった。


「ハーブティー、淹れましたよ」


 受付カウンターの奥から声がして、温かいカップが俺のデスクの隅に置かれた。シナモンの匂い。秋になるとセレナがいつも淹れてくれる、今の季節だけの配合だ。


「ありがとう」


「ベルツさん、そこ間違ってますよ」


 セレナが手元を指さす。「十一月」と書くべき欄に「十二月」と書いていた。


 しかも、魔法インクで書いたそこだけ、微妙に色が薄かった。インクの色は書き手の魔力状態に影響される。


 つまり今、俺の魔力は感情のせいで乱れている。


「直す」


「どうぞ」


「……インクの色は、見なかったことにしてくれ」


「最初から何も言いませんよ」


 セレナは涼しい顔で自分の席に戻った。口の端が少し上がっていた。絶対に笑ってる。


 俺は修正液を取り出しながら、今夜の条件を確認した。


 一、周囲に人がいない——◎。

 二、セレナさんの機嫌が、いつも通りかそれ以上——◎。

 三、俺の声が裏返らない——未知数。


 六十二パーセント。今夜は条件が揃っている。


 問題は、手どころか口まで全然動かないことだった。


「ベルツさんって」


 ふいにセレナが言った。


「はい」


「三ヶ月くらい前から、書類ミスが増えてますよね」


 俺は固まった。


「……気づいてた?」


「受付から見えるので。ひどいときは同じところを何度もなぞってます」


「それは……確認作業だ」


「何回もですか?」


「念のため」


 セレナは本から目を上げないまま、かすかに笑った。


「大変ですね」と彼女は言った。「ベルツさんがそこまで念を入れる書類、ありましたっけ」


 返す言葉が出てこなかった。


---


 一時間後、夜の依頼書の整理を終えて、俺はやっと少し落ち着いた。


 依頼人の来ない合間に、セレナは受付へ目を配りながら翻訳作業に戻っていた。手元のノートに細かい文字を書き連ね、ときおり首をかしげては、またペンを走らせる。月明かりと魔法灯が混ざった光の中で、横顔がきれいだと思った。


 見すぎだ、と自分に言い聞かせる。


「セレナさんって、エルディア語、どこで覚えたんですか」


 言い聞かせたはずなのに、口が動いてしまった。


「独学ですよ。図書館で古い文法書を見つけて」


「独学でそこまで読めるのか」


「エルディア語って読めると、古い呪文の原典が読めるんです。翻訳された術式書だと、どうしても解釈が混ざるので」


「原文だと違うのか」


「はい。たとえば炎の術式なら、熱を無理やり動かすんじゃなくて、熱が自分から動きたくなるように誘うイメージで組む、って書いてあって」


 俺は手を止めた。


「それ……実用的な話だ」


「でしょう? 感情に関わる説明は、根拠がないって省かれるから、原典を読まないと分からないんです」


「俺もそういう感覚で組むことがある。意識したことはなかったけど」


「知ってますよ」とセレナは言った。「ベルツさんが魔法を使うとき、ちょっと楽しそうな顔をするので」


 言葉が出なかった。


「……俺のそういうところ、見てたんですか」


「仕事中ですから」


 それだけ言って、彼女は受付の方へ一度目をやってから、また手元のノートへ視線を戻した。


 ちらりと気になって、セレナの翻訳ノートの端を見た。古代文字がびっしり並ぶページの、隅の方に、小さく。


 『二秒』


 何の翻訳だろうと思ったが、聞く勇気はなかった。


 そのとき、セレナがノートの端に視線をやった。俺が見ていたのと同じ場所に。


 一瞬、ペンの動きが止まった。彼女はすぐに目を戻したが、それきり翻訳ノートをそっと半分だけ閉じた。


 閉じる直前に見えたページは、この会話が始まったときと同じままだった。


---


 退勤まで十五分というところで、セレナが本を閉じた。


「今日は早く終わりますね」


 いつもの声だった。落ち着いた、変わらない声。


 でも次の瞬間、彼女はこちらを見た。


「ところでベルツさん」


「はい」


「今日って、六十二パーセントの日ですよね」


 俺は持っていた修正液を落とした。


 カウンターに当たって、乾いた音がした。


「……なぜそれを」


「一度だけ、見えてしまったんです。ベルツさんが修正液を探して、手帳を開いたまま席を立った日があって」


 静かだった。ギルドが、世界が、静かだった。


 終わった。三ヶ月分の統計と、書記官としての俺の威厳が、同時に崩れ落ちた。


 セレナはとくに笑ってもいなかった。ただ俺を見ていた。穏やかに。待つように。


 逃げ道がなかった。


 三ヶ月間、完璧なタイミングを計算し続けた。でも今、計算なんかどこかへ消えていた。残っているのは一つだけだった。


「……なら、計算はここまでです」


 セレナが少し目を見開いた。


 俺は息を吸った。


「セレナさんのことが、好きです」


 言えた。


 静かなギルドの中、次の瞬間、揺れた魔力に反応したように、魔法灯がふっと明るくなった。


 一つだけじゃなかった。受付の上、書庫の前、出入口の横の灯りまで。ギルドに残っていた魔法灯が、順番に橙色を強めていった。


「……今の、俺のせいか」


「たぶん」


 セレナは天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。それから俺を見た。


「私も、です」


 その言葉のあと、しばらく誰も動かなかった。


 魔法灯の橙色だけが、静かに揺れていた。


 セレナは視線をわずかに逸らしていた。耳の先が赤かった。


 俺はそれを見て、自分の心臓がさっきよりも大きく鳴っているのに気づいた。


 何を言えばいいのか分からなかった。三ヶ月かけて準備したはずなのに、その先の言葉は一つも用意していなかった。


 でもこの沈黙は、怖くなかった。


 今までで一番静かで、一番温かかった。


「三ヶ月、待ちました」


 セレナが先に言った。


「……知ってたのか」


「だいたいは。書類ミスが増えたのと、私が近くを通るたびにペンが止まるのと」


「そこまで見てたのか」


「昼休みに目が合うと逸らすのも。二ヶ月前、私が落とした依頼書を拾おうとして手が止まったのも」


「それは、書類の種別を確かめていただけだ」


「二秒も?」


「……念のため」


「さっきと同じ言い訳ですよ」


 セレナが笑った。声が出た。小さくて、明るい笑い声だった。


「どうして、先に言わなかったんだ」


「ベルツさんって、自分で気づいて自分で動く人じゃないですか」


 彼女は俺を見た。


「誰かに言われてからじゃ、素直に受け取れなかったかもしれないなと思って」


 俺は少し考えた。


「正しい判断だと思う」


「でしょう」


 コートのボタンを留めながら、セレナはもう一度笑った。今度は少しだけ、照れたような顔で。


---


 ギルドを出ると、夜の王都は澄んだ冷たさに包まれていた。石畳の向こうに魔法灯が並んで、橙色の光が路面に柔らかく溶けていた。


 自然に並んで歩き始めた。


 三ヶ月ずっと、セレナの隣は遠かった。横にいるのに、気を遣えば遣うほど、なんとなく遠かった。


 でも今夜は違う。歩幅が合っていた。石畳の段差を、同じタイミングで避けた。風が吹いたとき、二人とも少し肩をすくめた。


 小さなことだけれど、全部、嬉しかった。


「さっきの話ですけど、あの計算がバレていても、今夜ちゃんと言えたじゃないですか」


「それは——」と言いかけたところで、セレナが続きを言った。


「計算をやめたら、心が先に動いたんですよね」


 俺はその言葉を、しばらく頭の中に置いた。


「エルディアの炎術師が言ってた話か」


「そうです。『術式は考えすぎると固まる。動かしたければ、先に心が動け』——三ヶ月ずっと、機会があれば言おうと思っていたので」


 俺は立ち止まった。


 三百年前の言葉を三ヶ月温めて、俺に言う機会を待っていた。


「……セレナさんも、ずっと考えてたのか」


「そうですよ」


 セレナも足を止めた。魔法灯の光の中で、彼女は俺を見上げた。


「ベルツさんが準備してた間、私はずっと言葉を温めてました」


 俺はしばらく彼女の顔を見た。


 それから、少し笑った。三ヶ月で初めて、胸の中がすっと軽くなった気がした。


「……一緒に歩いてもいいか」


「はい」


 また歩き始めた。今度は何も考えなかった。魔法灯の橙色が、二人分の影を石畳に並べて伸ばしていた。


「ところで」とセレナが言った。「ベルツさんって、記録するの好きなんですか」


「仕事柄の習慣だ」


「ほかのことも?」


「書いた方が整理できる」


「そうですか」とセレナは言った。少し間があった。「私もそうです」


「翻訳ノートに、翻訳以外のことも書くのか」


「書くこともあります」


「たとえば」


 セレナは少しだけ視線を逸らした。路地の先の魔法灯を見るみたいに。


「気になったこと、とか」


 その答えを、俺はしばらく考えた。


「俺のことか」


「……かもしれません」


 それだけ言って、彼女はまっすぐ前を向いた。耳の先がまた赤くなっていた。


 路地を曲がったところで、セレナが言った。


「今度、古本市に行きませんか。エルディア語の原典が出るって聞いたので」


「俺が行っても、読めないけど」


「教えますよ」


「……行く」


「よかった」


 セレナが笑った。また足音が二つ、揃った。


---


 翌朝。


 ギルドに出勤したセレナが一番窓口に座ると、デスクに小さなメモが置いてあった。


 『今日の昼休み、一緒に食べませんか ——アルノ』


 セレナはそれを読んで、静かに笑った。引き出しから紙を取り出して、短く書いた。


 『完璧なタイミング、計算どおりですか』


 しばらくして、返事が届いた。文字がいつもより少し柔らかい。


 『今日はペンが先に動きました』


 セレナはそのメモを、翻訳ノートに挟んだ。三百年前の炎術師の言葉の、隣に。


 ノートの最後のページには、古代文字ではない文字が並んでいた。


 『ベルツさん観察記録』

 三ヶ月前:パンを渡す。羽根ペン、停止。

 二ヶ月前:依頼書を落とす。二秒停止。かわいい。

 一ヶ月前:昼休みに目が合う。逸らされる。少し悔しい。

 昨夜:ようやく言ってくれた。六十二パーセントの日。


 追記。

 次は、私から手をつなぐ。

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