物語は目覚めからはじまる。
目が覚めた瞬間、臭かった。
自分の臭いだ。
迷宮の汚泥。乾いた血。じっとりとした汗。馬車に詰め込まれていたときに染みついた、あの獣臭。全部がそのまま身体に貼り付いていた。
そういえば、昨日は何もしていなかったな。毒で動けなくなって、ガドに担がれて、教会に転がり込んで、そのまま倒れ込んだ。当然だ。洗っている場合じゃなかった。
天井を見上げる。
木の板の隙間から、朝の白い光が落ちている。
「……っ」
隣を向いたとき、本能的に顔をそらした。
ミナも同じ状態だった。
泥で固まった髪。皮膚に黒ずんだ汚れ。首筋には擦り傷の痕がかさぶたになっている。
かわいそうに。
いや、俺も人のことを言えた話じゃないが。
「ミナ」
肩を揺する。
「……ん」
「朝だぞ」
「……んー」
眠そうにもぞもぞする。それからパチリと目を開けて、こちらを見た。
「おにいちゃん」
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん……」
ミナが身を起こした瞬間、自分の髪を触って怪訝そうな顔をした。
「ガビガビ……」
「だな」
「くさい?」
「……お互い様だ」
ミナがクンと鼻を鳴らして、それから俺の方を向いた。
「……くさい」
「知ってる」
◆
納屋の扉を開けると、スラムの空気が流れ込んでくる。
泥と腐った木材の臭い。遠くで誰かが怒鳴っている。犬が吠えている。朝のスラムは意外と騒がしかった。
昨日は暗かったから気づかなかったが、屋敷の裏手は思ったよりも広い。『バイオン伯爵家』が所有している奴隷たちが暮らしているようだが、『ユウト』の居た村よりも人が多いだろう。
すぐ近くに井戸があった。
石積みの古い井戸だ。縄が巻かれていて、木の桶がぶら下がっている。
「あった」
縄を引いて桶を下ろす。しばらくして引き上げると、冷たい水が入っていた。
覗き込む。透き通っている。
この都市の地下に川が流れているのかもしれない。少なくとも、この水は飲めそうだった。
迷宮都市の下水整備は昨日の通り目を見張るものがある。だとすれば、地下水の管理も相応にされているのだろう。むしろスラムにまでこんな清潔な井戸があること自体、普通の街では考えられないかもしれない。
試しに手をつける。
「冷たっ」
「わたしも!」
ミナが桶に手を突っ込む。それからけたけたと笑った。
「つめたいね! きもちいい!」
「静かにな。近所の迷惑だ」
「ごめんなさ~い!」
全然反省していない顔だった。
俺は桶の水を頭からかぶった。冷水が頭皮から首筋を伝い、背中まで流れる。
「っ、ひゃ~冷えるな」
「おにいちゃん変な顔してる」
「ミナもかぶるんだぞ」
「……やだ」
「やれ」
「さむいもん」
しばらく押し問答した末に、ミナは渋々頭を濡らした。
一声叫んだあと、しかし諦めたように何度もすすいでいる。
それから俺たちは、服を着たまま全身に水をかけた。みっともない格好だが、ここはスラムだ。誰も気にしない。
しばらくして、水をよく絞る。
それから、湿った服のまましばらく日向に立っていた。
水を拭く布もなかったので、じっとしているしかない。
その間、ミナをじっくり見た。
乾いていく、その顔。泥が落ちて髪がほぐれてくると、思ったよりずっと、整った顔をしていた。
髪は薄紅色。肌は白い。まだ幼い顔立ちだが、目がくりっとして、鼻筋が通っている。このまま育てば、相当な顔になるんじゃないか。
それよりも。
「ミナ、今朝から喋り方が変わってないか」
「え?」
「昨日はもっとたどたどしかっただろ。『おにいちゃん……こわいよぉ』みたいな」
「そんな喋り方してたっけ」
「してた」
ミナは少し考えるように首をかしげた。
「……なんかね、体がしゃっきりしてる感じがするの。今日は」
「体が?」
「なんかいっぱい動いたから? よくわかんないけど」
よく分からないが、俺にはすこし心当たりがあった。
迷宮。
あの空間は人の感情を増幅させると、ガドが言っていた。実際に、あの中では恐怖も怒りも、普段よりずっと強く出た。
それは感情だけじゃないかもしれない。
迷宮自体が生きていると感じた。あの迷宮は人を食らってそれを糧に成長しているのではないか。魔力という目に見えない力がこの世界には存在し、ゴーレムはそれによって動いていた。ならば逆に、魔力に満ちた迷宮の中で生きた人間にも、何かが返ってくることもあるんじゃないか。
そんな確証はない。ただの感覚だ。
でも、この世界はまだ俺の知らないことだらけだ。ミナの変化も、迷宮の影響の可能性を頭の片隅に置いておく価値はある。
(生物として、何かが底上げされた……?)
考えても今は結論が出ない。
「どうしたの?」
「なんでもない。行くぞ」
「どこに?」
「冒険者ギルドだ」
◆
スラムを抜けると、街の空気が変わった。
商人街に入った途端、石畳の感触がボロい足袋を履いた足裏から伝わってくる。道が広い。露店が並んでいる。物売りの声が飛び交っている。
俺は歩きながら、目に入るものを全部頭に入れた。
大きなパンが銅貨二枚。干し肉が銅貨五枚。果物が銅貨一枚から。
銅貨百枚で銀貨一枚になる。昨日の兵士から受け取った銀貨二十枚。シスターに渡した一枚を差し引いて十九枚。それが今ある全財産だ。
換算すると、銅貨千九百枚分。
パンだけで食いつなぐなら九百五十日分以上。当面の飢えの心配はない。ミナと二人でも、一年近くはいける計算だ。
(思ったよりある……)
だが、油断はできない。
露店の武具屋を見ると、古い鉄製の剣が銀貨八十枚。革製の胸当てが銀貨五十枚。とても手が届くものではない。
支給された錆びた短剣が、今の自分には貴重品であるということが分かる。
他には……道具か。
昨日、毒を受けた。解毒薬があれば、あんな目に遭わなくて済んだ。
試しに、薬屋らしき店を覗いてみる。
「すみません」
「はい、はい。ただいま~……って、冷やかしか?」
店主がこちらを一瞥すると、失礼な事を言う。
だが、俺の格好を見たら当然か。高価な物は買えるようには見えないしな。ボロの麻布を纏っているだけなんだから。
「解毒薬ってありますか」
「……ああ、ある。銀貨四十枚だ」
店主は真面目な顔で告げる。ふっかけたりしているようには見えない。
四十枚。
今ある全財産の倍以上だ。
「……高いですね」
「迷宮産の素材使ってるからな。安くはできんよ」
俺は丁寧に礼を言って店を出た。まともな対応をしてくれただけありがたかった。
(装備も薬も、全部高い)
一般の食事で生きていくだけなら問題ない。普通の仕事をするだけでも生きていけるかもしれない。
だが、俺は借金を背負った奴隷だ。リスクを負わないと、返済能力を証明することもままならない。選択肢は迷宮に潜る冒険者くらいしかないのだ。でも、冒険者として戦えるようになるためには、今の財産では全然足りない。
早く稼がないといけない。そのためにも、まず登録だ。
◆
冒険者ギルドは、商人街の中心に近いあたりにあった。
でかい建物だ。看板に剣と盾が描かれている。入口から、がやがやとした声が漏れ聞こえてくる。
「ミナは……」
「ん?」
ミナを置いていこうかと思ったが、一人で外に置いておくのも危険か。
子供を迷宮に連れて行くつもりはない。今日は家で一人にするわけにも行かなかったので一緒に行動しているが、ミナを安心して預けられる場所を探すのも今日の目的だ。
「一緒に行くか」
「うん」
扉を押して中に入ると。
広かった。
酒場と受付が合体したような造りだ。左手にテーブルと椅子が並び、朝なのにもう何人か飲んでいる男たちがいる。右手に長いカウンターがあって、受付窓口が並んでいた。
騒がしいが、それでも視線だけはこちらを向いているのが分かる。
「おい! 奴隷がまた死にに来たぞ!!」
その中の一人が叫ぶ。酒が入っているのか、異様に声がデカい。
また、ということは奴隷がギルドに来るのは珍しくないみたいだ。
「ギャハハ! ビビって声もでねーか!?」「おいおい、あんま脅かすなよ」「誰か賭けるやつ! 集まれやッ!」
各々が好き勝手野次を飛ばしているときだった。
「――うるさい。静かにしなさいクソども」
女性の声だった。やけに通る声で、一瞬で男たちが静かになった。
シン、となった空間で口を開く。
「ミナ、大丈夫か?」
「うん」
声の主は誰だろうか。視線をそちらに回す。
そして。目が、止まった。
カウンターの奥に、女がいた。
年は二十前後か。明るい茶色の髪を高く結んでいる。きりっとした眉。笑うと目尻が下がる、人を安心させるような顔だ。制服らしき動きやすそうな服を着こなしていて、立ち姿に無駄がない。
とても先ほどの声を出した主とは思えないが、方向は一致してるんだよな……。
隣で男の職員が何か話しかけている。彼女はにこやかに対応しながら、手は書き物を続けている。手慣れた様子だ。
「なんか、きれいなひとだね」
ミナが呟く。
「おにいちゃん顔赤くなってる」
「なってない。行くぞ」
カウンターに近づく。
隣の窓口が空いていたので、そこへ向かおうとすると。
「はい、次の方どうぞー」
例の受付嬢が、にこやかにこちらを向いた。ほかの窓口に行くタイミングを失った。
話していた冒険者は、舌打ちすると離れていった。用があったわけではなく話していただけだったらしい。分かりやすい男だ。
「……冒険者登録をしたいんですが」
「はい! ご登録ですね。当ギルドが初めてでしょうか?」
「そうです」
「登録料は銀貨一枚になりますがよろしいでしょうか」
「う……はい。大丈夫です」
「かしこまりました!」
彼女はてきぱきと紙を引き出した。
そのとき、俺の首筋に目が止まる。一瞬だけ、その動きが止まった。契約紋だ。バイオン伯爵家の焼き印。
「……奴隷の方ですね」
「はい」
「登録は、問題なくできますよ」
彼女は何事もなかったように続ける。
「迷宮都市の冒険者ギルドは、種族・身分を問わず登録できます。奴隷の方も、獣人の方も、どなたでも」
「よかった」
獣人、という単語に一瞬引っかかるが、会話を止めないようスルーする。
「ただ一つ確認があります。稼ぎの一部を主人に納めることはできますか。ギルドが直接管理する形になりますが」
「ギルドが直接……?」
察するに、返済時に直接屋敷に納めにいくのをギルドが代行してくれるということだろうか。
「もちろんです。返済のタイミングなどはこちらで決めることはできますか?」
「それに関しては、契約の内容にもよります。こちらの水晶玉に手をかざしてください」
丁寧な口調だが、有無を言わさない態度。
奴隷が冒険者になるには、かならず必要な行程なのだろう。
透明な青い水晶玉。
言われた通り手をかざすと、水晶玉が淡く輝き出す。同時に、首筋の契約紋が熱を帯びる。
「っ……」
「おにいちゃん、大丈夫?」
「ああ、びっくりしただけだ」
水晶玉内部に、多数の文字列が流れては消えていく。こちらから読み取ることはできないが、俺の契約内容が流れているのは明白だ。
受付嬢は水晶玉を眺めながら、その内容を書類に書き留めていく。彼女の手の動きは目にも止まらない速さだ。
やがて、水晶玉は輝きを失っていき、元の透明な玉へと戻った。
「契約内容の確認を終えました。この場合だと……返済のタイミングはある程度自由ですが、一定期間納めていないと強制力が働きますね」
「そうですか……分かりました」
こちらでタイミングをある程度決めれるなら、生活のためにお金を残しておくなどやりやすい。
「ではご登録を進めますね」
彼女が羊皮紙を差し出した。
「こちらにお名前を」
俺は迷わずに名前を書いた。
その瞬間。
彼女の動きが、また一瞬だけ止まった。今度は少し長かった。
「……読み書きが、できるんですか」
低い声だった。さっきのにこやかな声とは、少しだけ違う。
「はい」
「どこで習ったんですか」
「故郷の村で」
嘘ではない。ユウトの記憶の中にも断片的な読み書きの記憶はある。だが正確には、俺が転生してきたから読める。この世界の文字が日本語と同じように見える、この不思議な感覚のおかげで。
彼女はしばらく俺の顔を見た。
値踏みしているわけではない。もっと静かな、純粋な疑問の目だった。
「……山村の出身で、奴隷で、読み書きができる」
独り言のように呟く。
「珍しいですね」
「そうですか」
「ええ」
彼女はまた笑顔に戻った。
「登録証の発行は少しお時間をいただきます。ところで……そちらの……妹さんはどうされますか?」
「えへへ、妹のミナでーす!」
い、妹……まあそう見えるか。赤の他人と見られるよりはそっちのほうが都合がいいかもしれない。
「ミナは大丈夫です。この子は迷宮には行かせませんから」
「えっ!? なんで?」
「むしろなんで行かせてもらえると思ってたんだよ……」
仕方ないだろう。ミナを迷宮に連れて行くわけにはいかないし。あんな危険なところ……それに子供は足手まといだ。
「あのね、ユウト。私だって迷宮に行けるとは思ってないよ」
「ああ、そうだな」
「でも、ユウトが毒にやられたときに治療を受けられなかったみたいに、冒険者登録してないだけで不利益を被ることだってあるかもしれないんだよ!」
「む、むぅ……」
どこで覚えたんだそんな難しい言葉。
「あの時分かったでしょ。この都市で生きていくには、冒険者の身分は必要なんだよ!」
「うん……」
「だからね、保険だと思って私も冒険者登録しておこうよ」
「そうだな……分かった。ミナも登録しておこう」
「うん!」
なんだか良いように使われている気がしないでもないが、ミナの言い分に反論できるところが一つもなかった。
「で、では、ミナさんもこちらにご記入をお願いします」
若干の戸惑いを見せつつも、彼女はミナに羊皮紙を渡した。
◆
しばらくして、革で作られた薄い板が渡された。
ギルドの紋章と、俺の名前が刻まれている。
「これが登録証です。ランクはEから始まりです」
「ランクが上がると何が変わりますか」
「受けられる依頼の難易度が変わります。あと、ランクに応じてギルドの施設を使える範囲が広がります」
「なるほど」
「それから、ご希望であれば新人向けの講習を受けることができます」
彼女は続ける。
「迷宮の基礎知識、魔物の生態、応急処置の方法など。一時間で銀貨二枚です」
「ねえおにいちゃん。受けようよ」
「もちろん、受けます」
彼女が少し目を見開いた。
「……よろしいんですか」
「はい」
「失礼ですが……奴隷の方で講習を受けられる方は、ほとんどいないんですよ」
「そうなんですか」
「銀貨二枚、用意するのが大変というのもありますが」
彼女の言葉は遠慮がちだった。
「それ以上に、急いで潜りたいとか、そんな余裕がないとか……理由はいろいろですが、結局は」
「命の心配をしている余裕もない、ということですか」
「……はい」
それはそうだ。
借金を返すために送り込まれた奴隷が、銀貨を払って知識を得ようとする発想になれるか。昨日俺たちと一緒に迷宮に入った者たちも、ほとんどはそんな余裕がなかっただろう。
「でも、知識がなければ死ぬ確率が上がる。だから受けます」
「……そうですね」
彼女は何かを考えるように一瞬だけ目を伏せて、それからまた顔を上げた。
「かしこまりました。ご案内します。料金は一名分で大丈夫です」
「え……」
「やった!」
カウンターの奥へ向かう前に、彼女はもう一度こちらを見た。
「私はセルナといいます。覚えておいてくださいね」
◆
講習は一時間、小さな部屋で行われた。
セルナ自身が担当してくれた。
ギルドについて。迷宮の基礎知識。冒険者のチーム。一層から五層の概略。主な魔物の種族と弱点。応急処置の手順。解毒薬の使い方。
話を聞きながら、俺はできる限り頭に叩き込んだ。
昨日の体験が鮮明すぎて、話の一つ一つがリアルに結びついた。ブラッドラットの毒の話のときは、右腕がひりひりした気がした。
ミナも隣で大人しく聞いていた。
一度だけ、セルナがミナに目を向けて言った。
「一緒に聞いていて大丈夫ですか? 少し難しい話もありますが」
「大丈夫です」
ミナが答えた。
「聞いておきたいので」
セルナが少し驚いたように笑った。
「しっかりしてますね」
「九歳ですから」
「……え?」
俺もそこで初めて聞いた。
「九歳? ミナ、九歳だったのか」
「うん。なんか六か七に見られるんだよね。体が小さいせいかな」
あまりにも当然そうに言う。
確かに、体格を考えれば納得できなくもない。それにしても、あの状況で九歳というのは。
(強かですね、この子)
セルナは微笑みながら講習を再開した。
◆
ギルドを出ると、昼が近かった。
講習の内容が、頭の中でゆっくりと整理されていく。
迷宮は今も成長し続けているらしい。
内部の構造は時間とともに変化し、マップは一ヶ月ほどで使い物にならなくなる。現在は五十二層まで踏破されているが、最下層を見た者はいない。昨日肌で感じたことは、正しかったわけだ。あれは生きていた。俺たちを食らいながら。
(そこに、俺はまた行くのか)
今更ながら、恐ろしかった。
だが同時に、奴隷を迷宮に行かせるという行為の本当の意味も、ようやく腑に落ちた。あれは賭け事なんかじゃない。餌やりだ。人間という資源を与えて迷宮を育て、育った迷宮が財宝を吐き出す。その繰り返しが何百年も続いてきた。
「……ユウト、難しい顔してる」
「少し考え事だ」
「迷宮のこと?」
「ああ」
「こわい?」
少し間が空いた。
「……少しな」
ミナは何も言わなかった。
ただ、俺の袖をそっと握った。
仲間といえば、ガドは今どうしているだろう。昨日の迷宮であれほど頼りになった男が、仲間としていてくれたら、どれだけ心強いことか。
「明日は仲間探しからだな」
「私は?」
「ミナはダメだって言ってるだろ!」
「おにいちゃんとはなれたくないのに」
九歳といえど、まだまだ子供だ。
見知った相手と離れたくないのは当然だろうけど……ミナには俺がいない状況にも慣れてもらわないとな。
◆
俺たちは商人街をもう一度ゆっくり歩いた。
先ほどとは違う武器屋に入って値段を確認した。
短剣が銀貨三十枚から。革鎧が銀貨六十枚から。盾が銀貨四十五枚から。わずかに金額が違うが、大体相場は決まっている。
全部そろえれば銀貨百枚以上。つまり金貨が必要で、今の手持ちでは到底無理だ。
それに、消耗品が高い。松明一本が銅貨八枚。ロープが銀貨三枚。そして解毒薬が銀貨四十枚。
昨日一撃で毒になった。あれを繰り返せば、稼いでも全部薬代で消える。
(最初の目標は解毒薬一本分の稼ぎか)
逆に言えば、一般の食事や生活費は今の財産で当面は大丈夫だ。パンと干し肉があれば、一日銅貨十枚もかからない。
ミナを連れていれば多少増えるが、それでも銀貨一枚あれば十日以上は食える。
つまり、今すぐ飢える心配はない。
焦らなくていい。だが、油断もできない。
ちょうどいい緊張感だ。元がサボり魔だから、ゆとりがありすぎるよりは気が引き締まっていい。
それと食事の改善は必須だろう。冒険者として活動するためにも、ミナの成長のためにも、そこには金をかけていきたい。
目につくあれこれから、今後の生活に必要なものを考えていると。
「あれは……」
目に止まったのは、服屋だ。
古着ではあるが、今の麻のボロキレよりは断然マシだ。
おれたちと同じような格好の人は意外と多いが、全員奴隷なんだろう。悪い意味で目立つ恰好なので、普通の衣類は欲しい。
「服屋があるぞ。ミナ」
「ほんとうだ! 私たちこんなだし、新しい服買おうよ!」
「ああ。可愛い服があるといいな」
「おにいちゃんのは私が選んであげるね!」
店を覗くと、アフロで金髪のおばちゃんが奥で座りながら何かの冊子を読んでいた。
とんでもない毛量だ。自分では絶対にしないスタイルだが、妙に様になっているというか、かっこいい人だ。
「すみません」「すみませーん!」
「んん? おやおや、かわいいおチビさんたちの登場だねぇ!」
俺達を見ても気さくに返事をしてくる店主に安堵する。
並んでいる服はくすんだ色の無地の物が多い。生地が傷んでいる物も多いが、それなりに見えるな。今着ているものよりは遥かに良い代物だ。
それに、値段も銅貨五十枚など、無理せず買えるぐらいだ。
近くにあった灰色の毛でできた服を手に取る。羊の毛のような感触で保温性がよさそうだ。丈夫そうだし、この店は信用できる。
「この服と……あとはアレも」
「おにいちゃん、これかっこいいよ!」
「おお、いいな」
しばらく見て回ると、上下セットでお互い三着ずつ買うことにした。
「すみません。これ、お願いします」
カウンターに商品を並べると、店主は言った。
「全部で銀貨五枚だよ」
「分かりました」
銀貨を並べ、商品を持ち帰ろうとしたところ。
「……あんたら、よかったら裏で着替えてくかい?」
「いいんですか」
「おねーさん、ありがとう!」
「あら~♡ お姉さんだなんて、お上手ね」
温かい人だな。いい店を引けてよかった。服が足りなくなったときは、またここに来よう。
◆
「おにいちゃん」
「なんだ」
「おなかすいた」
「飯にするか」
「やった」
銀貨は残り十一枚。
セルナさんの厚意で出費は抑えられたが、半分ほど使ってしまっている。冒険者が稼げるか分からない以上、飯はある程度は抑えたいところだ。
食べ物屋が並ぶ通りに入る。湯気の立つ鍋から良い臭いがする。まともな食事をしていないこの体にはもはや毒だ。
近くの屋台の親父が声をかけてきた。
「兄ちゃん、スープはどうだ。野菜と豆が入って銅貨三枚だぞ」
三枚。
二人分で六枚。銀貨一枚の十七分の一以下。悪くないか。
「二つもらいます」
「毎度!」
木の器に盛られたスープを受け取る。
立ち食いで一口飲む。塩気と野菜の甘み。質素だが、十分だ。
「おいしい」
ミナが言う。
「だな」
昨日の朝は何も食えなかった。迷宮の中でも何も食えなかった。そう思うと、このスープが信じられないほどうまかった。
腹が満たされていくのを感じながら、俺は空を見上げた。
高い城壁が見える。その向こうに迷宮の入口があるはずだ。
明日はあそこに行く。
今日じゃなくていい。今日は準備の日だ。頭に入れた情報を整理して、明日の行動を考えて、寝る。
それだけでいい。
◆
納屋に戻ると、夕方だった。
「やっと帰れたな~」
「うん。つかれたね」
泥だらけでボロ布を纏っていた朝と比べると、ずいぶんと文化的な装いになったものだ。
ゆくゆくはこの納屋もどうにかしたい。せめて藁のベッドを布団にしたいな。チクチクを感じながら寝るのは非常に辛い。
俺はミナと向かい合って座り、今日ギルドで聞いたことを一通り話した。頭に定着させるための復習だ。
ミナは真剣な顔で聞いていた。頷くタイミングが的確で、あとで俺が「じゃあ一層の主な魔物は」と聞くと、ちゃんと答えが返ってきた。
しばらくするとお腹が空いてきたので、食事の時間にする。
飯は屋台で買ってきたパンと干し肉だ。固いが、腹に入れば同じことだ。
「ねえ、おにいちゃん」
「なんだ」
「あのきれいな受付の人、またいる?」
「毎日いるんじゃないか。ギルドの人なんだから」
「また会いに行く?」
「ギルドで依頼を受けるときに、会うことになるだろうな」
「ふーん」
ミナが干し肉を噛みながら俺の顔を見ていた。
「なんだ」
「べつに」
視線をそらす。
何か言いたそうだったが、それ以上は言わなかった。
夜が来た。
昨日より体が楽だ。意識がはっきりしている。疲れてはいるが、追い詰められた感じがない。
藁の上に横になる。
天井を見ながら、今日のことを頭の中で整理する。
金のこと。ギルドのこと。迷宮のこと。セルナさんや服屋の店主のこと。
まだ知らないことだらけだ。
でも、昨日よりは確実に多く知っている。
それでいい。
一日ずつ積み上げていけばいい。
「おにいちゃん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
目を閉じる。
眠気はすぐにやってきた。
◆
ミナはユウトの寝息を確認してから、ゆっくりと天井を見上げた。
今日は色んなことがあった。
朝に体を洗った。水が冷たかった。ユウトが頭からかぶったとき、変な顔をしていた。
街を歩いた。石畳の道は歩きやすかった。食べたスープは美味しかった。
ギルドに行った。
あの受付の女の人は、きれいだった。
ユウトが名前を教えてもらったとき、ミナは少しだけ胸のあたりがムッとした。自分でも、なぜだかよく分からない気持ちだった。
(べつに、いいんだけど)
ミナはそう思って、頭を横にした。
ユウトの横顔が見える。眠った顔は、昼間よりずっと穏やかだ。
(こうやってひとり占めできるのはミナだけだもんね)
今日もずっとそばにいてくれた。
手を引いてくれた。ご飯を買ってくれた。分かんないことを教えてくれた。
ミナにとって当たり前じゃなかったことがどんどん当たり前になっていく。全部この人がくれたから。
だから。
「……絶対に逃さないから」
ユウトがいなければ私は終わってた。ユウトが私をこの世界に繋いでくれたんだよ。
迷宮に行くユウトを止められないし、私がついて行くこともできないのかな。迷宮が怖いって言ってたの、私がいないからじゃん。どうしようかな。
明日から一緒にいられない時間が増えちゃうかも。そのうち、あのセルナとかいう女がユウトに引っ付いたらどうしよう。そうなったらとっても辛いな。苦しいな。
「ぎゅ~~」
ユウトは気づいていない。
ミナはそっと目を閉じた。
明日も起きたらユウトがそばにいる。
それだけで、眠れた。




