19話 再び動きだす物語。
朝靄の中、井戸の水面が白く波立っていた。
水を汲み上げると、そこには夜明けの空が映り込んでいる。淡い橙色から、澄んだ水色へ。境目のない、美しいグラデーションだった。
この世界に来て、何度もこの空を見てきた。何度見ても、見飽きることがない。
ミナが隣で、同じように桶に手を浸していた。
「今日も、綺麗だね」
彼女がそう言って、空を見上げる。
その通りだった。いつか、ギルドの書物で読んだ神話を思い出す。この世界を作った女神の涙が、海になったという。ならばこの空も、その恵みの続きなのかもしれない。
だが、その美しさの向こう側に、確かに何かが潜んでいることを、俺はもう知っていた。
迷宮という、光の届かない場所。オブリゴという、影の中で肥え太る組織。教会という、清廉を装いながら人を踏みにじる巨大な力。
この世界は美しい。同時に、どこまでも残酷だ。
その両方を、同じ手で受け止めなければならない。その大きな流れの中で、自分の持ってるものをこぼさないように、大事に。
水を頭からかぶる。冷たさが、意識を研ぎ澄ませていく。
今日、その残酷さの一端に、また触れることになるのかもしれない。
「ユウト?」
ミナが、こちらを覗き込んでいた。
この子が傍にいてくれる。そう思っただけで、不思議と力が湧いてきた。
「行くぞ、ミナ」
覚悟を決めるように、そう言った。
◆
朝一番、ミナを連れてシュリの家へ向かった。
自分たちのいたスラムから大通りを跨ぎ、向かい側のオブリゴの区画に入ると、重い空気が肌に触れる。
アウレアさんの教会では、定期的に炊き出しを行っている。そのおかげなのか、おれたちが普段暮らしている区画は比較的、平和な雰囲気が流れている。だが、こちらのオブリゴが保護しているスラムは、治安が悪そうだ。道の端には、動かない人間の体が転がっている。
「おじさんやトリエさんと一緒に来てたときも思ったけど……こっちは酷いね……」
「ああ、そうだな。傍を離れるなよ」
しばらく歩くと、目的の場所に続く路地を見つけた。
その路地を通り、今にも崩れそうな家々を横目に通り過ぎながら、以前も見た、家々が集合している広間へ出た。
その奥、小さな掘っ立て小屋が二つ並んでいるような家が、シュリの住まいだ。
そのうちの右側の家の扉を叩くと、奥から小さな足音がする。
こちらにはシュリが住んでいる。冒険用の危険な道具などがあり、一緒に暮らしている小さな子どもの獣人たちがいたずらしないように住まいを分けているようだ。
かび臭い木製の扉がゆっくりと開くと、奥から私服のシュリが現れる。
家にいる時は髪を隠すための外套を羽織っていないからか、普段とは随分と印象が変わる。紫色の髪の毛が揺れる。
「……朝から、珍しい」
「おはよう、シュリちゃん!」
「……」
ミナが、まさかのシュリをちゃん付け。
そういえば、ミナとシュリが対面しているところは初めて見たような気がするな。おれが骨折して休んでいるとき、ミナやガド、トリエとは会っているはずだし、そこで仲良くなったのか。
(いや、シュリのあの目は……ミナの勢いに負けたってところか)
ちゃん呼びしている我が妹をじーっと見つめるシュリの表情は複雑だった。言葉数が少ない奴にとっては、元気なこの子の扱いには困るのだろう。
そういえば、ジャコルのやつはミナと普通に接してたな。シュリはジャコルよりも陰キャってことなのだろう。
「実は、気になることがあってな……」
手短に、アウレアから聞いた話をした。トリエのこと、異端審問官のこと。
「だから、今日の活動を休むことにした。他の仲間達に伝言を頼みたいんだけど……」
「トリエのところ、行くの」
「ああ」
「私も」
即答だった。だが、言った直後、その顔に迷いが浮かんだ。
家の奥、隣の家と繋がっているその扉から、小さな声がした。
「おねえちゃん……だれかいるの~?」
「……なんでもない、よ!」
シュリにしては頑張ったような大きな声を出し返事をする。
少し待つと、小さなその声は寝息に変わっていった。
「……子どもたちの面倒、みないと」
悔しさが滲んでいた。
「気にするな」
「トリエ、恩人。なのに」
「シュリの事情は分かってるから。ジャコルたちには、後で伝えといてくれるか」
「……分かった」
シュリは、しばらく俺を見ていた。
「気をつけて」
それだけ言って、扉を閉めた。
◆
シュリの家を後にして、南の方角、スラムの大通りの更に奥の方へと向かう。
城壁に近づくほど、日が届かないせいか余計に暗く重い雰囲気に変わっていく。
朝方の今はいないが、夜になるとこの辺りは『オブリゴ家』の組織員が点々としている。奴らの保護区域なのだ。
そこから、一つの路地に入る。ガドに案内してもらった道を思い出すようにして、歩いていく。
視線の先、目的の建物が見えた瞬間、息を呑む。
入口の扉が、壊されていたのだ。
「お兄ちゃん……」
「……行くぞ」
駆け足になり、その扉に近づく。
「トリエさん!」
ミナが叫びながら中に入る。俺も後に続いた。
視界に入ってきたのは、衝撃的なものだった。
室内は、荒れていた。棚の瓶が床に散らばり、割れたものもある。乾燥した薬草が踏み荒らされていた。
だが、血の跡はなかった。
(争った形跡はある。でも――)
「殺されたわけじゃ、なさそうだ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
ミナが、床に落ちた小さな石臼を拾い上げた。
「トリエさん、どこ行っちゃったの……」
その声が震えていた。
◆
それから、近所の住人に聞いても、誰もはっきりとは答えなかった。目を合わせず、首を振るだけだった。
まるで、この事に触れること自体を避けているようだった。
(一歩遅かった……)
先ほどの部屋の状況からして、部屋が荒らされてからそれほど時間は経っていないだろう。
犯人は『異端審問官』と呼ばれる奴らか、それとも別の誰かか。想像したところで、候補が多すぎた。トリエの特異性からして、彼女を狙う勢力はあまりにも多いだろう。
思考半ば、諦めかけたところで、背後から声がかかった。
「――あいつを探してるのか」
その声には聞き馴染みがあった。
振り返ると、いつもと同じような格好をした男がいた。
「ガド……」
「おじさん!」
「ボウズ、嬢ちゃん、元気してたか?」
ニヤッと笑うガドに詰め寄る。
「トリエさんが――」
「知ってる」
そう言うガドの声から、いつもとは違う真剣さを帯びているのを感じる。
「連れて行かれたのは、昨日の夜だ」
「誰に」
ガドは、少し言葉を選ぶような間を置いた。
「オブリゴだ」
息を呑んだ。
スラムを牛耳る組織、『オブリゴ家』。
「なんで、オブリゴが」
「金になるからだよ」
吐き捨てるように言った。
その言葉を聞いて、合点がいく。
「製薬の腕、教会が独占してる技術。それを持った人間だ。奴らにとっちゃ、宝の山を歩いてるようなもんだ」
「異端審問官が来る前に、先に確保したってことか」
「多分な」
しかし、これまで教会と対立することを避けていた印象の組織だったが……。
その証拠に、アウレアの教会があるスラムとは別のこの区画を『保護区』として、保護費を徴収している。住み分けしているように感じたのだ。
「殺されてはいない。それだけは確かだ。金になる人間を、無駄に潰すほど馬鹿じゃない」
「保護されてる、ってことか」
「言葉を選べばな」
その言い方には、隠しきれない苦さがあった。
今は、というだけで、この先の話をしなかったのは嫌な想像が容易にできるからだ。
(例えば、彼女がオブリゴに拷問をされて、製薬の知識を吐いたとしたら、彼女は用済みになるだろう)
そんな嫌な想像。
同じような考えを持ったのか、ガドが口を開く。
「教会よりは、マシかもしれねえが。だが――」
ガドは、そこで言葉を切る。
「許せねえな」
その一言に、これまで見たことのない感情が滲んでいた。安堵とも、怒りともつかない、複雑な色だった。
一緒に迷宮から生還した仲間として、同じ都市に生きる者として、放っておけない。そう言っているように聞こえた。
ミナがこれまでの話を聞いて、ガドに聞く。
「おじさん、どうするの?」
「救出する」
ガドが即答した。
この男の行動力、そしてこの決断力はどこから来るのだろうか。俺は、相手が巨大な組織と聞いて、気持ちが足踏みしているというのに。
「オブリゴの本拠地がどこにあるかも、正確には掴んでねえ。下手に動けば、こっちが潰される」
「情報を集めるしかない、か」
「しばらく、俺が探りを入れる。お前らは、普段通りにしとけ」
「……」
簡単には割り切れなかった。
こういったときに力になれないのは、苦しい。
「怒った顔すんな、ボウズ」
ガドが、俺の肩を軽く叩いた。
「あいつは、簡単には死なねえよ。俺が保証する」
根拠のない言葉だった。それでも、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
◆
スラムを出て、商人街へ戻る道すがら、通りの向こうがまた騒がしくなっていた。
「また、あの一団か」
白い装束の騎士たちが、大通りを進んでいた。中央に、小柄な人影がある。
昨日も見た、聖女の一行だった。
それだけ確認してその場を後にしようとすると、ミナが、じっとそちらを見ていた。
その時だった。
通りの端で、薄汚れた身なりの子供が転んだ。露店の荷物にぶつかり、積まれていた籠が崩れる。
わっ、と騒ぎが起こる。
「――無礼だぞ!」
一行の中、先頭の騎士の一人が、鋭い声を上げた。
「聖女様の御前である。控えよ!」
子供が、怯えたように身を縮めた。
あのように威圧しては、あの子供も恐怖で身動きが取れないだろう。
周りの人だかりも、動く気配はない。硬直状態が生まれ、騎士が子供に近づいていく。
「お兄ちゃん……」
ミナがこちらを見ている。
その瞳から、あの子供を助けてあげよう、という意思が見て取れた。
「分かってる……」
その場所に向かって、歩を進めようとした。
その時。
「――大丈夫ですか」
澄んだ声が響いた。
一行の中心にいた、小柄な人影。その少女が、自ら子供の前にしゃがみ込んでいた。
周囲がざわめいた。
「ルナーリア様、そのような者に直接――」
「構いません」
(あれが……聖女か?)
ルナーリアと呼ばれたその少女は、子供の手を取って、静かに立ち上がらせた。
「怪我はありませんか」
「……」
子供は、言葉を失っているようだった。
少女が優しく、子供の服についた土を手で払っている。
「痛いところがあれば、教えてください」
その笑顔は、遠くから見ていても分かるほど、完璧な角度で作られていた。
俺は、その光景を見ながら、動けなかった。
(優しい子、なんだろうな)
そう、思わされた。昨日聞いた話が、頭をよぎる。今、目の前で子供を助け起こしているこの人が、トリエを追い詰める側にいる存在なのかもしれない。
その不釣り合いさに、うまく感情を処理できなかった。
「……ユウト」
ミナが、俺の袖を引いた。
目の前の光景をどう処理していいのか分からず止まっていたところ、現実に引き戻される。
「大丈夫?」
「ああ、ありがとう」
答えながら、無意識に、ミナの肩に手を置いていた。
その動きに、一瞬。
ルナーリアと呼ばれる少女の視線が、こちらに向いた気がした。
子供から手を離し、立ち上がったその目が、確かに、俺とミナを捉えていた。
一瞬、の出来事だったのかもしれないが、それがやけに長く感じられるほど、お互いの目が合っていたように思えた。
聖女。そう呼ばれるのにふさわしいと思えるほど、幻想的で美しい少女だ。
すぐに、その視線は逸れた。彼女は何事もなかったように、また歩き出した。
騎士たちが、その後に続く。
一団が人混みに消えるまで、俺はその場を動けなかった。




