2・抑
――翌朝、私は学校に行くため、住宅街を歩いていた。
季節は冬なのでやや寒いが、十二月の初旬である今はまだ雪も降らず、この中途半端な風景もいつもと変わることなく存在している。
私の家は学校から結構離れた辺鄙な場所にあるので、この住宅街を越えて、都会エリアの真ん中まで歩かなければならない。
時間にすると二十分ぐらいはかかるから、家を八時前には出るようにしている。
この町は都会と田舎が入り混じったような町だ。
北と南で都会エリアと田舎エリアで分かれていて、北は結構大都市と言えなくもないビル群や商業施設も多い所だが、南は殆ど荒野か田んぼか山しかないエリアだ。
両エリアに住宅街があり、人が住んでいるのだが、当たり前ながら、貧富の差で分けられていると言える。
田舎エリアにはコンビニやスーパーもないので、買出しに行くのにも都会エリアに行かなければならない。
そんな不便な場所だから、土地代は安い。
その代わり苦労もするが、この町に住むなら致し方ないことだ。
逆に都会エリアに住むには、少なくとも年収が四〜五百万円ぐらいないと厳しいと言えるだろう。
土地代は勿論、アパートなどの借家も、敷金礼金家賃含めて田舎エリアの四倍ぐらいの値段なのだから。
例えを出すなら、同じ町に、賑わっている本来の町と、貧民街(スラム街)があるようなものだ(この町はそこまでひどくはないが)。
そして私の家は、その中間の位置の住宅街にある。
どっちつかずの蝙蝠のように、ちょっと北に歩けば都会だし、南に五十メートル歩けばそこはもう田んぼや荒野の世界という、両エリアに挟まれる形の場所だ。
こういう住宅街は小競り合いになった時困るが、幸い両エリアは仲が悪いわけではなく、互助の精神を持っているから助かるというものだ。
といっても、相当前に学校が建造されて以来、田舎エリアが中々開発されていないので、都会を羨む者も少なくない。
しかもせっかく建造された田舎エリアの学校も、経営状態が悪いらしく、廃校になるのも時間の問題と言われている。
他にも大規模なビル群を田舎エリアに建てようと計画していたが、建造中のビルの屋上で飛び降り自殺が相次いで起こったため、建造は中断され、そのビルは封鎖されている。
たとえ建造が再開されたとしても、企業のためのビルだ。
田舎の者たちはそこに就職できるわけでもないので、彼らにあまり意味はない。
だから、いずれ何らか理由で衝突するのではないかと私は推測している。
学校に行くために、私はまず登校班のメンバーの家に行くことにする。
このような登校するときのグループは昔からずっとあった。
主に誘拐等の対策だったが、最近は犯罪が増えて物騒ということで、地域ごとに分けられていた班を近い順に合体させて、人数を増やして登校させている。
でも、私の登校班は、相変わらず私を含めて二人という少なさだ。
こんなどっちつかずの場所だからこそ、両エリアの者たちに変な目で見られることもある。
それ故に、この地域に住むものは稀なのだ。
自分の家から少し歩き、番地をいくつか越えた先にある住宅で、そいつは待っていた。
「あ…………お、おはよう…………」
弱々しい挨拶を私に向かってする少年は、その口調と同じように貧弱な体型だった。
なんというか、「暗い」という単語が服着て歩いているような奴だ。
細身で痩せていて、伏し目で俯きがちという、ちょっと病的なまでの弱々しさ。
しかもその痩せ方は尋常ではなく、腕が私より相当細い(決して私が太っているわけではなく)。
下り坂でちょっと押すだけで簡単に転がっていきそうだ。
決定的なのが、こっちまでうっとおしくなるほどに伸びた前髪。
両目の間にだらんとたれたそれを、何度切ってやろうとしたか分からない。
その度に半泣きで止められて、結局実行できずにいるわけだが……
「今日もシケタ面ね」
会って第一声の台詞ではないが、こんなおどおどした態度は好きじゃないので、いつもこんなことを言ってしまう。
「あはは…………ごめん」
苦笑気味に言うが、こいつもそんな悪態には慣れたのか、落ち込んだ様子はない。
「じゃあ…………行こうか」
むしろ全然気に留めない様子に少し腹が立って、
「――今日は苛められないといいのにね」
「……っ!」
……言わなくていいことまで言ってしまった。
「―――ごめん」
「いい……よ。僕が………………こんな…………だから…………いけないんだ…………」
さすがに申し訳なくなって謝ると、即座にこんな返事が返ってくる。
そんな卑屈な態度にも腹が立つ。
だからつい言ってしまうんじゃないか。
「言いたいことがあるならはっきり言った方がいいよ。クラスの奴等に」
「……でも…………それじゃ…………もっと………………ひどいことされるよ……」
「じゃあ今のままでいいわけ? このまま何もしなかったら何も変わらないよ?」
「…………もっと…………悪くなるよりは………………マシだよ」
「――――ああもうじれったい! “・・・”抜きで喋りなさいよ!」
「ごめん……」
「―――――ちっ!」
わざと聞こえるよう大げさに舌打ちすると、さっさと歩き出した。
少年が慌てて後ろに続くが、私はしばらく話しかけなかった。
少年は私より二歳年下の――まあ幼馴染と言えなくもない間柄で、彼の一家がこの住宅街に引っ越してきてからの付き合いだ。
といっても家同士は少し離れていたし、学校は同じでもクラスや学年が違うので、元々そんなに接点はなかった。
学校の登校班が一緒じゃなかったら、ずっと他人のままだったと今でも思う。
それが幸か不幸かはともかく。
多分に私と性格は正反対だが、よく見たら顔立ちは結構整っているのに、女性に間違われるほどに長い髪のこともあり、なおかつこんなびくびくおどおどした奴なので、クラスではからかわれたりすることが多いらしい。
そのこともあって、私はこいつの世話を色々焼かされる身になってしまったのだが、彼にとっての一番深刻な問題に対しては、このように本人が諦めている傾向があるのでどうしようもない状態だ。
それに、自分の考え方なんて簡単に変えられるわけでもないから仕方がない。
何より私も人のことが言えた義理ではないので、強引な手段に出られないのだ。
父と同じように私を不愉快にさせる存在だが、彼の場合は何故か「関わろう」という気にさせてくれるから、不思議な存在でもある。
今のように罵倒したりすることが多いが、父の場合はそんな気すら起こらない。
無関心でいるのと罵倒したくなるのとでは、どちらの方と仲が良いかは明白だろう。
そんな気にさせるのは、彼にどこか好意的な感情を抱いているからだろうが、それも含めて不愉快になるのだ。
本当に、ムカつくやつ。
「――今日はどうする?」
仕方なしに私はまた話しかける。
「え……どうするって?」
いちいち言わせるな。
主語述語をはっきり言われないと一切分からないのかアンタは。
「今日、学校終わったらどうするって訊いてんの」
それでも、微妙に言わないように直した。
「え……ああ、うん! 別にどこでもいいよ!」
得心した途端に顔を綻ばせてくれるのはいいのだが、「どうする」と訊いているのに「どこでもいい」と答えるなんて、なってない奴だ。
妻が「今日の晩御飯は何がいい?」と訊いてきたのに対し、「何でもいいよ」と答える夫と同じようなものだ。
しかも、こういうのは普通男が決めるものだろう。
そんなところも苛められる原因なんだ。
「――じゃあ、今日は公園に行かない? あっちの方の」
仕方なしに、私は前から行ってみたかった所へ誘う。
「あっちって、田舎の方の?」
「そう。少し歩くけど、静かで良いと思う」
「……そうだね。うんわかったよ! たのしみだね!」
悲しそうな表情から一転させて、満面の笑みでそう言った。
ちょっと公園に行くだけなのにそこまで喜べるのも凄いことだが、そんな表情を見ていると、私の顔も自然と緩んだ。
クラスでもそんな顔が出来ればいいんだろうけど、人見知りの激しいこいつには、やっぱり無理な話なのか――
*
――学校に着いた後、少年と別れて自分の教室に入ると、私を視界に捉えた全員がこちらを見てきた。
会話をしていたクラスメイトが話を中断させ、私の後から教室に入ってきた者たちも足を止めて、私を見る。
『「……………………………………」』
特に何を言うでもない。
ただ見ているだけ。
だが、好意的な目で見られていないのは明らかだった。
何人かの者は、私と目が合うとすぐ逸らし、そそくさと自分の席に戻っていく者が殆どで、中にはさりげなく私のことを「ウザイ」といいながら舌打ちをするやつもいた。
――そう、私もあの少年に偉そうなことを言える立場ではないのだ。
私も、ほぼ同じ状況だから。
ただ、彼とは決定的に違うところがある。
それとの付き合い方だ。
「何か言いたいことがあるなら聞こえるように言えば?」
舌打ちをした男子に私は詰め寄り、鋭い口調で責め立てる。
「べ、別に何でもねーよ。お前自意識過剰なんじゃねーの?」
「へえ、そんな言葉よく知ってるね。ちゃんと意味分かってて使ってんの?」
「ばっ、ばかにすんじゃねえ! ちゃんと調べたんだ!」
「―――ぷっ! 調べたあ? なに、あんたひょっとして、私に対抗しようとして国語辞典で調べて来たとか言わないよねえ!?」
「……ぐっ!」
見る見るそいつの顔が真っ赤になり、やがて俯きだす。
「あはははは! あんたも可愛いとこあるよねえ!? でも残念。今回の件は、明らかにあんたが私の顔を見て露骨に嫌そうな顔して舌打ちして、挙句の果てには私の名前をはっきり出して「ウザイやつが来た」と言ったことから、それは“悪意”って言うの。分かる〜? 今度はこの言葉を辞書で引いときなさいよ。あっははははは!」
「――――ぐっ、うるっせえんだよお前は! ちょっと頭が良いからって見下してんじゃねえ!」
「見下してなんかいないよ。私より劣っているという事実を言ったまでよ」
「てめえ!」
「―――何をしている!」
「う……っ!」
ついに男子生徒が拳を振り上げたが、ちょうど担任教師が教室に入ってきたので、そいつは縮こまって逃げるように自分の席に戻っていった。
……小心者が。
心の中でそいつを見下し、教師には適当に嘘をついてその場を収め、自分の席についた。
「――6a+3を因数分解したらどうなる? 誰か、分かる奴いるか?」
ある意味、こういう問題の出し方は苛めだ。
クラスの奴らは誰一人手を挙げない。
しかし、私の場合は手を挙げないことが異常とされるから、答えないわけにはいかない。
仕方なく、私は手を挙げて答える。
「3(2a+1)です」
「よし正解だ」
教師は誉めるが、クラスの奴等の誰一人として誉めている奴はいないだろう。
むしろ疎ましがっている奴が多々いるはずだ。
――だったらアンタたちが答えればいいのに。今の問題ぐらいならまだ分かるでしょう?
「次は、a+acだ。誰か分かる奴ー?」
『「………………………………」』
何で誰も挙げないんだよ。aの共通因数でくくればいいだけだ。
こんなのはサービス問題なのに……
「……a(b+c)です」
「そう、正解だ」
――恐らく、彼らが私より劣っていることは、紛れもない事実なのだろう。
でも、こいつらはそれを気にし過ぎなのだ。
今の問題だって、絶対分かる奴もいたはずだ。
だけど、私の存在が邪魔をして、答えにくくさせる。
この問題に正解できたとしても、私に到底追いつくことはできないから……
だとしても、彼らの知能は、それが当たり前なのだ。
……異常なのは、私のほうだから。
この年にしては、知能が他の誰よりも優れているらしいから。
「―――では、依益小学校四年二組の今日の授業を終わる」
……それが、原因だった。
クラスメイトとも、そして、父とも不仲になってしまったのは。
私はまだ小学四年生で、九歳という年齢だからだ。
そんな私は、彼らからしたら、きっと異常な存在だったに違いない。
自分で言うのも何だが、私は恐らく大人と大差ない程の知識を持っている。
そのせいで、周囲の人間からは奇異や妬みの目で見られ、約一名からは畏怖の目で見られるようになったのだ。
ただ、生まれついての知能指数(IQ)や才能のことだけならともかく、それなりの努力をして今の知識を手に入れた私を妬むのは、全くのお門違いというものだ。
どんなに才能があろうと、基礎をおろそかにしたらどうにもならないように、才能を開花させるための努力が必要なのだ。
私にとっての努力とは、母との勉強会によるものだ。
私は今より小さい頃から、昨晩のような勉強会を、一日に一回以上させられていた。
当時幼稚園通いだった私は、幼稚園がある時は夕方と晩に、ない時は昼間に、一日平均六時間は勉強していた。
普通はそんなに勉強させられたら嫌がるかもしれないが、私は全然嫌ではなかったし、むしろその時間を楽しみにしていた。
それは多分、母の教え方が上手だったことに起因する。
母は今でこそ専業主婦だが、寿退職する前は、学校の先生をしていた。
そのこともあって教えるのも得意なのだろうが、それ以上にあのポワンとした性格の成せる業だろうか、人を誉めたり、喜ばせたりするのが抜群に上手い人でもあった。
幼い頃の、本意ではない行動をするための原動力は、誉められることが主に挙げられる。
誰かに自分のやることが認められ、それを誉められて喜び、次も同じことをやろうとする。
その心理を利用(この言い方は好きではないが)したのだ。
実際、私はそのおかげで勉強することが嫌いになるどころか、大好きになったし、もっと誉めてもらいたくて、自分で独自に勉強もした。
本や新聞を読んだりインターネットで調べたり、その度に新たな知識を母に披露した。
国、数、理、英、社などの科目のことはもちろん。
この国のこと、公民や倫理、一般常識、政治経済など、大人顔負けの知識を手に入れて伝えると、母は最初少し驚いていたが、すぐにあの、見るものを幸せにさせる笑顔で喜んでくれた。
そして、昨晩のように、私の頭をなでてくれる。
それが、本当に嬉しくて、もっとそうしてもらいたくて、勉強を続けて今に至るということだ。
早い話が、母は私にとっての全てだった。
……でも、父はそうではなかった。
母のように喜んではくれなかった。
それどころか、異常者を見るような目で私を見て、次第に私を避けるようになり、それを認めて私も関わらないようになった。
――ただ、それだけのことだ。
民主主義をとっている日本では、少数派の意見はいつだって通らないのと同じように、私のような少数派の人間も、家(の一部)や学校では受け入れてもらえないのだ。
……不愉快だ。