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そのダンジョン事故、保険金は出ません。 〜元査定員の俺はログ鑑定で無謀な探索者の嘘を暴く〜  作者: 平八
第三章 その支払済み案件、まだ終わっていません

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第32話 支払済みを、受け入れたわけではありません

支払済み通知書は、静かに届く。


 謝罪の声もない。


 説明のやり直しもない。


 担当者の顔もない。


 ただ、紙と数字だけが届く。


 支払額。


 本人過失割合。


 減額理由。


 処理済み。


 異議なし。


 その文字列は、受け取った人間にこう告げる。


 もう終わりました。


 あなたは納得したことになっています。


 あなたは異議を出さなかったことになっています。


 これ以上、言うことはありません。


 支払済み通知書は、ときどき金を払う書類ではない。


 人を黙らせる蓋だ。








 朱ヶ丘案件の保護者面談は、事故査定課の小会議室で行われた。


 相手はオンライン接続だった。


 画面の向こうに映ったのは、四十代半ばほどの女性だった。


 佐伯由里。


 朱ヶ丘民間訓練所事故の被害児童、佐伯芽衣の母親。


 支払済み通知書を、まだ捨てていなかった人。


 未送信文に、


【納得なんて、していません】


 と残していた人。


 画面越しの佐伯さんは、最初から泣いてはいなかった。


 むしろ、顔は硬かった。


 警戒している。


 また何かを説明されると思っている。


 また何かに同意させられると思っている。


 それが、画面越しでも分かった。


 御園ミミが、最初に頭を下げた。


「佐伯さん。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


『……はい』


「今日は、支払済み通知書の内容を、もう一度押しつけるための面談ではありません」


 佐伯さんの目が、少しだけ動いた。


「こちらが確認したいのは、当時、佐伯さんが何を説明され、何を選べたのかです」


『選べた……』


「はい」


 御園さんの声は、柔らかかった。


 だが、甘くはない。


「答えたくないことは、答えなくて大丈夫です。途中で止めても構いません」


『止めても、いいんですか』


「はい」


『……前は、止められませんでした』


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 俺は端末を開いた。


【朱ヶ丘案件 保護者面談記録】

【目的:説明状況および選択可能性の確認】

【注意:心理的負担に配慮し、回答強制を行わない】

【同席:御園ミミ/黒木司】

【技術待機:相沢圭吾】

【管理確認:真鍋課長】


 真鍋課長は、隣室で記録確認に入っている。


 胃薬の瓶ごと。


 この場には来ていない。


 御園さんが前に出る場面だからだ。


 黒木司という査定官の顔は、今は必要最低限でいい。


「佐伯さん」


 御園さんが言った。


「当時の画面について、覚えている範囲で構いません。何が見えていましたか」


 佐伯さんは、しばらく黙っていた。


 その沈黙を、誰も急かさなかった。


 前の四十二秒とは違う。


 今回は、沈黙を同意にはしない。


『……文字が多かったです』


「はい」


『金額と、割合と、説明の文があって……でも、娘が横で、息が苦しそうで』


 佐伯さんの目が、画面の外へ逃げた。


『私は、画面を見なきゃいけないのか、娘を見なきゃいけないのか分かりませんでした』


 御園さんは頷いた。


「そのとき、芽衣さんの呼吸は落ち着いていましたか」


『落ち着いていませんでした』


 御園さんは、ゆっくり頷いた。


「……分かりました。無理のない範囲で、続けてください」


『看護の方が、息をゆっくりって言っていて。でも、娘は何度も喉を押さえていて。私は、画面の文字なんて、ほとんど読めていません』


 俺は入力する。


【保護者証言】

【説明画面表示中、児童の呼吸状態は安定していなかった】

【保護者は児童の呼吸状態を確認しながら画面を見ており、説明文の十分な読解は困難であった旨を述べた】


 佐伯さんは、こちらの入力音に気づいたのか、少し身を固くした。


 御園さんがすぐに言った。


「記録しています。ただ、佐伯さんを責めるための記録ではありません」


『……本当ですか』


「はい」


『前も、記録しますって言われました』


 御園さんは、黙って聞いた。


『記録します。説明しました。ご確認ください。そう言われて、画面を見せられて……そのあと、全部、私が納得したことになっていました』


「今回は違います」


 御園さんは静かに言った。


「佐伯さんが何を選べなかったのかを記録します」


 佐伯さんの唇が、わずかに震えた。


『選べなかった……』


「はい」


『本当に、選べていません』


「教えてください」


 佐伯さんは、両手を膝の上で握った。


『画面の下に、小さな数字が出ていました』


 俺は、端末のカーソルを止めた。


 御園さんも、佐伯さんを見た。


「数字」


『はい。確認してください、という文字と一緒に、十三、十二、十一って、赤い数字がカウントダウンを始めて……』


 十三。


 十二。


 十一。


 前話のログと一致する。


【T+00:29 確認欄表示】

【T+00:29 確認猶予カウント開始】

【T+00:42 確認猶予終了】


『でも、何の説明も受けていません。娘が苦しそうで、背中をさすりながら、急がなきゃと思って文字を読もうとしたのに、数字はどんどん減っていって』


 佐伯さんの声が、そこで少し低くなった。


『あの数字に、追い立てられたんです。何かを考えたり、選んだりする時間なんて、最初からありませんでした』


 御園さんの表情が、一瞬だけ変わった。


 怒りだった。


 だが、彼女は声を荒げなかった。


「そのカウントの意味について、説明はありましたか」


『ありません』


「時間が過ぎたらどうなるかは」


『分かりませんでした』


「異議申立のボタンは見えましたか」


『分かりません』


「分からない」


『はい。どこかにあったのかもしれません。でも、私は見つけていません。画面の下の方に、小さい文字があったような気もします。でも、開いた覚えはありません』


「押しましたか」


『押していません』


「同意する、というボタンは」


『押していません』


「異議を出さない、というボタンは」


『押していません』


 佐伯さんは、ここで初めて、はっきりと画面を見た。


『私は、何も選んでいません』


 部屋が静かになった。


 御園さんも、俺も、すぐには言葉を挟まなかった。


 佐伯さんは続けた。


『時間が過ぎたら、画面が変わりました』


「画面が変わった」


『はい。次の画面に進んで、戻れませんでした』


「戻るボタンは」


『探しました。でも、分かりませんでした。担当の方に聞いたら、もう処理は進んでいますって』


 俺は、照合する。


【異議申立導線:折りたたみ表示】

【保護者側による異議申立導線展開ログ:なし】

【確認猶予終了後処理:説明担当者側処理へ移行】

【戻り操作ログ:なし】


 戻れなかった。


 正確には、戻り操作の記録がない。


 しかし、戻れる導線を認識できていない。


 それは、選択肢が存在していたこととは別だ。


 俺は入力する。


【保護者証言】

【説明画面下部に確認猶予カウントが表示されていた旨を述べた】

【保護者は、当該カウントの意味および終了後処理について説明を受けていない旨を述べた】

【保護者は、同意操作、異議放棄操作、異議申立導線展開のいずれも行っていない旨を述べた】

【確認猶予終了後、画面が次工程へ進み、戻る方法を認識できなかった旨を述べた】

【保護者は「私は、何も選んでいません」と述べた】


 佐伯さんの目が、入力欄を見ていた。


『今の、書いてくれるんですか』


「はい」


『私が、何も選んでいないって』


「はい」


 御園さんが言った。


「佐伯さん、それは重要な確認です」


『でも、通知書には、異議なしって』


「はい」


『支払済みって』


「はい」


『私が、何も言わなかったからって』


「はい」


『でも、違います』


 佐伯さんの声が、少し震えた。


 怒りだった。


 泣き声ではない。


『私は、何も言わなかったんじゃありません』


 御園さんは、ただ聞いた。


『言えなかったんです』


 画面の向こうで、佐伯さんの肩が小さく動いた。


『娘が息をできなくて、私は何を読んでいいか分からなくて、数字が減っていって、担当の人は「確認してください」とだけ言って。あれで、何を言えばよかったんですか』


 御園さんの手が、机の上で一度だけ握られた。


『後から通知書が来て、五〇%って書いてあって、支払済みって書いてあって。もう、私が納得したことになっていて』


「はい」


『納得なんて、していません』


 未送信文と同じ言葉だった。


 だが、画面の文字よりも重かった。


 声になった瞬間、その言葉はログではなくなった。


 証言になった。


 御園さんが、ゆっくりと言った。


「佐伯さん」


『はい』


「今の言葉を、面談記録として残してもいいですか」


 佐伯さんは、目を伏せた。


『……残してください』


「はい」


『あの時、私が何も言わなかったことになっているなら、違うって残してください』


「残します」


 俺は入力する。


【保護者証言】

【保護者は「私は何も言わなかったのではなく、言えなかった」と述べた】

【保護者は「納得なんて、していません」と述べた】

【上記証言は、支払済み通知書上の「異議なし」記録と矛盾する】


 入力を確定する。


 御園さんが、続けた。


「佐伯さん。芽衣さんは、今、この件について話せる状態ですか」


『無理です』


 即答だった。


『画面を見ると、息が詰まるって言います。通知書も見たがりません。あの訓練所の名前を見るだけで、手が冷たくなります』


「はい」


『だから、私も、もう触らない方がいいと思っていました』


「はい」


『終わったことにした方が、娘のためなんじゃないかって』


「はい」


『でも、終わっていません』


 佐伯さんは、初めて怒りを隠さなかった。


『支払われたから終わりなんじゃありません。通知が来たから終わりなんじゃありません。娘はまだ、あの画面の中にいます』


 御園さんの表情が、少しだけ変わった。


 治癒師の顔。


 そして、このチームを支えるプロの顔だった。


「その通りです」


 御園さんは言った。


「金額を振り込めば人間が納得すると思っているのは、机の上の書類しか見ていない人間だけです」


 声は静かだった。


 だが、怒りが乗っていた。


「システムが勝手に閉じた蓋の下で、芽衣さんも、佐伯さんも、ずっと息を詰めさせられていた」


 佐伯さんは、画面の向こうで何も言わなかった。


「その蓋を、終わった書類として認めるわけにはいきません」


 佐伯さんは、画面の向こうで手で口元を押さえた。


 涙は出ていない。


 だが、小さく、深く、息を吸った。


 たぶん、この人はずっと、息を止めていたのだ。


 四十二秒ではない。


 支払済み通知書が届いてから、今日までずっと。


『……よかった』


 声は小さかった。


『終わっていないって、言ってもらえて』


 俺は、その沈黙の隙間に、淡々と次のファクトを打ち込んだ。


【医療所見予定】

【児童は説明画面および支払済み通知書に対し、呼吸困難感、冷感等の反応を示す旨、保護者が述べた】

【事故説明および補償通知が二次的ストレス反応を誘発している可能性あり】

【詳細は治癒師所見として別紙化予定】


 御園さんは、俺の入力を見て、短く頷いた。


 感情をログに変える。


 痛みを記録に戻す。


 それが、俺たちの仕事だ。


 佐伯さんが、恐る恐る聞いた。


『あの……これは、どうなるんですか』


 ここで、嘘は言えない。


 安心させるための言葉を置く場所ではない。


 俺は、画面を見た。


「現時点で、支払済み処理が直ちに取り消されるわけではありません」


 佐伯さんの顔が、少し曇った。


「ただし」


 俺は続けた。


「支払済み通知書では判断しません」


『え』


「金額が支払われたかではなく、佐伯さんが何を選べたかで判断します」


 佐伯さんは、言葉を失った。


「通知書上は、異議なしです。ですが、佐伯さんの証言、保護者側保存データ、画面ログ、バイタルログは、その記録と矛盾しています」


『……』


「そのため、本件の説明済み処理、同意欄処理、異議なし処理について、再確認対象として扱います」


『再確認……』


「はい」


 御園さんが補足した。


「すぐに全部が変わるとは言えません。でも、少なくとも、佐伯さんが何も選ばせてもらえなかったことは、記録に戻ります」


 佐伯さんは、手で口元を押さえたまま、ゆっくり頷いた。


『戻るんですか』


「はい」


『私が、納得していなかったことが』


「はい」


『娘が悪かっただけじゃないかもしれないって』


 ここで、俺は少しだけ間を置いた。


「本人過失五〇%の前提は、再確認します」


 断定はしない。


 だが、閉じない。


「少なくとも、現時点では、佐伯芽衣さんの判断ミスとして処理を完了させる根拠は崩れ始めています」


 佐伯さんは、また小さく頷いた。


 呼吸は、さっきよりも少しだけ深くなっていた。


 御園さんは、静かに頭を下げた。


「今日は、ここまでにしましょう」


『はい』


「この後、こちらから面談記録の確認用文面をお送りします。読んで、違うところがあれば直してください。急がなくて大丈夫です」


『急がなくて、いいんですか』


「はい」


『時間で勝手に進みませんか』


 御園さんは、一瞬だけ言葉を失った。


 だが、すぐに言った。


「進みません」


 その声は、今日一番強かった。


「佐伯さんが確認するまで、進みません」


 佐伯さんは、初めてほんの少しだけ頷いた。


『……分かりました』


 通信が切れた。


 小会議室に、静かな音だけが残った。


 端末のファンの音。


 空調の音。


 御園さんの、浅い呼吸。


 俺は、面談記録を保存した。


【朱ヶ丘案件 保護者面談記録】

【証言一:説明画面下部の確認猶予カウントを認識。ただし意味の説明なし】

【証言二:児童の呼吸状態悪化により、説明文の十分な読解は困難】

【証言三:同意操作、異議放棄操作、異議申立導線展開はいずれも行っていない】

【証言四:確認猶予終了後、画面が次工程へ進み、戻る方法を認識できなかった】

【証言五:「私は何も言わなかったのではなく、言えなかった」】

【証言六:「納得なんて、していません」】

【初期評価:支払済み通知書上の「異議なし」記録と、保護者側証言および保存データが矛盾】


 保存完了。


 御園さんが、画面を見たまま言った。


「黒木さん」


「はい」


「これは説明じゃありません」


「はい」


「黙らせる手順です」


 俺は、画面を閉じなかった。


「記録上は、説明済みです」


「だから、腹が立つんです」


「はい」


 御園さんは、静かに息を吐いた。


「次は、どこですか」


「教育訓練支援室です」


「久我、ですか」


「標準様式の設計者として、名前が出ます」


「この手順を作った人」


「はい」


「どうして、こんなものが通ったんですか」


 俺は、朱ヶ丘案件の面談記録と、十一件の比較表を並べた。


 片方には、人の声。


 もう片方には、同じ空白。


 その上にあるのは、同じ名前だ。


【参照様式:KG系テンプレート】

【確認区分:標準処理】

【最終確認:教育訓練支援室 上席監理官 久我】


「それを、次に確認します」


 俺は、新しい照会メモを作成した。


【次工程】

【教育訓練支援室への標準処理妥当性照会】

【確認事項:KG系テンプレートの設計目的】

【確認事項:確認猶予および異議申立導線の妥当性】

【確認事項:本人側明示同意ログ不在時の処理成立条件】

【確認事項:支払済み通知書における異議なし記録の根拠】


 御園さんが、画面を見た。


「黒木さん」


「はい」


「次は、相手も強いですか」


「はい」


「どう強いですか」


「正しいことを言います。それも、完璧な正論を」


 御園さんが、眉を寄せた。


「正しいこと」


「迅速化。標準化。処理遅延の防止。現場負荷の軽減。不正請求対策」


 俺は、画面に並ぶ本庁資料の見出しを見た。


「組織が機能するために、どれもぐうの音も出ない正論です。彼らは悪意で人を騙したのではない。制度を正しく回すために、人間を排除した仕様を作った。だから、簡単には崩せません」


 御園さんの声が、少し低くなった。


「でも、実際には」


 俺は、佐伯さんの証言記録を見た。


【私は、何も選んでいません】

【私は何も言わなかったのではなく、言えなかった】

【納得なんて、していません】


「はい」


 俺は頷いた。


「正論を盾にして、当事者の反論を最初から待たない設計です」


 御園さんは、何も言わなかった。


 小会議室の画面には、まだ二つの記録が並んでいる。


 異議なし。


 納得なんて、していません。


 同じ事故に対する、二つの記録。


 どちらを真実として扱うか。


 それを、支払済み通知書だけで決めてはいけない。


 支払済みを、受け入れたわけではない。


 黙っていたのではない。


 黙らされていた。


 まだ、彼らの判断ミスとは認めない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第32話では、朱ヶ丘案件の保護者面談へ進みました。


これまでログ上では、


・画面滞在時間四十二秒

・確認猶予十三秒

・同意ログなし

・異議放棄ログなし

・支払済み通知書には異議なし


という形で見えていました。


今回は、その裏側にあった保護者の声です。


「私は、何も選んでいません」

「私は何も言わなかったのではなく、言えなかった」

「納得なんて、していません」


支払済み通知書は、事故を終わらせたような顔をしていました。


けれど、受け入れたわけではありませんでした。


次回は、


『久我式は、なぜ通ったのか』


KG系テンプレートを設計し、標準処理として通した本庁側の理屈へ進みます。


迅速化。

標準化。

処理遅延の防止。

現場負荷の軽減。

不正請求対策。


一見まともな理由の中に、何が隠されていたのか。


引き続き、事故査定課の査定を見届けていただけると嬉しいです。

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