最終話 さよなら僕のホームサウナ
もう少しで「ととのう」の正体を掴めそうなところまで来た。
しかし───本当に、あれがそうだったのだろうか。
今日はホームサウナに来ていた。
サウナを出て、水風呂に浸かり、外気浴をしてみる。
だが、あのときのような感覚が訪れる気配はない。やはりここは、温度差が足りないのかもしれない。
そうして、サウナーたちは高温のサウナを求め、より冷たい水風呂を求めていくのだという。
外気浴を終え、二度目のサウナに入った。
ボス猿と、ひとり。
お役所さん、般若さん、筋トレさん。
今日は常連組が勢揃いだ───そう思いながら中段に腰を下ろすと、あとから王子も入ってきた。
(先日はグッジョブでした)
心の親指を立てながらそうつぶやく。もちろん本人には聞こえない。僕があの場にいたことも知らないだろう。
王子はいつものように、腰を90度に折り曲げテレビ前を通過し、最上段右端に静かに鎮座した。
みんな、あの正体を知っているのだろうか。
聞いてみたい。
一番最初のととのう体験を。
水風呂を終え外気浴を満喫していると、内湯のととのい椅子に腰掛ける、ひとりの後ろ姿が見えた。
ひとりはいつも内気浴派だ。
ひとりも今、ととのっているのだろうか。内気浴でもととのえるのだろうか。
ひとりの場合は、内気浴というより、内気浴といったところか。
おっ、今のは上手いと、自分のセンスにニヤけていると、ひとりが立ち上がるのが見えた。
いつもなら膝を曲げずにスタスタと歩き出すはずが、その場で立ち尽くしている。なにかを探しているのか。
───次の瞬間。
ストン、と片膝をついたかと思うと、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
「!」
気づいたときには、もう駆け出していた。
内湯に戻り、ひとりのもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか! 聞こえますか!」
両肩を軽く叩く。
反応はない。
ヒートショックか。
僕は顔を近づけ、呼吸を確認する。
浅い。
脈も弱く、遅い。
危険───
もしかすると、すでにヒートショック状態で具合が悪いのに、ずっとこの椅子を独占してはいけないと、無理して立ち上がったのではないだろうか。
「おい、どうした。大丈夫か」
集まり始めていた人だかりを押し分け、ボス猿が現れた。後ろには、般若さんの姿も見えた。
僕は、ボス猿に照準を合わせるように声を差し向けた。
「すいません、スタッフに救急車の手配をお願いしてきて頂けませんか。危険な状態です」
「お、おう。わかった。おい、ちょっとどいてくれ!」
なんで俺がそんなこと、と彼がゴネないのを僕は知っている。
間違いなくボス意識があるし、与えられた役が重要なら重要なほど生き生きとするタイプ。
ボス猿はここのほぼ全員と顔見知りだし、スタッフとも懇意だから話が早いはず。この役目はボス猿が適任。
しかし、ボス猿がいなくなると場の統制が取れない。ああした方がいい、こうするべきと、無責任という傘の下で大衆が自由に発言を始めると、収拾がつかない。
これをまとめられるのは、やはり力───
「あの、大変申し訳無いんですが、みなさんに、もう少し下がってもらえるようお伝え頂けませんか」
僕は般若さんに声をかけた。
「……ん。ああ」
無表情で了承した般若さんは後ろを振り返り、言葉を選ぶように言った。
「はいみなさん、もう少し下がりましょう。危ないから。はい、もう少し」
なぜヤクザが仕切る。介護してるあいつは何者だ。誰もが自由に抱いていいはずの疑問、まっとうな主張をねじ伏せることができるのがヤクザ。
全員が口をすぼめながら後退し、場は急速に落ち着きを取り戻していく。
その流れで立ち去ろうとしていた筋トレさんに声をかける。
「すいません、ちょっと手を貸していただけますか?」
「私!? ああ、はい」
「人工呼吸をするので、身体を仰向けにします」
「え? そんなまずいの……? わかりました」
「ゆっくり」
ひとりは背が高いので、僕一人だと動かすのに強い力が必要になる。今は強く動かしたくないので、筋トレさんの手を借りる。
仰向けにしたひとりに胸骨圧迫を開始すると、筋トレさんが話しかけてきた。
「お兄さんあれかな、もしかしてお医者さん…?」
「ええ。一応、医療従事者です」
「そうなんだ。いやあ、慣れてるなあと……」
「すいません、大きなタオルを一枚お貸し頂けませんか? もしお持ちだったらですが」
「タオル? ああ、あるよ。うん」
そう言うと筋トレさんは、足早にロッカーへ向かった。
狙い通り。
筋トレさんのバスタオルが大判なのを僕は知っている。
スタッフも救急車もいつ来るか分からない。急激な体温低下を避けるため、ひとりにタオルをかけておきたい。
筋トレさんに声をかけたのは、彼の筋力と、タオルが狙いだった。
心配そうにこちらを見守り続けている、お役所さんに声をかける。
「すいません、あの、そちらの」
「へっ?」
僕は手を差し出して、正確にお役所さんを指名した。
「はい、あの、すいませんが、AEDを取ってきてくれませんか?」
「AED? ああ、はい。わかりました」
本当に役所の職員さんかどうかは知らないが、もし本当に役所の人だったら、こういう施設にAEDが設置されていることを知っているはず。
ここは少々賭けだったが、お役所さんはすぐに理解し、場を離れた。
「おい! 連れてきたぞ!」
僕が胸骨圧迫と人工呼吸を繰り返していると、スタッフを連れたボス猿と、AEDを持ったお役所さんが、ほぼ同時に戻ってきた。
「どうしました?」
マスクをつけたスタッフに、僕は答えた。
「3分前にうつ伏せに倒れ込み、呼吸が浅く脈も弱い状態だったので、胸骨圧迫と人工呼吸を続けていました。倒れたときの外傷はなさそうです。あと念のため、AEDはこちらの方が」
お役所さんが、得意げにAEDを見せて言った。
「ちょうど今、そこでみなさんと会って」
「救急車は来てくれそうですか?」
「今別の者が連絡をしています。あの、失礼ですが、お医者さまですか…?」
「はい。研修を終えたばかりですが、医師です」
その後、救急隊が到着し、ひとりは運ばれていった。
処置を引き継いだ彼らの手際は確かで、場を包んでいた緊張も、次第に日常のざわめきへと戻っていった。
そのドサクサに紛れ僕は着替えを済ませ、そっと脱衣所をあとにした。
胸の奥にまだ微かな鼓動の速さが残っていたが、任せるべき人に任せたことで、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
落ち着きを取り戻しながら、僕はスタッフルームへ向かい、自分の連絡先を告げた。
形式ばかりのやり取りを終え、外気の匂いが近づいてくる出口へ歩を進める。
建物を出ようとした、そのときだった。
一人の少年が、まっすぐこちらに歩み寄ってきた。
「おつかれさまでした」
差し出されたポカリスエット。
受け取った瞬間、彼は足早に去っていった。
王子───
後日、ホームサウナから電話があった。
中等度のヒートショック。
一日入院したが、すでに退院したという。
ご家族が僕の連絡先を知りたがったそうだが、「ご無事なら不要です」とだけ伝えた。
僕は誰とも関わり合いたくない。
ひとりが無事だったのは良かったが、もうあそこへは行けない。
行けば常連に声をかけられ、どこの大学か、どこの病院かと詮索される。
東大医学部を出て、東大病院に勤める若手医師───そんな分かりやすいプロフィールは、あっという間に広まってしまう。
誰とも関わりたくないといっても、あの状況で見て見ぬふりをすることはできなかった。
それは、医師だからではない。
王の守護者は、王の不在時に傍観者になるのではなく、銭湯全体の守護者になれなければならない。
王はなにも語らないし、なにも求めない。
僕が勝手に王と呼び、勝手に学んでいただけだ。
サウナとは。マナーとは。
「ととのう」とは。
その正体は掴めないままだ。
新たなホームサウナを探そう。
終




