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91、終わる

多分十一時か十二時にまた更新します。


「はっはっはっ……!」



 肩で息をしながら、ライラは走った。

 腕に我が子を抱きかかえ、死に体の夫を宙に浮かせて運んでいる。

 重量を操作する魔道具を用いて、ふわりふわりと浮かせているためになんとか動かせるが、ライラたちの動きが速いとはお世辞にも言えなかった。

 彼女は戦闘員ではないのだ。

 重りを二つも抱きながらでは、ただの女性でしかないライラがあまり速度を出せないのは当然だった。


 白い雪の中で、足跡を作る。

 そうしなければ逃げられない。

 早く逃げなければ確実に殺されるだろう。

 この戦いはそういうものだと分かっているし、これまでの人生でのほほんと過ごしていれば事態が好転するなどという勘違いはしない。

 世界は都合良く出来てはいない。


 だから、ライラの判断は何よりも早かった。

 フィリップが負ける可能性をはじめから予想し、保険を作っておいた彼女は、フィリップからすれば本当にファインプレーとしか言えない。

 最高のタイミングで発動したソレは、頭目の男から渡されていたスクロールだ。『転移』の魔術が込められたソレを、フィリップの生命力と結び付けて発動するように設定していた。

 死にかければライラの手元に移動する。

 フィリップにアレコレ言って背を押して送り出したのも、フィリップの逃げ道をライラ自身が用意したからこそだ。フィリップの事を信頼はしているが、だからと言って何でも彼の行動を許すほど愚かではない。

 


「うう、うええぇぇん!」


「あ、ゴメン、ゴメンね……」



 泣き出す我が子をあやしながら、ライラは進む。

 意味はないかもしれないが、全霊をかけて音を消しながら進んでいたのだ。ただでさえ目立つ見た目ではあるが、それでも出来る限りはしなければならない。

 しているという自覚がなければ、不安でどうにかなってしまいそうだったのだ。


 なにせ行くあてもない。

 見通しが無い事がとにかく不安でしかない。

 しかし、見通しなどなくとも、どこへなりとも進むしかない。

 目的地などない。安寧を得られる場所ならどこへでも、と揺蕩うように進んで行く。とにかくその場から離れねばと必死だった。

 

 雪が冷たく、ライラを苦しめる。

 ただでさえロクに動いた経験の少ない彼女だ。

 いつもより重い体を引きずって、凍りそうな肺がズキズキと痛んで、死にそうになりながら走る。

 体がいつもよりずっと冷たい。それは天候のせいなのか、緊張のせいなのか分からない。恐ろしく気温が低いはずなのに、冷や汗を抑える事が出来なかった。



「うやぁああああ!」


「ごめんね、お母さん弱くて、ごめん……」



 もしも自分が強ければどうなっていたのか?

 仮にフィリップと並ぶくらい強かったのなら、フィリップ一人にここまで押し付ける事もなかった。

 一人では勝てずとも、二人なら出来たのかもしれない。腕を失うほどの戦いは、もっとマシになったかもしれない。


 娘の泣き声が酷く大きく聞こえる。

 いつもなら、どれだけ喧しくても微笑みながらあやす事が出来るというのに、この時だけは自分の笑顔が引き攣ったものに感じた。

 それを感じ取ったのか、娘のフィーラは一層大声で泣き始めた。

 焦りと恐怖がライラの心を乱す。

 ライラも泣いてしまいそうだった。



「私が、頑張らないと……」



 自分に強く言い聞かせる。

 折れそうな心を叩き直して、このどうしようもない状況を解決か、好転させなければならない。

 フィリップという天才のようにとはいかずとも、持てる力の全てをもってそうしなければならない。凡人で、弱いライラにはとても難しい事だ。そして、難しいから出来ないとは言えない状況だ。



「ごめんね、フィーラ、フィリップ……。私が家族で、本当にごめんね……」



 髪が黒でなければ。

 肌が褐色でなければ。

 目が赤くなければ。


 なにか一つでも違ったら、こんな事にはなっていなかったかもしれない。

 ただ、泣きたくなってしまう。

 そして、納得出来ないと顔を歪める。

 どうして色が他人と違うだけで、ここまで苛烈に排されなければならないのか。

 悔しくて、悲しくて、どうにかなりそうだ。


 

 すると、



「ら、いら……」


「フィリップ!」



 フィーラと自分以外の声がする。

 いつもは優しげな彼の声。だがこの時はまさに死ぬ寸前の弱った声をしていた。

 声を聞けた安心と、死にかけている彼への心配が入り混じる。気が付けば、ライラの頬には涙が伝っていた。良い意味か悪い意味かは、ライラ本人にも分からない。

 けれども、意識があるのなら良かった。

 とりあえずは死なないだろうと判断して、歩を進める。心なしか足に力が強くこもって、先程よりも速く進んでいるように思えた。

 最悪の流れだったが、少しは持ち直した。

 ライラはそう思う事にした。そう思わないと、もう前には進めなくなってしまうと思った。



「フィリップ、ごめんなさい。行かせた私が間違いだった! あの時と同じで、逃げれば良かった。でも安心して! もう少しで安全な所に着くから!」



 から元気だった。

 とにかく自分がされたように元気付けようと、下手くそな嘘を吐いている。

 人生のパートナーとして、絶対に見捨てたりはしないという覚悟がある。フィリップを支える最も身近な女という役目を達するつもりだった。

 

 だが、フィリップは掠れた声で、



「おいて、いけ……」



 フィリップは言う。

 ライラの心遣いを無に帰し、台無しにする言葉だ。普段のフィリップなら、ライラの優しさを拒絶するような発言をしない。そんな寂しいことを言ったりしない。

 

 ライラはショックを受けた。

 そして、どこまで自分が役に立たないかを痛感して、悲しそうに顔を歪めた。

 フィリップには、その様子は見えない。



「く、ららを、救うん、だ……。僕は、まだ負けて、ない……。ここで引いたら、誰もたすからない……」


「フィリップ……」



 他人の事ばかりだった。

 どこまでも救おうと足掻くフィリップの生き方が、ライラは好きだ。けれども、フィリップはもう負けている。これ以上はライラは許容する事が出来ない。

 悲しみを呑み込んで、ライラは言う。



「フィリップ、もう終わりなの」


「らい、ら……」


「負けたの。もう逃げるしかない」



 ライラは足を止めなかった。

 そんな暇はないと言わんばかりに、冷たい雪を掻き分けながら進んで行く。こぼれそうな涙を呑んで、フィリップに厳しく言い放つ。



「救えなかったの。もう、駄目なの」



 苦しみながら、ライラは言う。

 ライラが好きなフィリップを否定して、拒絶するしかないのだ。

 そうなるように状況が成ってしまった。

 悲しみと苦しみの狭間で、心が押し潰される。フィリップに残酷な現実を突き付けなければならない。



「ライラ……僕は、勝てる、勝ってきた……! 今回も、へっちゃらだ……君を、幸せに、」


「だから、もう駄目なの!」


 

 フィリップに敗北はなかった。

 かつてないほどの天才である事は変わりないし、これまでその才能を磨き続け、強くなれるだけの努力をしてきた。

 確かに、それで十二分に救えてきた。

 ライラもそうして救われたし、同じように救われた人間も数知れない。だから、フィリップは真正面から否を叩き付ける事などなかった。

 救われた者たちは救いを求めた。

 フィリップは正しく救いを与える能力があったし、能力の通りに救いを与えた。それが彼の生き方であり、生き様なのだ。それを否定する気は一切ない。

 しかし、負けてしまった。

 彼の能力が及ばなかった。



「僕、は……」


「もう駄目なの! もう負けたの!」



 悲しくて、苦しくて。

 胸がはち切れそうになりながら、ライラはなんとかフィリップを収めようとする。

 フィーラは両親の重苦しい雰囲気に当てられたのか、泣くのではなく、怯えたような表情のまま固まっていた。

 だが、我が子の恐怖に二人は気付かない。

 お互いがお互いに必死で、他を認知出来ない。



「まだだ、僕が負けたことなんて、なかった……! 君を、不安にさせて、ゴメン! でも、僕は……!」


「違うの、フィリップ! 貴方で駄目だったなら、それは他の誰でも無理だったのよ! 今はとにかく逃げましょう!?」


「なら、なおさら僕がやらないと!」



 不毛な言い合いは止まらない。

 お互いの意見が食い違って、致命的なほどに合わなかった。このままいつまでも話を続けるのではないかと思える。フィリップもライラも、どちらも止められなかった。非常時だからこそ、感情のコントロールが難しくなっている。

 そして、足も止まらない。

 ライラは強い危機感に無意識に従って、一層足を速めていく。



「お願い、フィリップ! これだけは駄目よ! 助けられないの! もう終わったの!」


「でも、僕は……!」



 ライラは焦る。

 呼吸の間隔が少しずつ短くなっていく。

 様々な言葉が頭の中で高速で巡り、



「私たちも助けてよ!」


「…………!」



 一番、フィリップに効く言葉を吐いた。

 ライラが彼の妻になってから、最も厭った言葉だ。彼の重荷にはなりたくない、理解者として隣に居たいという淡い願いを踏み躙る言葉だ。フィリップに救われるだけの、特別な誰かでもない、ただ彼の下に居るだけの人間の言葉だ。

 ライラは泣いた。

 堰を切ったように、ボロボロと大粒の涙を流しながら、フィリップの顔を見れずに歩いた。


 そしてフィリップは、



「ゴメン、焦ってた……」


「うん……」



 罪悪感でいっぱいの声で答えた。

 ライラは変わらずに泣くばかりだ。


 お互い、相手のそんな所を見たくない。

 けれども、そうなってしまった。

 悲しくて苦しくて、どうすればいいのか分からない。普段なら何気なく話をするはずなのに、この時ばかりは。

 しかし、



「この後話をしよう」


「…………!」



 それがフィリップの気遣いだと分かる。

 この後は逃げて、逃げ延びて、いつも通りに話をしようと誘っているのだ。

 話し合いたいと歩み寄っているのだ。

 どんな謝罪よりも、話をしてくれるという『これから』を言ってくれただけで、ライラは嬉しかった。

 


「うん、しよう……! フィーラと三人で、ずっとずっと話をしよう……!」


「ありがとう……」



 歩みは止まらない。

 止めてはいけない。

 ずっと話をするために、




「そこで止まれ」



 声がした。

 ライラたちのすぐ前に降ってきたソレが出した、降りしきる雪よりもなお冷たい声に震えた。

 凄まじい音と衝撃がライラたちを襲う。

 しかし、フィリップの咄嗟の結界の魔術で、ソレの登場で生まれた余波からは無事だった。



「…………!」



 黒い髪の、少女だった。

 漆黒の髪とそれと同じ瞳、雪のような白い肌をした、可憐な少女だ。

 無骨なメイスを片手で握り、神官服で身を包む彼女は、出来たクレーターの中心でこちらを見つめる。

 極寒の吹雪よりもなお冷たい瞳を向けている。


 だから、ライラは足を止めた。

 止めてはいけない足を、止めてしまった。



 ※※※※※※※※※



「クララ……」


「しぶといですね、フィリップさん」



 旧知の者に名を呼ばれたというのに、クララは親しさなどまるでない態度でいた。

 ただの路傍の石を見るように、フィリップという個人ではなく、殺すべき異端の一人として見ているように思える。

 けれども、その態度も正しいものだ。

 クララはフィリップに死をもたらす死神として、この場に遣わされたのだから。



「クララ、君も、しつこいね……」


「貴方こそ」



 お互い様だ。

 クララはフィリップの救いを拒絶し続けた。

 フィリップはクララに手を差し伸べ続けた。

 その末がこの結果なのだ。

 二人の望んだ結末はどこまでも食い違い、二人の能力を比べあって、より高かった方が運命に選ばれた。



「残念ですよ。あの時死んでいてくれればよかった。わざわざありもしない幻の希望に縋るのなら、無駄な絶望なんてすることなく死んでくれればよかった」



 クララは冷たく言い放つ。

 触れたくなかったものに触れるしかなかったこの状況に、唾棄している。

 どこまでも突き放す内容だったが、本音なのだ。さっさと死んでいれば、無駄な労力を使うこともない。それに、フィリップとそれ以上関わることも無く、おそらく思い出す事もない。

 こうして生きているから、無駄な心が働く。

 


「最期になにか言い残す事は、ありますか?」



 無駄な事を聞いてしまう。

 知り合いだからこそ、かつては関係を築いていたからこそ、聞いてしまいたくなった。

 クララの中にある、ほんの僅かな情がそれをさせる。クララの心を傷付ける行動をわざと取ってしまう。



「死にたくないって言えば、君は分かってくれるのかい?」


「…………」



 気持ちが分かる。

 誰よりも死にたくないと願う少女に、その言葉は深く届く。

 フィリップはそれを分かった上で言ったのだ。どういう意図があったのか、クララには分からない。

 クララはキツく拳を固める。

 


「性格が悪い……」


「ごめんね。でも、本当の事だから」



 クララは何を言われても、フィリップたちを決して逃しはしない。

 どれだけ心に響いたとしても、どれだけ殺したくないと思っても、クララは決して手を緩めない。

 クララは、誰よりも強いのだ。

 強いからこそ傷付く事を恐れず、いくつもの傷を抱えて生きている。

 フィリップには、言語化出来ずとも分かる。

 無情で無慈悲な異端審問官をこなしてはいるが、どこまでもいってもその根底にはクララという人間が居るのだ。

 だから、



「君は、なんで幸せを遠ざけるんだ?」


「…………」



 クララは答えない。

 答える義理はないと本人は言いたいのかもしれないが、本当の所は違う。

 考える事もしたくないのだ。

 自分自身をつまらない事だと切り捨てないと、願いが破綻してしまうと思ったから。



「君は何故、自分を大切にしないんだ?」


「…………」



 大切にする価値もないのだ。

 無価値で無感動なナニカだと認識する事で、クララは自分の在り方を肯定しているのだ。

 そうでなければ、ならないのだ。



「君は、」


「それだけか?」



 クララはフィリップの言葉を遮った。

 凪いでいる水面のように、心を揺さぶられる言葉にも平静を保っていた。

 フィリップの言葉はクララに響く。けれどもそれは、クララが聞いてやろうという気になったからこそだ。

 クララが話を聞いたとしても、その在り方にはどんな事があったとしても揺るがない。クララの一番深いところには、ただ一人の人間の言葉以外を受け付けない。



「ボクはそんなものを求めてない。ボクはただ、神にアイリスの安寧を祈るだけだ」


「神が、殊勝なものか……。僕は知っているぞ……神が起こした悲劇の数々を」



 クララは否定しない。

 異端審問官として、神がしてきた事は大体分かっている。そして、神がただ約束を守るほど殊勝な事などまずない事も理解している。

 クララは神を弁護出来ない。

 神を守るための力は持っているが、神を守るための言葉を持っている訳ではない。

 心情で言えば、どちらかと言うと圧倒的にフィリップの方に付きたいくらいだ。

 


「何度でも、聞くぞ? 神に、アイリスを、預けても良いのか? 神は信頼出来るのか?」


「…………」



 神は契約を守る。

 そ(・)う(・)い(・)う(・)存(・)在(・)であるために、神はどんな口約束でも必ず守る。

 しかし、どんな条件でも裏をかき、契約者の意に沿わない行動を取ることくらいは出来るだろう。

 正直な事を言うなら、神は信用出来ない。

 神は、人類にコントロール出来るものではない。

 

 だが、



「神は信頼も信用も出来ない」


「……なら、」


「でも預ける」



 神は、クララを無碍にはしない。

 クララが真面目に、実直に異端審問官をしているからこそ、クララの我儘を聞いてくれる。クララの願いも、ある程度聞いてくれる。

 だから、クララは戦うのだ。

 こちらから裏切らないのなら、それだけアイリスの安全性は上がるはずだから。



「じゃあ、この話は終わりだね」



 フィリップは動いた。

 ライラの手を振り払って、死に体を無理矢理動かして、剣を手にとって。

 満身創痍の状態で、過去最速で動いた。

 クララの目でも追いきれないほどの速度を保ち、クララが『フィリップが消えた』と認識した瞬間、



「が、え……?」


「…………」



 クララの喉は、フィリップの剣に切り裂かれた。

 グルグルとクララの頭が宙を舞って、白い雪の絨毯に赤色を散らしながらぼとりと落ちる。

 落ちた瞬間、フィリップもその膝を折った。



「ふぃ、フィリップ!」


「…………」



 ライラは駆け寄ろうとした。

 目の前の脅威を、敵を討った事に安堵した。無茶を重ねたフィリップを心配した。助かったという喜びが満ちた。

 しかし、



「気は済みましたか?」


 

 クララの声は止まなかった。

 首を断たれたはずのクララの体はフィリップのように倒れることはなく、その場で二本の足で佇む。

 だが、気が付けばそこには頭があった。

 切り落とされたはずの頭は変わらずに雪の上に転がっているのに、体にも頭がある。声を発したのは雪に埋もれた方だが、今現在意識があるのは体に付いている方だ。


 人間ではない


 ライラはつい思ってしまう。

 見目こそ麗しい美少女には見えるが、その皮を被った化け物だと嫌でも分かった。

 それだけクララは気味が悪い。

 その漏れ出る権能の一端でさえ、気持ち悪すぎてライラは何も言えなくなる。



「貴方ではボクを殺せない。その攻撃も、どれだけ素晴らしくともボクの命には届かない」



 心からフィリップを哀れんだ。

 清く正しくを地で行く、強い人間だった。

 それが自分のような意地汚く、間違いばかりを信じる人間に潰される。

 クララは、生きるべき人間が掴むはずだった幸せを握り潰すのが仕事だ。

 だから、くだらないことを考えてしまう。

 なぜもっと上手く、自分のような外道に関わらないように立ち回らなかったのだろうか?

 


「クララ……」


「フィリップさん……」


 

 フィリップはもう立ち上がれない。

 誰かを守る力はない。

 救うと語った彼には結局、何も救えなかった。

 だが、その無様に這いつくばる姿を、クララは嘲ろうとは欠片も思えなかった。

 そして、お互いがお互いの顔を見る事が、最期の時間であるに関わらず、出来なかった。

 

 

「ライラは、美しいだろう? フィーラは、可愛らしいだろう? 彼女らを、君に、君たちに、見せたかった……」


「はい。見たら分かります」



 どこか誇らしげに、けれども弱々しく言う。

 それをクララは優しく、強く肯定した。

 そうする事が一番の手向けだと思ったからだ。


 それだけ聞くと、フィリップはほんの少しだけ満足そうにしてから、息を吐いた。

 そして、最期の願いを告げる。

 


「ねえ、クララ……。僕の宝物たちを、見逃しては、くれないかな……?」

 


 フィリップは、涙を流しながら言った。

 片膝を突き、剣を支えにして、顔を俯かせたままに、血と涙をボロボロと流し続ける。

 それだけの言葉に、フィリップの願いの全てが詰まっていたように思う。


 クララはその小さく丸まったフィリップを見て、ただ一滴だけ涙を流す。

 たった一滴の、致命的な涙だ。



「待って、フィリップ!」


「ごめんね、ライラ……」



 クララはフィリップの肩を抱いた。

 存在しない右腕は、確かにフィリップの肩に手を回して、優しく彼を包んだ。

 クララは、泣くフィリップの耳元で優しく、心からの称賛と共に囁いた。



「お疲れ様でした」


「まっ……!」



 フィリップは薄く笑って、泣く。

 ライラは叫びをあげる。

 フィーラは何かを察して泣きじゃくる。


 クララは、左手でフィリップの心臓を抉った。




「…………」


「ふぃ、りっぷ……?」




 ライラは動かない彼の名を呼ぶ。

 意味もなく、届くはずもないのにだ。

 

 クララはそっと立ち上がる。

 もう用はなく、必要もないのだ。

 フィリップの体は支えを失って、それからあっさりと、パタリと倒れた。

 クララはフィリップを見なかった。

 クララの中にあるフィリップへの称賛と、言葉にしてはいけない感情が、フィリップの顔を見てはいけないと訴えていたからだ。

 誇り高い彼の涙など、見てはいけない。

 そして、涙を拭う資格が、クララにはない。

 


「フィリップ!」


「うえええあああ!」



 ライラはフィーラを抱きかかえながら、必死の形相で事切れたフィリップに駆け寄った。

 その悲鳴にも似た声をあげている。

 なんとも耳障りで、聞いているだけで悲しくて、ただ胸が苦しくなるような声だった。

 


「ねえ、嘘でしょ……? フィリップ? そんな、貴方が、貴方が死ぬはずないじゃない!」


 

 物言わぬフィリップを揺さぶる。

 血を流すだけで、身動きなどする気配もない。

 もう既にその魂は、フィリップの体には宿っていない事が、クララには良く分かった。



「話をしようって言ったじゃない! まだこれから、やりたい事も沢山あるでしょ!? フィーラの将来も、私たちの人生もまだまだこれからでしょ!?」


 

 この叫びは聞くに堪えない。

 聞くたびに、クララの心に傷を付ける。

 小さな擦り傷が少しずつ、少しずつ出来ていく。 

 


「ねえ、フィリップ! フィ、うあ……!」


「ええぇぇえええん!」



 クララはライラの喉を掴んだ。

 苦しさから思わず腕に抱いたフィーラを落とす。雪がクッションになったために致命的でない。しかし、あまり赤ん坊にとって良い衝撃ではないだろう。

 雪の上で大いに泣き喚くが、クララは無視した。

 大きくライラを上に持ち上げる。

 苦しそうに顔を歪めるライラと、表情をいっさい変えないクララの目が合った。

 


「く、らら……!」


「はじめまして、ライラさん」



 フィリップに負けず劣らずの涙を流す。

 その涙も、すぐに血に変わりそうなほど、ライラは憎しみと怒りと悲しみを滾らせる。

 だがその激情は、何一つとしてクララには響かないし、届かなかった。 



「この、ひとでなし、め……! お前が、今、手にかけた、人がどういう人か、」


「知っていますよ。ボクみたいなロクでなしにも手を差し伸べる、呆れるくらいのお人好しです」



 ライラは自分を捕まえる左腕を強く握り、思い切り爪を立てるが、それは皮膚に刺さらない。どこか物憂げにも見えるクララの表情すら変えられない。

 悔しくて悔しくて、突き刺さらない爪にさらに力を込めて、逆に爪から血が出るほど力を込める。



「なら、なぜ、殺した……? 私たちが、お前たちに、何をした……?」


「何もされてません。それに、フィリップさんの事です。サルベ襲撃の時も、誰も殺してないんでしょう? あと勘ですが、貴女も人を殺した事がない。貴女たちは殺されるような事はなにもしていない」


「じゃ、なん、で……!」



 クララは異端審問官だ。

 どこまでも異端に対して冷たく、強くあらねばならない。だから、クララは分厚い仮面を被り続ける。

 クララの異端審問官として優秀なところは、その仮面も本心だという事だ。強く、冷たく、無情な本心で、必要のない本音を覆い隠してしまう。



「神が、そう決めたからです」



 酷い答えだったろう。

 これでもかと理不尽を詰め込んで、全力で叩き付けられたようなものだ。

 人の命を手折るには、あまりにも薄い。

 その程度の事で、その人が得るはずだった幸せを蹂躪してきたのか、とライラは思う。

 

 目の前のコレをフィリップは救おうとした。

 初めて彼が理解出来なかった。

 確かに、知り合いがコレになったのなら、元に戻したいと足掻くだろう。けれども、ライラからすれば、手遅れだと投げ出してもいいと思えてしまう。

 


「神が白を黒だと言えば、それは黒になる。フィリップさんは正しくても、殺すしかなかった」


「ふ、ざけ……!」



 さらにクララは力を込める。

 ギリギリと万力のような力で首を締めていき、声にならずに喉の奥から空気が漏れる。

 クララは小さく、首を横に振った。



「フィリップさんの願いも叶えられません。しかし、彼の最期の願いを無碍にするのも気が引けます」



 ライラはキツく睨む。

 涙と血混じりの唾液つたり、ポタポタとクララの腕にかかっていく。

 クララは平坦な声で続ける。



「娘さんだけは、生かしてあげますよ。殺しても意味がないですしね」


「…………」



 それは、クララの慈悲だった。

 死にゆく者へ、せめてその最期が安らかになるようにという無意味な気遣いだ。

 まったく変わらない表情で、まったく変わらない声色で、なんの感慨もないかのように言った。


 さて、殺そう


 力を強めていく。

 ライラは苦しそうに足をバタつかせ、爪が剥がれそうになるほど手に力を込める。さらには、怒りと憎しみと悲しみで歪んだ顔を苦痛によってより一層歪ませた。

 そして、



「う、ぞ、つき……」




 ボキンっ!



 そして、ライラは、死んだ。

 首を折られて、確実に死んだ。

 

 クララは虚ろな目をライラに向ける。

 だらりと手足を投げ出して、もう動く事のない彼女の体を優しく抱えた。

 片手で強引に掴むままではなく、足と体を両手で抱えて、丁寧に、優しく運んだ。

 そして、フィリップの横にそっと寝かせる。



「…………」



 最期の言葉を、クララには理解出来ない。

 誰かに向けられたものだった気がする。しかし、それはクララなのか、フィリップなのか分からない。

 もう少しだけ、安堵してほしかった。

 娘だけは助かると言ったのだから、それを嘘だと見抜かれていたとしても、ただ安心してほしかった。

 フィリップという男のパートナーを務めた女性に払う、クララに出来る最大限の敬意の形であったのだ。


 しかし、気に召してもらえなかったらしい。


 クララはどうでも良さそうな、無気力な目をどこかへ向けた。

 何もかもがどうでも良くて、自分がどこを見ているのかもどうでもいい。

 無駄で無為な事ばかりで頭が痛い。

 クララは仕方がないから帰ろうとして、



「うえええええん!」


「…………」



 泣き叫ぶ赤ん坊が視界に入った。

 状況など理解出来るはずがないのに、恐怖するように、両親の死を悲しむように、ただ泣いていた。

 無駄に元気に涙を流す姿を見ると、封印していた感情が少しずつ湧いてくる。

 言葉にしてはいけない想いが溢れる。



「わあぁぁあああ!」



 しかし、クララの仕事とクララの感情は、全くもって関係のない話である。

 あくまでも、先の言葉は気遣いだ。

 ちょっとした気まぐれと、感傷からそう言っただけで、約束を守る気などはじめからない。

 転がっている二人の子どもであるフィーラも、普段通りに、例外なく黄泉路に送る。今さっき、二人をその手にかけたように、容赦も慈悲もなく。



「うええええああ!」


「よしよし……」



 クララはフィーラを、優しく抱きかかえた。

 そこに大した意味はないし、いまさら助けたいと思った訳でもない。

 なんとなく、フィリップは自分をフィーラに会わせて、こうしてほしかったのだろうと思っただけだ。

 コレが終われば、後は思い返す事でしかこの一家に対して関わることが出来なくなる。

 そうなる前に一度だけ、願われた事をやってみたかっただけだ。

 だが、それももう終わり。

 かける慈悲は使い果たした。

 これから、まだ自分の足で歩けるかも分からない赤子を襲うのは、世にも恐ろしい異端審問官のクララだ。


 クララは指をフィーラの首に持っていく。

 せめて、真っ白な彼女には痛みも感じる間もないように、一瞬で殺すつもりだった。

 そして、





「……さよなら」


『ちょっと待って』

 



 声がした。

 先程とは明らかに違う、凄まじい神聖さが辺りを支配したのだ。

 泣きじゃくっていたフィーラが安らかに眠る。

 明確な異常だ。


 この、誰(・)で(・)も(・)な(・)い(・)声の主をクララは知っている。

 知らない訳がない。

 干渉などしてこなかったくせに、いまさら何だというのだろうか? 

 クララは青筋を立てる。

 この殺しに意見を立てられるのは不愉快だ。



「なんの用?」


『その赤ん坊、殺さないでよ』



 いまさら、何をふざけた事をぬかすのか? 


 クララの圧が膨れ上がる。

 常人ならその場に居合わせれば、圧死してしまうほどの膨大過ぎる力の本流だった。

 だが、神は愉快そうに言うだけだ。



『その子は信仰心なんてないし、殺しても意味がないからね。無意味なら、殺す必要もないよ』


「あ?」



 いったい、何をふざけた事をぬかすのか?

 

 これまで神の命令の通り、凄まじい数の赤ん坊をクララは殺してきた。

 なのに、今そこに文句を付ける理由などない。

 


『ま、君の言いたい事は分かるさ』


「分かってて言うなら、良い度胸してる……!」



 クララは天を睨み付ける。

 だが、



『今回の事、アレンにも話したんだ』


「?」


『そしたらね、彼、必死になって僕を説得しようとしたよ。僕から今(・)の(・)言(・)い(・)訳(・)を言うなら、クララは聞くだろうってね』


「――――――――」



 声にならなかった。

 ふざけるな、なんでそんな余計な事を、この性悪邪神、今すぐ殺した方が良い。言い分は沢山あるはずなのに、言葉として上手く口にする事が出来ない。

 


『じゃ、その子は君の好きにしな』


「…………」


『まったく、アレンは良い男だね』



 神の気配が消える。

 クララはただ、二人の空間に取り残された。

 天を仰ぐクララは、なぜか哀れだ。

 誰にもクララの顔を見る事は出来ず、クララの心情などこの世の誰にも分からない。

 しかし、



「終わりだ」



 そう、小さく呟いた。

 フィーラにフィリップたちの亡骸を見せないように胸に抱きながら、これからどうするかを考える。


 こうして、物語は幕を閉じた。




 ※※※※※※※※



「まだ終わりではない、そうだろう?」


『…………』



 シモンは混乱する街の中で、誰かに呟いた。

 

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