86、致命
「ゲハっ! ガハッ!」
フィリップは盛大に吐血した。
白く染められた雪の絨毯に赤色が混じり、フィリップの場所だけひどく目立つ。
内臓が傷付いたかもしれない。
衝撃で肋骨も何本かイカれただろう。
とんでもない重傷だ。
だが、生きている。
危うく死ぬ所だったが、ちゃんと心臓も脳も活動し、魂は体に留まっている。
フィリップは本当に生きていて良かったと、ホッと息を付いたが、本当に危なかった。
肝が冷えるどころではない。寿命が十年縮んだと言われても納得しそうなほどギリギリで、死んでもおかしくはない場面だったのだ。
「あ、ぶな、かった……」
受ける衝撃を吸収する魔術『ロストショック』
受ける衝撃を削ぐ魔術『デリートショック』
伸縮性のある障壁を生みだす魔術『結界・柔』
ただ硬いだけの障壁を生みだす魔術『結界』
前方に衝撃波を飛ばす魔術『インパクト』
これらの魔術をそれぞれ最低でも五重にして、一瞬の内に発動した。
天才的な手腕だ。
フィリップの本能は、反射的に最速で最適の動きを導き出し、実行した。これを咄嗟に出来るものは、世界でも十人は確実に居ない。フィリップの魔術の高速、多重展開は眼を見張るものがあるが、この土壇場でその能力がさらに昇華した。
「フー……フー……」
荒くなる息を少しずつ整える。
それに伴い、体内の魔力の流れを変える。
傷付いた部分にはより多く、密度を高めて、魔力によって身体能力を高めるのと同じ要領だ。
再生能力を強め、戦闘に障る傷を回復していく。
難易度だけで言えば、世界でも数えるほどしか使い手の居ない技術だ。一応フィリップも使えてはいたが、それは掠り傷を治す程度。戦闘中に使うには実用的ではなかったが、今はそのレベルでは収まらない。
フィリップは集中する。
今、出来ない事を出来るにしなければ死ぬから。
まだクララと話をしたいのに、まだ会いたい人が居るのに、まだまだ見ていたい人たちが居るのに、生きていたいのに、死ぬ訳にはいかない。
その目にはまだ希望が残っている。
クララの強さは知っているし、実力差がある事も分かっている。それでも、クララに対して何も出来ない訳ではない。
「く、らら……」
フィリップには、神を打倒する使命感はない。
神を倒さねばと思ったのは仕方なくだ。
勧誘の時に見せつけられた最悪の光景など、後から来た理由でしかない。
神を倒さなければならないのは、神によってライラの命が脅かされるからだ。何物にも代えがたい彼女を殺そうとする神を、許せなかったからだ。
フィリップは思う。
何故神は自分たちが静かに暮らす事を、快く許してはくれないのだろうか?
彼の神が、ただ一人生かす事を許してくれるだけで、こんな悲しい事は起きなかったというのに。
クララの目を思い出す。
深く、暗く、悲しい瞳だ。
誰よりも神聖術を使いこなし、誰よりも神を深く理解し、誰よりも神に抗う気を無くしている彼女。
アイリスのために自分を殺してあらゆる苦しみを甘んじて受ける覚悟があり、これまで実際にそうしてきた。
その生き様を、不憫としか言えない。
フィリップはただ、悲しい。
そんな報われない生き方をしている彼女を、心の底から哀れんでいる。
「クララ、クララ……」
自分を大切にしてほしい。
苦しまないでほしい。
もっと幸せに生きてほしい。
どうして、この願いは叶わないのか?
神の手足として生きる事に、人並みの幸せなどあろうはずがない。なのに、クララはなんの躊躇いもなく煉獄の道を突き進む。どれだけ身を焼かれても、アイリスのためならといくらでも耐え続ける。
しかし、その大切な宝は神の手元だ。
神がその気になれば、何をされるか分からない。
確かに『聖女』は教会の象徴の一つとして数えられるが、神が気まぐれに彼女を壊さないとは言えないではないか。歴代の『勇者』と『聖女』の記録をどれだけ探っても、その最期を書いたものは見つからないのだ。
神は信用出来ない。
それに、頭目の男が言っていた。
これまで描かれた歴史には、
「神に、気を許してはいけない……」
許してはいけない。
赦してはいけない。
フィリップは魂の底から訴える。
それだけは、してはいけない。
嗚呼、確かに自分が無知である事は知っている。
けれども、神はダメなのだ。
これまで生み出した悲惨な光景だけではない。神が人をもて遊んできた歴史を、神が作り上げてきた虚構を、フィリップは見抜いている。
その事実を知った上で、クララはアイリスのために動いてきたのかもしれない。だが、その覚悟を否定してでも、フィリップはクララを神の元から連れ戻さなくてはならない。
「…………」
深く、深く集中する。
クララの必殺の攻撃に対して、反射的に生存の道を作り出したあの時のように。
怪我の痛みが少しずつ引いていくと共に、フィリップの集中力と魔力操作の精度も上昇していく。
彼の体内では、魔力が凄まじい密度で練り上げられていった。まるで彼の想いを閉じ込めて、その体で表現したかのように、だ。
フィリップは、クララという一人の少女を想いながら魔力を繰う。
「話を、聞いてくれ……」
「それは出来ない」
真っ白な大地を、二人目が踏む。
その曇天は二人の悲しい運命を表すかのようだ。
二人目、クララは冷たい声で語る。降りしきる雪よりも遥かに冷たい、身も凍るような声で。
「話すべきことは終わった。もうボクらは殺し合うしかないんだ」
「違う……。ボクらは、まだ、やり直せる……」
クララは小さく首を横に振る。
それは、明らかな拒絶と否定だ。
フィリップの想いに対して、真っ向から唾を吐き捨てる。あらゆる反抗を諦めているクララにとって、これ以上の話し合いなど論外でしかない。
「時間がない。これから発動しようとしている魔術を止めるには、ちょっとばかり手間がかかる」
「……クララ。君には、出来るはずだ。神の喉元に刃を突き付け、アイリスを取り返す。昔の君なら、なんの躊躇いもなくその道を選んだだろう?」
フィリップの言葉を、クララは取り上げない。
その価値もないとでも言うように、無言でフィリップに向けて歩みを進める。
メイスを脳天に振り下ろすつもりだ。
死に損ないに最期を与えてやろう、という軽い気持ちで、無慈悲に無情に歩み寄った。
「クララ。僕は、まだやり直せると思う。また七年前のあの時に、戻らないか? アイリスが居て、アレンが居て、皆楽しくに暮らせてたあの頃に」
「…………」
「神と手を切ってくれ。今の報いのない寂しい時間を与える神よりも、僕たちを、僕を取ってくれ。僕はただ苦しむだけの君を、救いたいんだ」
クララは、何一つ表には出さない。
渦巻く激情を全て己の中に抑え込んで、フィリップには悟らせなかった。クララの強さは、こういう場面で本当に役に立つ。
クララは決して鈍らないのだ。鈍りそうなら勝手に自分を研ぎ澄まし、絶対にその刀身が壊れる事はない。
だから、どれだけ魅力的なものを吊るされたとしても、クララは決してなびかない。
たった一つの欲のために全てを捨て去ったクララに、精神に死角は一切ない。
「クララ、頼む……」
「…………」
クララは衰えない。
敵に情けをかける事はない。
一歩、また一歩とフィリップに死をもたらすために、前へ前へと進んでいった。
フィリップにはもう声すらかけない。
これ以上は付き合っていられないのと、自分から鈍る原因を作ろうとはしないから。
クララはどこまでも愚かな選択肢をあえて取ろうとするフィリップを、やはり嫌いにはなれないのは、救う対象があくまでもクララ自身だからだろうか?
「頼むから、クララ……」
「…………」
「僕に君を殺させないでくれ」
クララは走り出した。
やれるものならやってみろ、と言うように。
一歩目は静かに踏み出される。
ただ力を込めるための土台を作り出しただけ。体勢は低く、クラウチングスタートにも似た、二歩目以降を速くするためだけの準備だ。
その姿勢から踏み込まれる二歩目は、クララの力の全てを込めている。周囲の大地がヒビ割れ、クララの小さな足の形がくっきりと刻み付けられる。しかもコレはまだ攻撃ではなく、その前段階だ。
そして、三歩目。
クララの体は弾き出された。
まさに砲弾の弾のように、爆発的な加速をかけながらフィリップに向けて、その命を刈り取らんとした。
「…………」
動かないフィリップを見て、クララは勝利を確信する。
これには、重傷の彼では反応すら出来まいと。
感慨は湧かない。
それだけ殺しても、それが知り合いだとしても、そんな余分なものは無かった事にしなければならないのだ。
クララは愚かなフィリップを責めない。
その愚かさで、救いようのないクララを救おうと足掻いた事を、クララは決して忘れない。仮に妻と子を見つけたとして、それを殺せるのはせめて自分でありますように、とくだらない願いを込めながら。
クララは『さようなら』を心で告げた。
しかし、
「!」
「甘いよ、クララ」
返す刀で、メイスの柄を斬られていた。
ちょうど先端の打撃部分の少し前、フィリップに当たるはずだったその個所が、きれいな断面を晒している。
重たい先端がボトリと落ち、メイスは壊れる。
クララは驚愕を隠せない。
こんな芸当、シモン以外にされたことはない。
「…………!」
だが、そこで攻撃の手を緩めないのがクララの強さだ。
何よりも速く、そして早く蹴りを放つ。
クララの放った超速の蹴撃は、音を遥か後ろに置き去りにして、真っ直ぐにフィリップの顔面に吸い込まれて、
「もう、見切ったよ」
フィリップの声がクララの耳に届く頃、クララはまたもや驚きで顔を歪める事になる。
なんと、フィリップはクララの右脚の半ばを割り込む形で蹴り上げたのだ。クララの蹴りの軌道は、フィリップの顔面のさらに上にまで押し上げられて、完全に空を切る事になった。
音速超えの蹴りに対して、受け流す事すら不可能に近い攻撃に対して、途中で割り込んだ。
見切った、という言葉が頭を巡る。
「君が魔術を使う目的は、全ては足止め。メイスや蹴りによる物理的な攻撃手段を当てるためのお膳立て。魔術はそこまで強い威力はない。肉体による攻撃が最も破壊力がある」
「…………」
眼を見張るしかない。
確かにその通りではあるが、分かっていて対処出来る事ではないのだ。
肉体の強靭さは語るまでもなく、どんな物質よりも己の体が強いという自信がクララにはある。
必殺なのは、肉体のスペック故のものだ。
仮に相手が王者であろうとも、クララの肉体には間違いなく及ばない。
しかし、
「でも、右手と左足はその限りじゃない。未だに結界で義肢を作っているんだね?」
「まさか……」
思わず、言葉が漏れる。
フィリップとは言葉を交わそうと思わなかったのに、どうしてもそれを止められなかった。
だが、仕方がない。
こんな神業を為されれば、どんな思惑を飛び越してしまうだろう。
フィリップは続ける。
誇らず、驕らず、クララに言い聞かせる。
「既に二回戦った。一度目の件から対策を立ててる。それから二回目はどこがマックスか測っていた。予想以上で慣れるまでに時間がかかったし、無理かと思ったけど、今の僕は高まってる」
死に触れた。
生きたいと足掻いた。
強い願いが、体を叩き起す事はある。
クララはかつて、それを体験した。
七年前に核心を得た時のように、フィリップは己のタガを壊したのだ。
人は死にかけてこそ、己の力を解放出来る。
クララがよく知る、死に対する強い反抗の感情。コレがあるからこそ、クララは高みに辿り着いた。そして、コレは誰もが持っていると、クララは常に唱えてきた。
クララはすぐにフィリップを見抜く。
コレは、自分の亜種だと。
「面倒だ」
殺さなくてはならない。
死を恐れる人間は、何よりも恐ろしい。
一刻も早くコレを除かなければならない。
旧知の仲である事も忘れて、クララは目の前のソレを脅威として強く認識する。
「もう、手加減しない」
「クララ、話を聞いてくれ……」
クララは耳を傾けない。
この覚醒が致命的に、クララの心をフィリップから離してしまった。
面白ければブクマ登録お願いします。
下の☆を埋めてくれると嬉しいです。




